2017年8月13日 (日)

残像に口紅を(その2)

筒井康隆さんの小説「残像に口紅を」のような試みをほかの言語でもできるだろうか?

日本語の場合、原則としてひとつのかな文字がひとつの音節をあらわしているから、世界から「あ」が消えたなら、という設定を立てやすいし、わかりやすい。

しかし他の言語、たとえば英語の場合文字と音節の関係はそれほど単純ではない。

たとえば「Macdnald」は8文字の表記だけれど、2音節だ。

つまり、筒井流の方式でやろうとすれば、世界から「Mac」が消えたなら、あるいは「Dnald」が消えたなら、と言わなければならない。

それにこの種の音節なら、日本語よりもはるかに種類が多く、複雑だ。
小説としてはとても収拾がつかないと思う。

アルファベットは音節文字ではないが、世界からアルファベットが1文字ずつ消えたなら、という仮定にすればわかりやすい。

ただし、ローマ字のアルファベットは26文字しかないから、すぐに世界が消えてしまいかねない。
たとえば、世界から「a」が消えたなら、という仮定を置いただけで、たちどころに行き詰まってしまうかもしれない。

いずれにせよ、小説に仕立てるのは難しそうだ。

中国語ならどうだろう?

漢字はかな文字やアルファベットとは比べものにならないほど種類が多いから、多少文字が消えても、その文字があらわす意味や発音が消えても、その体系はびくともしないかもしれない。

筒井流でやるとすれば、世界の終わりまでたどり着くまでには大長編、大河小説になるに違いない。
その分、退屈になるおそれは十分にある。

このように、世界のさまざまな言語について、その文字や表記の特性、意味や発音の体系を筒井流小説になじむかどうか、という視点から分類してみるのもおもしろい。

幸か不幸か、日本語は世界の主要言語では珍しく音節文字を使っている。
しかも、その音節の種類は世界でも最少レベルだ。

つまり、「残像に口紅を」は日本語であればこそ辛くも成立し小説なのだ。

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2017年8月 6日 (日)

残像に口紅を

筒井康隆さんの「残像に口紅を」(1989年刊)は、日本語の言語音がひとつづつ世界から消えてゆく、という実験的な小説だ。

ふつう用いられる現代日本語の言語音は、50音図に載っている音に濁音、半濁音、拗音、撥音、促音などの特殊音を加えてざっと100あまり。

それがひとつづつ世界から消えてゆくとどうなるのか?

小説では、最初に「あ」と「ぱ」が消える。
すると、「あ」や「ぱ」の音を含んだ語彙が使えなくなる。

たとえば、花の都とうたわれたフランスの首都が言えなくなる。
また、洋風の朝食につきものの小麦粉を原料とする半主食の名前が言えなくなる。

主人公の奥さんは夫に呼びかけるとき「あなた」と言えないので、「もしもし」という電話のような言い方になる。
滑稽でもの悲しい。

語彙が使えなくなるだけではない。
そのことばが指し示していた存在そのものが消えてなくなる。

かつて街角には、小麦粉を原料とする半主食を販売する専門店がいくつもあった。
しかし今はその看板から名前が消えただけでなく、陳列ケースも空っぽになっている。
わずかにクロワッサンがさびしく残っているだけ…。

