2019年12月 8日 (日)

「キャッチャー」とは何か?(その6)

水村美苗さんの「日本語が亡びるとき」については、私はずいぶん前につたない書評を書いたことがある。
このページの右側にリンクがあるので、関心のある方はご覧ください。

前回は深い考えもなく、「日本語を豊かなものに」ということばを使った。
しかし、「ことばの豊かさとは何か?」と問い詰められると、しどろもどろになってしまう。

そうなってはみっともないので、少し考えを整理しておこう。

まずごく単純に、語彙が増えること、表現の選択肢が増えることが「ことばの豊かさ」なのだ、と考えてみよう。

明治のはじめ、西洋の文明語が日本にどっと押し寄せた。
人びとはそれらを片っ端から、日本語(と言っても漢字を活用した和製漢語だけれど)に翻訳した。
このことは前にお話しした。

科学、経済、哲学、討論、演説、電話…。
つまり日本語の語彙が増えたのだ。

当初、大学の講義もお雇い外国人が直接英語で(ドイツ語やフランス語もあったかな?)行っていたものが、徐々にこれら訳語を用いて日本語で行えるようになった。

それから、言文一致体という書きことばの口語化も始まった。

と言って、文語のテキストが消えたわけではない。
つまり、文体も多様化した。

たとえば、柳田国男の「遠野物語」は文語で書かれている。
文語で書かれたその序文はとても美しい。

「笛の調子高く歌は低くして側にあれども聞きがたし。日は傾きて風吹き酔いて人呼ぶ声も淋しく女は笑い児は走れどもなお旅愁をいかんともする能わざりき…」

かといって、その頃には口語文学もちゃんと存在していた。
たとえば「遠野物語」の2年前に発表された夏目漱石の「三四郎」は、今でもふつうに読める口語で書かれている。

「うとうととして目が覚めると女は何時の間にか、隣の爺さんと話を始めている…」

柳田自身も「遠野物語」の前年に発表した「後狩詞記」は口語体で序文を書いている。
だから、「遠野物語」は口語でも書くことができた。

しかし、柳田さんはこの話は文語で表現するほうが効果的と考えたにちがいない。
つまりこの時代、書く人は選択をすることができたのだ。

今もわたしたちは、文語の作品を楽しむことはできる。
しかし、書く人にはもうそんな選択をすることはできない。
今はもう文語の新しい作品は生まれない。

つまり文体における多様性は縮小したということだ。
文体が貧しくなったということだ。

語彙の分野でも西洋語を日本語に訳していった明治のはじめとは違って、今はもう新しい日本語の語彙は生まれない。
「日本語の豊かさ」という点では、漱石の頃が一番豊かだったのかもしれない。

ことばの変化の方向が逆転し始めているような気がする。

いま、大学では英語で講義をするところが増えてきている。
学術の世界での英語の共通語化、留学生の増加などその理由はもっともだけれど、明治初年の変化とは逆方向である。

ビジネスの世界でも英語を社内共通語にする会社が増えている。

「Catcher」が「捕まえ手」から「キャッチャー」に変わったのもこんな流れの中にあるひとつの文明史的現象かもしれない。

この先どうなっていくのだろう?

日本語は、学術やビジネスや創造的思考の世界から退場して行くのだろうか?
日常の用を足すだけの土語や俗語のレベルに落ちていくのだろうか?
「日本語を豊かなものしよう」という情熱はもう期待できないのだろうか?

水村さんとともに、私はそんな危惧を共有している。

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2019年11月24日 (日)

「キャッチャー」とは何か?(その4)

前回、村上訳の「キャッチャー・イン・ザ・ライ」というタイトルは、原題の日本語訳ではなくローマ字からカタカナへの文字変換である、というお話をした。

すぐ前言撤回をするのも気が引けるのだけれど、翻訳と言えないこともない。
なぜなら、「キャッチャー」という語は外来語として日本語になっているからだ。

野球用語としては「捕手」という翻訳語よりもよく使われている。
日本語として完全に定着している。

完全に定着しすぎて、日本語話者は「キャッチャー」という語を聞けば野球の守備位置のことしか思い浮かばない。

しかし、この小説における「キャッチャー」は、野崎訳にあるように「つかまえ役」、つまり子供たちの「保護者」という意味なのだ。

村上訳のように「ライ麦のキャッチャー、僕はただそういうものに…」としてしまうと、日本におけるこの外来語のイメージに邪魔されて、保護者のニュアンスがうまく伝わらないのではないかと思ってしまう。

