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2025年6月30日 (月)

「かみ」とことば(その2)

前回はキリスト教の「神」と日本の「かみ」を対比させた。
でもそこに登場する「かみ」は神道の神さまたちだ。

日本では仏教も盛んである。
でもl仏さまは神さまとは言わない。

宗教の至高の存在を「神さま」と呼ぶのなら、仏さまも神さまである。
でもそうは言わない。
昔から「神仏」と言って、神さまは神道のもの、仏さまは仏教のものと相場が決まっている。

世界中どこでも異文化が遭遇した時に起こる反応はおおむね3種類である。
置換、折衷、共存のいずれかである。

置換の例をあげると、ヨーロッパでキリスト教がそれまでの土着宗教と完全に置き換わったことがあげられる。

折衷とはAの文化とBの文化が融合して、AでもBでもないCの文化になることである。
言語の世界でこの例を探るとピジョンやクレオールがあげられるだろう。

共存とは、文字通りAもBもその姿を保ったまま共存することである。
そして日本ではこのパターンが多い。

だいたい仏教が伝来しても、それまでの神道はちゃんと残った。
今でも神道と仏教は共存している。

明治以前の神仏習合は折衷ではないのかという人がいるかもしれないけれど、あれも共存のひとつの形なのだ。
お寺の中に神社があったりしたけれども、お寺やお社の形は変わっていない。

洋間、日本間、洋服、和服、洋菓子、和菓子など衣食住にも共存は広がっている。
日本文化は外来の要素を積極的に受け入れるけれども、在来の要素も決して捨てないのだ。

さて、前回は「かみ」の中から「紙」を除外した。
やはりほかの「かみ」とは異質なのだろうか?

でも言語にとっては「紙」はなくてはならない。
とりわけ書きことばにとっては、古代から重要な役割を果たしてきた。

紙が発明されてから2千年以上が経つ。
その歴史の中で紙は文化の媒体としてだけではなく、人々の意識変化にまでかかわってきた。

とりわけグーテンベルクの印刷技術の発明が人々の意識変化を促した。
「幻想の共同体」によれば、国民国家の成立にも紙と印刷が深くかかわった。

さて今、デジタル社会の到来によって、ペーパーレス化が叫ばれている。
紙の使用は地球環境にもよくないらしい。

でも紙の消費量は減っていない。
歴史の中で育まれた人々の紙への執着は強い。
本当にペパーレス化が実現するのだろうか?
あなたはどう思いますか?

言語学的には神と紙は別系統かもしれないが、執着という点ではどこかつながっているような気がする。
日本語で神と紙が同じ音だということは象徴的である。

さて日本には和紙がある。
日常的には洋紙が圧倒的だけれども、和紙も作られ続けている。
これも共存の一例だろう。

和紙は耐久性に優れている。
今も紙幣や古文書の修復に使われている。
福井県の和紙の産地では「神と紙のまつり」が行われているそうだ。

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2025年6月22日 (日)

「かみ」とことば

英和辞典で「god」を引くと「かみ」と出ている。
なるほど「god」は日本語では「かみ」なのか。

でも英語のgodと日本語の「かみ」はずいぶん違う。
だから日本人はgodを理解しにくい。

先ほどの英和辞典では「特にキリスト教の」という注釈がついている。
つまりキリスト教の「かみ」は日本人のイメージする「かみ」とは違うのだ。

日本語の「かみ」は多義的な語である。
広辞苑を引くと、随分多くの「かみ」が出ている。

いまその意味を漢字で示すと、「紙」、「髪」、「神」、「上」、「守」などである。
まだほかにもある。

このうち「紙」は別として、他は原義を同じくしていると思う。
要するに上のほうである。

この場合の「うえ」は空間的な「うえ」」でもあるし、社会的な「うえ」でもある。
川上などは空間的な「うえ」を意味するし上座は社会的に「うえ」の人が座る場所になっている。

このほか時間的な意味でも使われる。
たとえば、上旬などは時間的な順序の始めのほうを意味する。

「髪」は人体の一番「うえ」にあるものだし、「守」は「うえ」のほうのお役人を意味する。
そもそも「神」は空間的にも社会的にも人間より「うえ」のほうに存在すると信じられてきた。
生命の源泉である太陽が人間の「うえ」にあることが影響しているのだと思う。