また、主人公の妻は名前に「く」が含まれていた。
したがって「く」の音が消えた時、妻も消えてしまった。

こうして、音とその音を含む語彙で指示される存在がひとつづつ消えてゆく。
読んでいて、この先この小説どうなってしまうのだろう、と思ってしまう。

文庫本で300ページあまりの長編だけれど、真ん中あたりで20ほどの音が失われている。
つまり日本語の言語音のうち、5分の1ほどが使えなくなっている。

後半になって、主人公の自叙伝めいた部分が登場するけれど、すでに「ち」が消えているので「父」という語が使えない。
だから、「男親」と言い替える。

しかし、そのうち「や」も消えてしまう。
すると今度は、「おれを生んだ男」と言い替える。

こんな具合なのだ。

苦肉の策とも言うべきこんな言い替えがわりと効いていて、中盤あたりまでは5分の1もの音が消失していることにあまり気が付かない。

日本語は80音くらいでもけっこう表現できるものだな、と再認識した次第だ。

しかし…。

終盤が近い第3部は50音が失われたところから始まる。
すでに、半分の音が消えてしまった。

さすがにここまでくると、言い替えも限界だ。
表現もわけがわからなくなってくる。
逆に言えば、筒井康隆らしくなってきたと言えるかもしれない。

この調子で進んで、さて最後に消える音は何だろう?
これはみなさんの楽しみのために、あえて言わないでおこう。

ともあれ、この音が消えるとともに世界が消え小説も終わる。

現実にはあり得ない思考実験小説だけれど、ことばと存在の関係、言語音の数と表現可能性の関係についてあれこれ考えさせられた。

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2017年7月31日 (月)

「ん」の氾濫

11年前の「特殊音の活躍」という記事には、次のような文例が提出されていた。

「わからない」が「わかんない」に。
「お金、くれない?」が「お金、くんない?」に。
「お風呂、まだ沸かないの?」が「お風呂、まだ沸かんの?」に。

ローマ字表記をすればわかるけれど、「ん」に音変化することで1文字ないし2文字が省略される。
その分、発話に要するエネルギーが節約されるのだ。

これらの短縮表現は比較的くだけた場面で使われることが多い。
事情が許すかぎり少しでも発話に要するエネルギーを節約したい、という人間の欲求がいかに強いかを示す例だと思う。

だから、11年前は「特殊音の活躍」に続いて「発話エネルギー節約術」のシリーズに進んでいったのだ。

前回もお話ししたように、古代の日本語には「ん」は存在しなかった。
漢字の読みのために新たに開発された音だった。
たとえば「氾濫=はんらん」という漢語を発音するために「ん」が必要だった。

だから、百人一首には「ん」は登場しない。(「む」を「ん」と発音する場合は別)

しかしその後、「ん」の発話エネルギー節約効果が日本語話者の間で認識されるに及んで、漢字の読みにとどまらず広く日本語表現の中に取り入れられるようになった。

この間の事情は、「では」が「じゃ」に変化するように拗音の分野でも同様だ。

「ん」や拗音は、はじめ漢字の読みのために開発され、そのために特殊音と位置づけられるようになったのだけれど、今やすっかり普遍的な音として日本語の世界に定着してしまった。

いや、定着どころか人々の発話エネルギー節約への欲望のために、いまや氾濫していると言っていい。

わずかに「ん」の氾濫を押しとどめているのは書きことばの世界くらいだろうか?
書きことばの場合は発話エネルギーが問題にならないから、「わかんない」や「くんない?」や「沸かん」という表現は基本的には用いられない。

しかし、今後話しことばの影響が書きことばに及ぶことは十分考えられる。
ケータイやスマホの世界では早くもその兆候があらわれている。

今でこそ、書きことばが孤軍奮闘して「ん」の氾濫を押しとどめているけれど安閑とはしていられない。
いつ堤防が決壊して、「ん」の氾濫が書きことばの世界に及んでくるかわからない。

「ん」の誕生、進出、氾濫ひとつをとっても、万葉や平安の世に比べ日本語の世界の風景はすっかり変わってしまった。
このあと千年、日本語はどう変わっていくのだろう?
ふとそんなことを考えてしまう。

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2017年7月23日 (日)