「キャッチャー」はこの小説のキーワードである。
だから、この語をどのように訳すかは、とても大事な問題だ。

村上さんは、「catcher」という語を「キャッチャー」とした理由として、野崎訳以降の40年の時代変化として「それでわかる」人が増えたことをあげている。

しかし、外来語の「キャッチャー」の場合、「それで誤解する」ことになりはしまいか?
そんな心配を禁じ得ない。

ローマ字からの文字変換、あるいは外来語への移し替え。
こうした手法は文学の世界に限らず、日本で公開される洋画のタイトルにも及んでいることは、すでにお話しした通りだ。

英語が世界中を覆いつくすなかで「それでわかる」人が増えたのだから、こうした手法は時代の流れとして受け入れるべきかもしれない。
しかし、固有の日本語に移し替えようという努力や熱意が薄れてきているのには、一抹の寂しさをおぼえる。

明治のはじめ、西洋から怒涛のように押し寄せた専門用語を片っ端から日本語に移し替えていったあの努力と情熱がなつかしい。
(それも漢字という便利な道具があったから可能になったのだが…)

この小説は世界の各国語に翻訳されているという。
その場合、タイトルはどうなっているのだろう?

ロシア語や中国語やミャンマー語の訳書はどんなタイトルになっているのだろう?

野崎訳のように、原題をそれぞれのことばに翻訳しているのだろうか?
それとも、村上訳の「キャッチャー・イン・ザ・ライ」のように、それぞれの文字に変換しているのだろうか?

同じ文字を用いている西洋諸語なら「The Catcher in the Rye」をそのまま持ち込んでもそれほど違和感はないかもしれないが…。

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2019年11月17日 (日)

「キャッチャー」とは何か?(その3)

「Comin' Thro' the Rye」というスコットランド民謡は、日本でも「故郷の空」というタイトルでよく知られている。

夕空晴れて 秋風吹き 月影落ちて 鈴虫啼く

というあれである。

この曲の歌詞の一部がそのままタイトルになっているくらいだから、もちろんこの小説の中で重要な役割を果たしている。

学校を放り出された主人公ホールデンが親の目を盗んで家に帰り、妹のフィービーと問答するところがこの小説のクライマックスかもしれない。

フィービーに将来何になりたいのかと問い詰められて、ホールデンが答える場面。

まず野崎訳。
「ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ。」

つまり、ライ麦畑で無心に遊ぶ子供たちが崖から落ちないようにそっと見守り、落ちそうになったら飛んで行ってつかまえてやるという保護者の役割をつとめたいのだと言う。
(ライ麦畑に危険な崖が潜んでいるとは知らなかった。)

ここのところ、村上訳では
「ライ麦畑のキャッチャー、僕はただそういうものになりたいんだ。」となっている。

ホールデンがこのように答えたのには、実は伏線がある。

少し前のところで、ホールデンがニューヨークの街中を歩いていると、6歳くらいの男の子が「Comin' Thro' the Rye」を歌っているのに出くわし、それを聴いてかれは気分が晴れたというのだ。

このとき、男の子はどんな歌詞を歌っていたのだろう?

村上さんによれば、この歌の正しい歌詞は
「If a body meet abody coming through the rye」というのだそうだ。

ホールデンはその「meet」を「catch」と間違えて憶えていて、フィービーに上のように答えたらしい。

この「間違えて憶えている」というところに作者は重要な意味を持たせていると思うのだけれど、だとすれば男の子はどんな歌詞で歌っていたのだろう?

正しい歌詞で歌っていたのか、それともホールデンと同じように間違った歌詞で歌っていたのか?