ここからは「神」に焦点を当てたいと思う。
とにもかくにも「かみ」は上のほうにあり物事の始原と言える存在なのだ

日本の「神」は「god」とは違う。
「god」は人間の理解も共感も及ばない隔絶した存在だけれど、日本の「神」は人間とひとつながりであるように思う。

特に各地の風土記に登場する神たちは人間臭い。
あわてん坊の神あり、おこりん坊の神ありである。
そもそも菅原道真や徳川家康のように死んだら神さまになる人もいる。

友達づきiあいしてもいい、そんな感じである。
だから「すみよっさん、えべっさん」なんて愛称がある。
「god」をさん付けで呼ぶことなどありえないことだろう。
「god」は親近感など受け付けない存在なのだ。

むかし日本が農業社会だったころ、川上の奥の山には神さまがいて春になると田んぼに降りてくると信じられていた。
山の神はやさしいから、稲作を守るのだ。

山の神は女神と信じられていたので、いつの頃からか自分の妻を親近感を込めて「かみさん」というようになった。
刑事コロンボがよく口にしていたのをおぼえている。

「かみさん」が口うるさいと亭主は閉口して「山の神」と呼ぶこともあった。
どうしてそう呼ぶようになったか?

ずいぶん昔、季刊人類学に「わが妻を山の神と呼ぶ由来」という論文が載っていた。
それが今どこにあるのかわからない。

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2025年6月15日 (日)

宗教と言語

「God」とは何だろう?
英英辞典によれば「キリスト教、ユダヤ教そしてイスラム教で宇宙の創造主と信じられている存在」とある。

つまり至高の存在であるから、「God」のGは大文字で書く。
そして「the」はつけない。

ならばギリシャ・ローマの多神教時代の神々は何というのだろう?
辞書には何の説明もない。
やはり「God」というのだろうか?

ともあれ「God」は仏教や神道のように多神教ではないので唯一の存在だ。
私たちのように多神教になじんだ人間にはここがわかりにくい。

そしてキリスト教、ユダヤ教。イスラム教には唯一の聖典がある。
つまりキリスト教の場合は旧約、新約聖書がこれにあたる。
ユダヤ教の場合は旧約聖書、そしてイスラム教はコーランである。

もちろん仏教にもお経という教典はあるが、これは唯一ではない。
たくさんありすぎてわれわれはよく理解していない。

そして神道にはそもそも聖典などない。
したがってはっきりした戒律もない。
せいぜい身の回りを清潔にしましょう、という生活ルールみたいなものだけだ。

このように、三大一神教と仏教、神道は大いに違っているけれども、共通している点が一つある。
それは声を大事にするということだ。
もちろん聖典は文字で書かれているけれども、それを黙読するだけでは宗教にならない。

キリスト教の教会では、神父や牧師が聖書を手許において会衆に説教する。
ユダヤ教には神父や牧師にあたる聖職者がいないので説教というのはないけれども、シナゴーグではラビがモーゼの十戒などを解説しているのだろう。
モスクではムスリムたちが、定期的にコーランを朗唱している。

仏教でも坊さんが仏壇に向かってお経を読み上げ、わたしたちはそれを神妙に聞いている。
意味はよく分からないけれども。
神道でも神主が神棚に向かって、祝詞を読み上げる。  

つまり人間が神的存在と交流するには、文字ではだめなのだ。
神は人間の声を聞き取る。
そして預言者に語りかける。
なぜなら声はいのちの一部だから。

神はどんな声で人に語りかけるのだろう?
ちょっと興味があるが、私は預言者ではないのでそれがわからない。

神は書かない。
そしてアブラハムもイエスもマホメットも釈迦も書かなかった。
今ある文字化された聖典は、弟子や後継者たちがまとめたものだ。

そういえば幕末明治期の日本の新興宗教の教祖たちもまとまったものは書かなかった。
今ある教典はたいてい弟子たちや教団事務局が教祖の言行録としてまとめたものだ。

神との交信は声でするけれども、その尊い教えを後世に継承するためにはやはり文字が必要だった。
言語にとって、声と文字は両輪なのだ。

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2025年6月 8日 (日)

ボルヘスとエリアーデ

少し前、日本文学は面白いと言った。
それならば外国文学にも目を向けなくては不公平だ。

私はあまり外国文学を読まない。
その少ない読書の中で、サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」は面白かった。