「ん」の進出

喫茶店「ん」は何軒もあるけれど、日本語では「ん」は語頭に立たない。

だから、何らかの音節に後続する形をとる。

試みに、あ行音にくっつけてみよう。

「あ」に「ん」をくっつけて「あん」。
案内や公安など。

「い」に「ん」をくっつけて「いん」。
印象や病院など。

「う」に「ん」をくっつけて「うん」。
蘊蓄や幸運など。

「え」に「ん」をくっつけて「えん」。
円熟や公園など。

「お」に「ん」をくっつけて「おん」。
音楽や低温など。

つづいて、か行音にくっつけてみよう。

「か」に「ん」をくっつけて「かん」。
漢字や交換など。

「き」に「ん」をくっつけて「きん」。
近海や通勤など。

「く」に「ん」をくっつけて「くん」。
君主や教訓など。

「け」に「ん」をくっつけて「けん」。
健康や債券など。

「こ」に「ん」をくっつけてこ「こん」。
混乱や貧困など。

以下同じである。

これらの音を聞いて思い浮かべるのは漢語ばかりである。
「あん」や「かん」と聞いても、和語が浮かばない。

もともと「ん」は古来の日本語にはなく、漢字を読みこなすために開発された言語音だから当然と言えば当然だけれど。

このように漢字と連動して生まれた「ん」だけれど、発音の便宜のために重宝されて漢語以外の分野にも進出するようになった。

たとえば、「読みて」が「読んで」、「踏みつける」が「踏んづける」になるような撥音便。
それから音便ではないが、「ありませぬ」が「ありません」になるような音変化。
さらに最近の若い人は「なになの?」を「なんなん?」と言うようになった。

母音が脱落してもコミュニケーション上支障がないなら流れがそちらに向かうのもやむをえぬ(やむをえん?)。

これを書いていて、ずいぶん前に同じような記事を書いたことを思い出した。
調べてみると、「特殊音の活躍」というタイトルで2006年1月28日と2月4日の2回、このブログにアップしていた。
なつかしいなあ。

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2017年7月16日 (日)

最後の音

日本語の50音図の中でもっとも重要な文字あるいは音は何だろう?
少し前そんなナンセンスな問いを発したことがある。

その時、私はたわむれの答えとして「な」をあげた。
「な」は人間存在に直結した音だから、という理由でそう答えた。

いやいや、そうじゃない。
やはり50音図劈頭にあらわれる「あ」こそ最重要だ、という意見を述べる人もあった。
なるほどこれも傾聴すべき意見ではある。

では、50音図の最後につけたしのように置かれている「ん」はどうだろう?

「ん」は日本語の言語音の中で特殊な位置を占めているので扱いがむずかしい。

50音図の最後に置かれてはいるけれど、本当は50音図のマトリクスからは超然としている。
置く場所がないので、しかたなく最後に付け足した、というのが真相だと思う。
その証拠に、いろは歌には「ん」はあらわれない。

モーラ的には一つの単位だけれど、音節としては「ん」単独では成り立たない。
音声学的にも「ん」はさまざまなバリエーションがあるそうだ。

どうも一筋縄ではいきそうもない。
なんとなくうさんくさい。

そもそも「ん」をなぜ撥音というのだろう?
どこが撥ねるのだ?

という疑問があって調べてみると、「ん」や「ン」の文字が撥ねた形をしているからだそうだ。
促音などと違って、発音の特性とは何の関係もない。
何だかばかにされたような気分だ。

先にもお話ししたように、「ん」は日本語の音韻システムの中で特殊な位置を占めている。
開音節言語である日本語の中では特異な存在である。

そして、ちょっぴりとぼけたところがある。
そのために、ばかにされたような気分になることがある。

日本語では、「ん」は語頭に立たない。
しかし、ネットで調べてみると「ん」という名前の喫茶店がある。
しかも、チェーンなのか何軒もある。

お店に電話をすると、「はい、んでございます!」という返事が返ってくるのだろうか?
なんとなくとぼけた情景を想像してしまう。

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2017年7月 9日 (日)

1音節語の関西方言(その3)

「1音節語の関西方言」というタイトルでこのブログにはじめて投稿したのは、2005年8月14日のことだった。
ご興味のある方は、バックナンバーを検索いただきたい。

あれからもう12年!