もし間違えて歌っていたのだとすれば。「meet」を「catch」とする間違いはホールデンだけの個人的な間違いではなく、かなり社会一般に広がっていたことになる。

ホールデンが間違って憶えたのには理由があるはずだから、社会一般に広がった間違いに影響された可能性もある。

「meet」を「catch」に置き換えると、この歌はどんな意味になるのだろう?

ウィキペディアによれば、この曲は英語圏では茶目っ気とたわむれに満ちた楽しい曲と評されているらしい。
かと思うと、猥歌という認識が強くネガティブなイメージしか抱かれていない、という記述もある。

6歳の男の子が猥歌を歌うか?
よくわからない。
英語圏の人に実際のところを聞いてみたいものだ。

もし猥歌だとすれば、一時流行したドリフスターズの

誰かさんと誰かさんが 麦畑
くちゅくちゅしている いいじゃないか

という替え歌が、いちばんオリジナルに忠実だったかもしれない。

いずれにせよ、この民謡、そして歌詞の間違いがこの小説の大きな動機になっているのだから、その間違いの背景をもっと知りたいと思う。

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2019年11月 3日 (日)

「キャッチャー」とは何か?

J.D.サリンジャーの小説「The Catcher in the Rye」。
いま、わたしたちはこの小説を2種類の邦訳で読むことができる。

ひとつは、野崎孝訳「ライ麦畑でつかまえて」(1964年 白水社)。
もうひとつは、村上春樹訳「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(2003年 白水社)。

私は、うんと若いころこの小説を野崎訳で読んだ。
威勢の良い饒舌体が印象に残った。

それから何十年も経ったあるとき、自分の本棚に村上訳があることに気が付いた。
自分で買った覚えはない。
なぜ、こんなところにあるのだろう?

私は世間で言うほど村上春樹を評価していない。

だから、村上訳を読んでみようという気は起らなかったが、2種類の訳があることがその後ずっと気になっていた。
それが、ごく最近になってどういう風の吹き回しか、こいつを読み比べてみたらどうだろう?と思うようになった。

同じ英文テキストを二人が別々に訳すとどんな違いが生まれるのだろう?
そんな興味があった。

またそこから、日本語の広がりと可能性が見えてくるかもしれない…。
そんな期待もあった。

どういうわけか2冊とも処分してしまったので、わざわざ図書館から借りてきた。
とりあえず出だしの1節を読み比べてみる。

まず野崎訳。
「もしも君が、ほんとにこの話を聞きたいんならだな、まず、僕がどこで生まれたかとか、チャチな幼年時代はどんなだったのかとか、僕が生まれる前に両親は何をやってたかとか、そういった《デービッド・カパーフィールド》式のくだんないことから聞きたがるかもしれないけどさ、実をいうと僕は、そんなことはしゃべりたくないんだな。」(1984年刊の新装版による)

次に村上訳。
「こうして話を始めるとなると、君はまず最初に、僕がどこで生まれたかとか、どんなみっともない子ども時代を送ったかとか、僕が生まれる前に両親が何をしていたかとか、その手のデイヴィッド・カッパフィールド的なしょうもないあれこれを知りたがるかもしれない。でもはっきり言ってね、その手の話をする気になれないんだよ。」

いちいちの訳語の選択とか語尾表現のしかたとか、文の区切り方とかリズムの取り方とか、それらがもたらす効果とか比べてみたいところは沢山ある。

でもそれをすべてやっていては、冒頭の1節だけでも日が暮れてしまうと思う。
やってみたいのはやまやまだけれど、ここは残念ながらスルーしよう。

ここでは出だしの1節だけを比べてみたけれど、この違いが全編にわたって積み重なるのだ。
その時、読者はどう感じるだろう?

人それぞれだろうけれど、私はこんなふうに感じた。
野崎訳のほうが、ホールデンのつんつんとんがった感じがよく出ているような印象を受ける。

イノセンスを大切にするあまり社会とうまく折り合いをつけられないホールデンのいらだちが、訳されたその口調によくあらわれていると思う。

この点は村上さん自身も心得ているらしく、「言動のトーンがマイルドすぎるんじゃないかと感じる人もいるかもしれない」と述懐している(「村上春樹・柴田元幸「サリンジャー戦記」 2003 文春新書)。
原作が書かれてから半世紀、二つの翻訳の時間差が40年という時の経過を意識するとこうなるらしい。

良い悪いではなく、好みの問題だと思う。
100人の読者にアンケートしてみたら、どちらに軍配が上がるだろう?

