« 和歌とことば | トップページ | ボルヘスとエリアーデ »

2025年6月 1日 (日)

抒情詩と叙事詩

まだ文字がなかった時代、文字ができてもまだ社会に浸透しなかった時代、共同体は英雄の事績を語り継ぐために叙事詩を作った。
こうして「オデッセイ」をはじめとする西洋の多くの叙事詩が出来上がった。

その点、日本人は何故か英雄をあまり必要としなかった。
そのかわり「花に鳴く鶯、水に住む蛙の声」に心を惹かれた。
だから抒情詩が花開いた。

今のように情報が氾濫していない時代だったから自然の風物に対する感度ははるかに高かったと思う。
むかしの人は「花に鳴く鶯、水に住む蛙の声」にしみじみ感興をそそられた。
ひるがえってスマホに依存する現代人は自然に対していちじるしく感度が鈍っているのではないか?

それはそれとして、もちろん日本にも叙事詩的な作品はあった。
平家の興亡を描いた平家物語などは叙事詩系だろう。
もっと昔なら神々の活躍や天皇制草創期を書き留めた記紀や風土記もそうだろう。

その点、源氏物語は抒情詩系である。
事実、作品の中に多くの和歌が取り入れられている。
そして今でも源氏物語のほうが圧倒的に人気は高い。

もちろん西洋にも抒情詩系の作品はある。
ソネットなどはそうだろう。

そして、今は世界的に見ても叙事詩の旗色は悪い。
なぜか?

それは人々の識字率が上がり無文字社会がなくなっただけでなく、さまざまな言語の外部記憶装置が発達したからだろう。
人々は叙事詩に頼らなくてもいいようになったのだ。

ではこの先、叙事詩は消滅してしまうのだろうか?
詩そのものはなくなっても叙事詩的な伝統は残ると思う。
小説や評論のかたちで。

叙事詩にせよ抒情詩にせよ「うた」は人類の言語生活と深くかかわっている。
「うた」の地下水脈はこの先も枯れることはないだろう。

ところで、AIは「うた」とかかわりを持っているだろうか?

たしかにAIはそれなりの短歌や俳句、それから詩を作ることはできよう。
しかしそれは圧倒的な効率による学習の結果なのだと思う。

だから何となくつくりものっぽい。
「うた」のこころの自然な発露とは言えない気がする。

これは保守的で頑迷な考えだろうか?
あなたはどう思いますか?

|

« 和歌とことば | トップページ | ボルヘスとエリアーデ »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 和歌とことば | トップページ | ボルヘスとエリアーデ »