日本語の広大な世界をめぐりめぐって、結局もとの場所に戻ってきた。
いささかの感慨もなくはない。

あのときも、関西方言における声調類似の現象について同じようなことをお話しした。
12年もかかって、われながらあまり進歩がない。

ただ、あのときは気づかなかったこともあるので、ここで補足しておきたい。

前回、関西方言における声調類似の現象には、上昇調と下降調があることをお話しした。

たとえば、「歯」や「毛」は「はあ」、「けえ」と伸ばして発音し、高低の下降調になる。
逆に「目」や「木」は、「めえ」や「きい」と伸ばして発音し、低高の上昇調になる。

しかしこのほかに、音の高さの変化がない平行調もある。
たとえば、「血」は「ちい」と伸ばすけれども、高低の変化のない平行調になる。

それから、しばらく前に話題になった「名」はどうだろう?

これは関西方言でも、そもそも「なあ」と伸ばさないのではないだろうか?
「名」は関西方言でも「な」であると思う。

関西方言母語話者のみなさん、どうだろう?
かりに「なあ」伸ばしたとしても、平行調になるのではないか?

1音節語でも伸ばす場合と伸ばさない場合。
そして、伸ばす場合でも上昇調、下降調、平行調の3種類のパターンが認められる…。

これが、1音節語の関西方言にみられる声調類似の現象のあらましだ。

このような特徴的な現象がどのような歴史的経過を経て成立したのか、とても気になる。
前回は最後のところで中国大陸との地理的近さを指摘して中国語の影響をほのめかしたのだが、本当のところはわからない。
どなたかご教示いただけないだろうか?

ところで、数行上で「気になる」という表現を用いた。
この「気」も、日本語で非常によく用いられる1音節語だ。

「気」も関西方言のルールに従っている。

「気つけや あんたのことやで そのカバン」
という標語を、関西の人に発音してもらうと「きい」と伸ばす。
声調的には、「ちい」と同じく平行調である。

「気」は同じ1音節語でも、「歯」や「目」や「血」と違って字音語である。
つまり、中国から渡ってきたことばである。

それでも、関西方言の中に入ったときはそのルールに従わざるを得ない。
方言ルールの強力さをあらためて感じる。

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2017年7月 2日 (日)

1音節語の関西方言(その2)

日本語の五十音図の中で、もっとも重要な音または文字は「な」である。

前回はそんなへんな宣言をした。
その理由として、意味上、音声上の事実をいくつか挙げたけれども、われながらこじつけめいているような気もする。
だから、この宣言にはそれほどこだわらない。

人によっては、図の劈頭に位置する「あ」がもっとも重要である、とお考えかもしれない。
そもそも宣言自体ナンセンスだから、奇説、珍説がいろいろあっていい。
そのほうがおもしろい。

ただ、前回もお話ししたように、「な=名」だけでなく「ち=血}、「て=手」、「め=目」、「た=田」、「き=木」など、1音節の日本語は人間存在にきわめて密着した重要かつ基礎的な語が多い、という事実にはみなさん納得していただけることと思う。

世界の諸語でも人を指すことばつまり人称代名詞はたいてい1音節語である。
1音節語は人間存在に直結している、というのは人類共通の事実だと思う。

系統発生的な視点から考えても、自然の成り行きとして人類の言語は1音節語から始まった、と言ってそれほど見当はずれではあるまい。

ただ、それほど重要な役割を果たしている1音節語だけれども、音声言語の中ではその位置が不安定である、という難点がある。

つまり、短かすぎて寸足らずの印象があるのだ。
尻切れトンボのように、ことばの流れの中でおさまりが悪いのだ。 

「な」とほとんど同じ意味の3音節語「なまえ」がよく使われるのも、この難点を克服するための知恵なのかもしれない。

私の地元、関西の方言では音を伸ばすという方法でこの難点を克服しようとしている。

つまり、「め=目」が「めえ」になり、「て=手」が「てえ」になり「は=歯」が「はあ」になる、というやり方である。

この現象を1モーラが伸びて2モーラ化すると考えるか、語尾に母音が付加されて2音節化すると考えるか、解釈の分かれるところだけれども、いずれにせよ関西方言の大きな特徴である。

そして、さらに興味深いことは、このように音が伸びるとき「目=めえ」が低高の上昇調になるのに対して、「歯=はあ」は高低の下降調になることだ。

もし「はあ」が「目」と同じように上昇調になれば、「はあ?」と聞き返す際の間投詞になってしまう。
つまり意味が異なることになり、中国語における声調と同じ効果を果たしていることになる。

関西は関東に比べて中国に近い分、声調言語の特徴が浸透したのだろうか?