野崎さんは「解説」で次のように書いている。
「この文体は(中略)50年代アメリカのティーンエイジャーの口調を実に的確に捕えていると推賞され、(中略)これを日本語に訳すことは至難であり…」

ずっと時代をさかのぼれば、日本語訳は野崎、村上だけでなくもうふたつあるらしい。
つまり、違いを味わう愉しみはまだまだある、ということだ。
サリンジャーは日本語話者にとっていい小説を書いてくれた。

翻訳のあり方は、訳者の見識によって左右される。
つくづく、翻訳は単なることばの移し替えでなく、まぎれもない創造行為であることを感じる。

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2019年10月27日 (日)

「生きる」と「死ぬ」(その8)

人の生き死にを表すことばとして、「生き方」、「死にざま」がある。

「生き方」のほかに最近では「生きざま」ということばもよく使われる。
「生き方」と「生きざま」は意味は近接しているけれど同じではない。

「生き方」ということばからは人生に対する端正な姿勢が感じ取れる。
その分、ちょっと取り澄ましたところもある。

いっぽう、「生きざま」のほうは人目なんか気にしている余裕はない。
格好悪いことも、ぶざまなこともひっくるめて必死に生きているありさまをうかがうことができる。
良くも悪くも、人生の実相をダイレクトに訴えてくる。

つまり、「生き方」は上品だけれども偽善のにおいもある。
「生きざま」は下品だけれど、正直である。

どちらがいいとは言えないけれど、好みをいえば私は「生き方」のほうが好きである。
いまでは「生き方」よりも「生きざま」のほうがよく使われる傾向にあるが、私はあまり使う気になれない。

そもそも私の子供のころは「生きざま」ということばはなかった。
最近になって流行し始めた言いかたなのだ。

辞書には「死にざまからの類推」とある。
「死にざま」は古典にも現れる古くからあることばである。

「死にざま」ということばがあるくらいだから、「生き方」の他に「生きざま」ということばもあっていい。
と誰かが使い始めてから、このことばが人口に膾炙するようになった。

そして、「ざま」という接尾辞がくっついたことからマイナスイメージを持つようになった。
ほら、「ざまを見ろ!」と悪態をついたり、「そのざまは何だ!」と叱責するじゃないですか。

こうして「生きざま」は「生き方」に比べてマイナスイメージを持つようになったのだけれど、人生に苦しむ多くの人々はその正直さにひかれたのかもしれない。

一方、「死にざま」ということばはあっても「死に方」ということばはない。
死ぬ方法を意味して「楽な死に方を研究している」ということはあるけれども、名詞として辞書には登録されていない。

つまり、ほんの少し前までは、「死にざま」はあっても「死に方」はなかった。
「生き方」はあっても「生きざま」はなかった。

自殺を別にすれば、人は自分の死に対して責任を持つことはできない。
そのありさまを淡々と表現したのが「死にざま」だ。
そこには、「生きざま」と違ってマイナスイメージはない。

しかし自分の生に対しては責任を持たなければならない。
当然、生に対する規範意識が生まれる。
だから、「生きざま」と言わず「生き方」という。

「あの人の生き方を模範にしなさい」とは言えても「あの人の生きざまを模範にしなさい」とは言えない。
その違いが、生と死のことばのあり方にも表れているのだと思う。

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2019年10月19日 (土)

「生きる」と「死ぬ」(その7)

「死」という漢字が日本列島に伝来した時、「しぬ」という和語はすでにあった。
というのが、前回の根拠のない断定だった。

「死」という漢字が伝来した時、日本語話者は「なんだ、俺たちが使っている『しぬ』と同じ意味じゃないか!」といったかどうか。

そして、「死」の字音がたまたま「し」だったことも好都合だった。
そこで、日本語のルールに従って「死」という漢字に「する」という語尾をくっつけて「死す」という漢語を作った。