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2017年6月25日 (日)

「な」と「なまえ」(その3)

「な」は伝統ある由緒正しい語である。
前回はそんなお話をした。

そもそも1音節の語は、系統発生的に考えてもその起源はきわめて古い。
「ち=血」、「き=木」、「て=手}、「め=目」、「た=田}のように。

起源が古いだけでなく、人間にとって根源的な意味を持つ語が多い。
その分、多義的でもある。

日本語だけではなく、世界の諸語でも同じような傾向にあると思う。
英語の「name」や「I」、「you」が1音節なのもそれを裏付けている。

「な」も例外ではない。
広辞苑によれば、「な」は人称代名詞としての意味も持っている。

まず、「な」は自分を指す一人称である。
そして転じて相手を指す二人称にもなる。
「なれ」や「なんじ」の原型だ。

この事実だけでも、「な」の根源的な性格が明らかだ。

また、「な」は文字の意味も持っている。
漢字のことを「真名」といい、漢字を変形してやさしくした文字を「かな」という。

そもそもわたしたちの生存に欠かせない食べ物のことも「な」なのだ。
食卓に上る魚は「な=魚}だし、食用の葉物野菜も「な=菜」である。
そして、酒、飯に添えて食べるおかずのことも「な=肴」という。

ふりかえってみて、「な」という語がいかに多義的であり、根源的であるかがよくわかる。
しかし、多義的と言ってもそれぞれの意味が独立して生まれたとは思えない。

「な」の1語である以上、どこかに意味の源がある。
そこから、泉の水があふれるようにさまざまな方向に意味があふれだしたのだろう。

では、「な」の意味の源泉は何だろう?

まず、「な」は人を指す。
「あなた」を指し、「わたし」を指す。

つまり、他から識別された個としての人間存在を指す。
そして、その人間存在を支ええるのが、食べ物としての「な」だ。

ひとりの人間とそのいのち。
これが「な」の根源的な意味だと思う。

そう考えれば、日本語の五十音図の中で「な」がいちばん重要な音であり文字であると宣言してもおかしくない。

日本語のな行音やま行音は鼻音と言われていて、聞く者に柔らかい印象を与えるため女の子の名前によく取り入れられている。
また、赤ちゃんのように発声機能が未発達な人間にも発音しやすい。

そんな音声上の特性が、「な」を最重要音に押し上げたのかもしれない。

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2017年6月18日 (日)

「な」と「なまえ」(その2)

「な」ひとつで用が足りるのに、なぜわざわざ「なまえ」という語が派生したのだろう?
素朴と言えばずいぶん素朴な疑問だけれど、いったん気になりだすとどうも落ち着かない。

辞書で比較すると「な」はくわしく語義が説明されているけれど、「なまえ」には通り一遍の説明しかない。
古語辞典を繙いても「な」は詳しく載っているけれども、「なまえ」はそもそも項目がない。
だから、「なまえ」は「な」から派生した語であることは間違いない。

「なまえ」は「な」に「まえ」を接続して生じた語である。

しかし、いつごろどのような必要のもとに成立した語なのか?
また、後続する「まえ」にはどのような働きがあるのか?
男前とか江戸前における「まえ」と機能を同じくするのか?

手元にある辞書はこの疑問に答えてくれない。
どなたかご教示いただけないだろうか?