だから、古語辞典には「死す」という漢語も「死ぬ」という和語も載っている。
「死ぬ」のほうが解説の分量が多いことから見て、むかしから「死ぬ」のほうが一般的だったのだろう。

「死」の字音は「し」ひとつだけ。
訓もない。

これに対して、「生」の字音は「せい」と「しょう」のふたつがある。
訓にいたっては「いきる」だけでなく、「うまれる」、「はえる」と多彩である。
「なま」なんてのもある。

やはり日本語話者は、「死」よりも「生」に対してより多くの関心を払ってきたのだろう。
あるいは、「生」のほうがそのあり方がより多彩だということだろうか?

「いきる」や「うまれる」や「はえる」は。生命と関係が深いので「生」の文字を用いるのは分かるが、「なま」に「生」の字を当てたのは、どういう感覚なのだろう?

和語の「なま」にはいろいろな意味がある。

まず。「野菜を生のまま食べる」のように、「手を加えずに、ありのままで」という意味。
今風に言うなら、「フレッシュ」ということだ。

また、用言の接頭辞として「どことなく」とか中途半端な意味をあらわすこともできる。
「生ぬるいお湯」とか「生半可な知識」とか。

辞書の解説によれば、もともと「なま」は「若い」という意味だったとのことだ。
それがよい意味では、「なまめかしい」という美的感覚の語につながった。

一方で、「若い」ということは未熟にもつながる。
英語で言う「green」というやつだ。
だから、不完全、中途半端な意味をあらわすことにもなる。

さらに、生演奏、生放送という言い方もある。
英語で言う「live」(発音はライブ)というやつだ。

たしかに、生演奏や生放送にはレコードやビデオにはない生気あるれる臨場感がある。
そう考えると、「なま」に「生」の字を当てたのも分からぬことではない。
英語で「live」と表現するのと同じ感性なのだろう。

肉や魚や野菜を手を加えずに「なま」で食べると、生命をよりダイレクトに感じることができる。

「生暖かい風」や「生かじりの情報」のように一見生命と関係がなさそうな表現の場合も、その原義が「若い」ということがわかれば、生命との関連に納得がゆく。

はじめは、なぜ「なま」に「生」の字を当てたのか不審に思ったのだけれど、こうしてよくよく考えてみればなるほどと思う。

やはりむかしの人はえらかった。

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2019年6月 8日 (土)

「切る」と「抜く」(その5)

前回は「切る」、「切れる」という動詞に焦点を当てて、さまざまな用例を参照してその原義を探ってみた。

その結果、「切る」という動詞は主体の意志と物理的力によって何者かを破壊するという点に原義があった。
そして、その破壊の結果生じた新しい世界に主体は何ほどかの達成感、爽快感、高揚感を感じることも分かった。

では、「抜く」のほうはどうか?

「抜く」、「抜ける」も基本動詞だから、意味用法は山のようになる。
ここからその原義を探っていくのだが…。

前回もお話ししたことだけれど、もっとも根源的にはやはり物理的行為を指したのだと思う。
「畑から大根を引っこ抜く」

この段階でも、「切る」との違いは明らかだ。
大根は地中から空中へ移動させられたけれども、破壊はこうむっていない。

「切る」ほどの意志の力も、物理的な力も必要ではない穏やかな手段で、それでもわがものにすることができた。
そこには、「切る」ほどの達成感、爽快感、高揚感はないかもしれないがしみじみとした充実感がある。
力の代わりに知恵もしくは悪知恵がある。

「資料を切り取る」と「資料を抜き取る」にもその違いがはっきり出ている。
平穏な手段で機密を手に入れた人は、しみじみとした満足感に浸っていることだろう。
乱暴な方法ではないから、運がよけれが露見することもあるまい。

「切る」にはいやでも力の存在を感じさせられるけれども、「抜く」はその力をできるだけ働かさないようにふるまっているところがある。

たとえば、「ガスを抜く」という表現がある。

場に不穏な空気が充満していて、これを放置すると爆発してしまうというときに「ガスを抜く」。
これによって場の圧力を下げ、爆発を回避する、
つまり力を発揮させないのだ。