前回もお話ししたように、「な」と「なまえ」は意味はほぼ同じだけれど、そのニュアンスは微妙に異なる。

初対面の人に向かって、「お名前は?」と訊くことはあっても「お名は?」とは言いにくい。
なんだか尻切れトンボみたいで落ち着かない。

逆に、「無礼者、名を名乗れ!」と恫喝することはできても、「無礼者、名前を名乗れ!」では間延びしてしまって迫力がない。

昔も今も映画のタイトルは「君の名は」が好ましい。
「君の名前は」では散文的過ぎてよくない。

「名は体を表す」とか「名もない人びと」など「な」を用いた表現はずいぶん多いけれど、「なまえ」を用いる表現はあまりない。
せいぜい「名前負け」くらいだろうか?

意味が同じなら「名前は体を表す」とか「名前もない人びと」と言ってもいい理屈だけれど、そんな表現はまず使わない。

やはり違いは音節数にあるのかもしれない。
使い勝手としては、1音節の「な」のほうがまさっているのだろう。

伝統と由緒のある1音節の「な」。
3音節とやや煩わしいけれど、正確性の点で勝る新参者の「なまえ」。

比較論としては、こんなところに落ち着くのだろう。

ところで、英語では「な」も「なまえ」も「name」の1語ですませている。
「な」と同じく1音節である。

日本語におけるような歴史や事情はなかったのだろうか?
「な」と「なまえ」を区別している語がほかにもあるのだろうか?

これまたみなさんのご教示をたまわりたい。

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2017年6月11日 (日)

「な」と「なまえ」

3週続けて糸とことばの共通性についてお話しした。

けれども、その根拠としたのは漢字における共通性だった。
つまり、糸、紐、絆、繋ぐ、結ぶ、紡ぐ、織る、編む、綴る、繙くなどことばにかかわる文字にはみんな「糸」が含まれている、という事実から出発したのだった。

しかしこれは、漢字文化に支配された発想だったかもしれないといま反省している。

漢字から自由になった視点で考えてみればどうか?
いと、ひも、きずな、つなぐ、むすぶ、つむぐ、おる、あむ、つづる、ひもとくなどの和語に何か共通性が見いだされるだろうか。
そして、そこにことばとの何らかのかかわりが発見できるだろうか?

うーむ。
そのように突っ込まれるとつらい。

日本語の音声上のレベルでは、糸とことばの共通性を見出すことは容易ではない。
英語なら、「text」と「textile」、「texture」との共通性は文字を離れても維持されるのだが…。

しかしたとえ証拠は見つからなくても、ことばが「いと」と同じように何かと何か、だれかとだれかを「つなぐ」ためにある、ということは日本語でも変わらないと思う。

そして、前々々回もお話ししたように「いと」があるだけではだめなのだ。
糸が何かと何か、だれかとだれかを繋ぎとめるためのよりどころがなくては。

前々々回はそれを水面に頭を出した杭にたとえた。
その実体は名前である。
だから、映画の主人公たちは「君の名は?」と呼び合ったのだ。

さて、日本語では「な」とも言い「なまえ」とも言う。

「名」と「名前」は、辞書で確かめてもほぼ同じ意味だ。
どうして同じ実体を指すのに二つの語彙が存在するのだろう?

一つで間に合うのに、二つもあるとは不経済で紛らわしいのではないか?
たしかに、多くの用例を思い浮かべてみると「な」は詩的、「なまえ」は散文的なニュアンスを感じることができる。
だから、映画のタイトルとしては「君の名前は。」よりも「君の名は。」のほうがふさわしいのかもしれない。

しかしこのことは個人的な感受性の問題で普遍妥当性があるとは主張できない。

「な」という一音節の語彙よりも、「なまえ」という三音節の語のほうがコミュニケーション上の正確性は高いかもしれない。
そのために「な」だけでなく「なまえ」も導入された、という客観的事実に基づいた説明のほうが説得力がありそうだ。

ともあれ、日本語話者は「な」と「なまえ」を微妙に使い分けている。

映画では「な」と「なまえ」を使い分けていたか?
使い分けていたとすれば、その基準は何か?

残念ながら、映画館で観ていたときはそのへんは見過ごして(聞き過ごして?)いた。

「君の名は。」は7月26日にブルーレイ&DVDが発売されるらしい。
さっそく買いに走らなければ。

 

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