「間抜け」とか「気を抜く」という表現には脱力感がにじみ出ている。
その脱力感をうまく利用する人は「抜け目がない」と言われる。

「抜く」、「抜ける」という動詞はなぜか「脱」という文字とつながっている。

「城を抜ける」というのは城を「脱出」することだし、「名簿に私の名前が抜けている」というのは、私の名前が「脱落」していることだ。

「脱ぐ」という動詞は着衣に関する語だけれど、そもそも奈良時代には濁音でなく「ぬく」と発音したらしい。 
ひょっとすると「抜く」と「脱ぐ」は同根なのかもしれない。

困難な事態を打開するためには、「切る」という暴力的な方法と「抜く」という平穏な方法がある。
状況に応じて「切る」と「抜く」をうまく使い分ける人が人生の達人なのかもしれない。

果たして「切る」と「抜く」の違いという難問を、うまく「切り抜ける」ことができただろうか?

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2019年5月19日 (日)

「切る」と「抜く」(その3)

前回は、ふたたび言語の起源の周辺に迫る決意表明をした。
しかし前回と同じ方法をとっては芸がない。

そもそも言語の起源に挑戦する!なんて大風呂敷をひろげるから収拾がつかなくなるのだ。

そこで今回は、もう少しつつましくアプロ―チしたい。
つまり、言語一般の起源なんていわず、対象を絞り込みたい。

さしあたりわたしたちになじみ深い日本語に絞り込みたい。
しかも日本語全般でなく、動詞に絞り込みたい。
さらに動詞全般でなく、「切る」と「抜く」というたったふたつの動詞に絞り込みたい。

絞りに絞って、ここまで絞ったらさすがにみなさんにもお許しいただけると思う。

さて、「切る」と「抜く」だけれど…。

「走り切る」と「走り抜く」のように、事実としては同じことを表現していても、微妙にニュアンスの異なる場合がある。

ゴールにたどり着いたとき、マラソン走者は無意識のうちにどちらかのことばを口にする。
そのときのかれの心のありようがどちらかの表現を選択させる。
そしてまたその心のありようが無意識のうちに聞き手にも伝わるのだ。

話し手と聞き手の間で行われる無意識の心のコミュニケーション。
そこでは、語のもっとも原初的、核心的な意味が働いていると思う。

だから、これらの動詞のもっとも原初的、核心的な意味用法に迫りたい。

これらの動詞が成立した時、人びとは「き・る」あるいは「ぬ・く」という音節の組み合わせでどのような行為を指そうとしたのか、どのような状況で発話しようとしたのかを知りたい。

途方もない企てだけれど、少しずつ考えを積み重ねてゆくしかあるまい。

むかしは万事素朴だったから、「切る」も「抜く」も物理的、具体的動作を指す語として誕生した。
これは論証抜きの直感的判断だけれど、みなさんにも同意いただける思う。

木を切って火を起こす。
獲物の肉を切って家族に分け与える。
あるいはイモの根っこを抜いて栄養を取る。

そうやって、人は命をつなぐ。

この段階での「切る」と「抜く」の違いと言えば、「切る」はなにがしか事物の破壊を伴うのに対して、「抜く」は事物の原型を温存したままわがものにする、という違いがあると思う。

事物の破壊には程度の差はあれ強い意志の力が必要だ。
そして、その意志が達成された時、人は何らかの爽快感を感じる。

一方、「抜く」のように破壊を伴わない行為は、心穏やかにできる。
爽快感はない代わりに、しみじみとした充実感がある。

強い意志力、決断力か心の穏やさか?
爽快感かしみじみとした充実感か?

「切る」と「抜く」のもっとも原初的、核心的な差異はここにあると思う。

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2019年5月12日 (日)

「切る」と「抜く」(その2)

一時期、ヨーロッパの言語学界では言語の起源を研究テーマとすることはタブーだったとのことだ。
その証拠に19世紀のパリ言語学会は会則で「言語起源論と普遍言語の創造に関する論文は受けつけない」という規定を定めている。

では、日本ではどうだったか?

日本もまたヨーロッパと同様に言語起源論なんて学問は行われなかった。
ただ、日本ではパリ言語学会のような会則は必要がなかった。

なぜなら、日本人にはもともとそんなテーマを研究しようという人など存在しなかったのだから。
このブログで繰り返しお話ししているように、日本人は徹底した言語実用主義者であって、言語そのものを学問の対象にしようという発想などなかったのだ。

ヨーロッパの人々はそうじゃなかった。
旧約聖書にも新約聖書にも、言語に対する異常な関心が読み取れる。
またバベルの塔の事件を引き起こしたやましさもあって、普遍言語を追求する情熱もはんぱではなかった。

しかし近代の学問としては認められなかった。

言語起源論なんてしょせん実証性のない思弁的なものでしかない。
普遍言語の試みにしても何だかいかがわしい。

当時の風潮を考えれば、パリ言語学会があんな禁制を出したのもやむを得ない。

とはいえ、言語の起源というテーマは魅力を失わない。
わたしたちを誘惑してやまない。

わたしたちにとってもっとも身近なもの、最も大事なもでありながらその素性がわからないなんて!

学者にとっては言語起源論の研究は、破滅への道かもしれない。
しかし、幸いわたしたちは素人である。

素人だから言語起源論に踏み込んでらちもない妄想をふくらませてもかまわない。
ひとさまにご迷惑をかけることもない。
このへんが素人の強みである。

げんにこのブログでも12年前の秋に起源の周辺をさまよったとこがあった。
ことばは歌から始まったんじゃないか、とか人類で最初にことばを発した人の心境に迫ってみたりもした。

むろん成果があったわけではないが、愚考することが楽しかったのを覚えている。
なので干支がひとまわりした今、もう一度踏み込んでみようと思うのだ。

ちょっと前置きが長くなりすぎたので、愚考の中身はまた次回。

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2019年5月 6日 (月)

「切る」と「抜く」

試みに前回の例文を、ネットの自動翻訳サービスで英語に翻訳してみた。

「切る」と「抜く」とでは違う動詞を用いて結構うまく訳しているのに感心した。
あらためてAIのすごさを思い知らされた。

前回、「走り切る」と「走り抜く」の違いを「やったあ!」と「やれやれ…」という感情の違いとして説明したのだけれど、AIは結構そのへんをわかっているようだ。

AIは計算は得意だけれど、人間の感情は理解できない。
なんて言われて安心していたけれど、もはやうかうかしていられない。

「走り切る」と「走り抜く」の違いは微妙だけれど、「手を切る」と「手を抜く」はまるで意味が違う。

前回、動詞「抜く」には、悪知恵的な雰囲気が漂っているというお話をしたけれど、「手を抜く」にもそんな雰囲気が感じられておもしろい。

一方、「手を切る」のほうはその人の強い意志が感じられる。
暴力的、破壊的な行為をするには強い意志が欠かせない。

「手を切る」と同義の表現として「関係を断つ」というのもある。
「切る」よりもさらに暴力度。破壊度は高いような感じがする。

両者合わせて「切断」という迫力ある漢語も存在する。

和語「たつ」には、ほかに「絶つ」という漢字を用いることもある。
「消息を絶つ」というようなときに用いる。

両者合わせて「断絶」なんて迫力ある漢語も存在する。
「お家断絶」などどいう。

もともと漢語は和語に比べて強いインパクトがあるけれど、これらの語に接するとひとしおそのことを痛感する。
とにかく「切」にせよ「断」にしろ「絶」にしろ、これらの強い意志を示す文字が出現すると、すべてがそこで終わる、あとにはなにもない、という感じがする。

そこへゆくと、「抜」は脱力系である。
力の存在を感じない。

そうして相手を油断させておいていつの間にか自分の都合のいいようにことを運んでしまうのが「抜」の作戦なのだ。
「あいつは抜けたやつだ」なんて気を「抜いて」いると、足元をすくわれる。
「抜けたやつ」に限って悪知恵が働くのだ。

わたしたちも、ことばの世界を旅する時はゆめゆめ気を抜くことのないようにしたい。
この世界には、思わぬ落とし穴も多いのだから。

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