この作品については、このブログでも連載で紹介したので覚えておられる方もいらしゃっると思う。
この作品は文体はハチャメチャだが、主人公ホールデンの心の動きを描いているので抒情詩系に分類できるだろう。

このほかに心に残る作家が二人いる。
それだボルヘスとエリアーデである。

ホルヘ・ルイス・ボルヘス。
アルゼンチン生まれの幻想小説家。
一時期ブエノスアイレスの国立図書館長をしていたこともある。

私の本棚には「続審問」という文庫本がある。
これは小説ではなく、短いエッセイのアンソロジーである。

なかでも面白かったのが「ジョン・ウィルキンスの分析言語」という1篇である。
内容は長くなるのでここでは紹介しない。
関心のある方はこの本を読んでいただきたい。

要するにシステム的な国際共通語の提案である。
世界にある諸物を言語によってシステム的に分類して理解しようというのである。

これに付随していろいろな分類法が紹介されるが、中には奇想天外な分類法がある。
こんな分類法を考えた人がいるんだなあと教えられる。
こんなことを教えてくれた本はほかに読んだことがない。

ミルチャ・エリアーデ。
ルーマニア生まれの作家。
というより言語学者としてのほうが名高い。

私の本棚にはエリアーデの本がない。
わざわざ買った記憶もないので、図書館で借りたのだろう。
ずいぶん前のことなので、借りた本の題名も覚えていない。

でも内容は印象に残っている。
たしか戦いのシーンだったと思う。
戦士たちの戦いの雄たけびが耳に残っている。

サリンジャーが抒情詩系だとすればこの二人は叙事詩系だろう。
事実や出来事の描写が中心になっているから。

いま日本では外国文学の影響力が以前より小さくなっている気がする。
私が若いころはシモーヌ・ボーボワールやフランソワーズ・サガンが魅力的だった。

今やフランス文学やフランス哲学(サルトルのような)は見る影もない。
これらの人々はとりわけ若い人たちに人気があった。

いまその人気が凋落しているというのは、日本社会が老齢化したあかしだろうか?

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2025年6月 1日 (日)

抒情詩と叙事詩

まだ文字がなかった時代、文字ができてもまだ社会に浸透しなかった時代、共同体は英雄の事績を語り継ぐために叙事詩を作った。
こうして「オデッセイ」をはじめとする西洋の多くの叙事詩が出来上がった。

その点、日本人は何故か英雄をあまり必要としなかった。
そのかわり「花に鳴く鶯、水に住む蛙の声」に心を惹かれた。
だから抒情詩が花開いた。

今のように情報が氾濫していない時代だったから自然の風物に対する感度ははるかに高かったと思う。
むかしの人は「花に鳴く鶯、水に住む蛙の声」にしみじみ感興をそそられた。
ひるがえってスマホに依存する現代人は自然に対していちじるしく感度が鈍っているのではないか?

それはそれとして、もちろん日本にも叙事詩的な作品はあった。
平家の興亡を描いた平家物語などは叙事詩系だろう。
もっと昔なら神々の活躍や天皇制草創期を書き留めた記紀や風土記もそうだろう。

その点、源氏物語は抒情詩系である。
事実、作品の中に多くの和歌が取り入れられている。
そして今でも源氏物語のほうが圧倒的に人気は高い。

もちろん西洋にも抒情詩系の作品はある。
ソネットなどはそうだろう。

そして、今は世界的に見ても叙事詩の旗色は悪い。
なぜか?

それは人々の識字率が上がり無文字社会がなくなっただけでなく、さまざまな言語の外部記憶装置が発達したからだろう。
人々は叙事詩に頼らなくてもいいようになったのだ。

ではこの先、叙事詩は消滅してしまうのだろうか?
詩そのものはなくなっても叙事詩的な伝統は残ると思う。
小説や評論のかたちで。

叙事詩にせよ抒情詩にせよ「うた」は人類の言語生活と深くかかわっている。
「うた」の地下水脈はこの先も枯れることはないだろう。

ところで、AIは「うた」とかかわりを持っているだろうか?

たしかにAIはそれなりの短歌や俳句、それから詩を作ることはできよう。
しかしそれは圧倒的な効率による学習の結果なのだと思う。

だから何となくつくりものっぽい。
「うた」のこころの自然な発露とは言えない気がする。

これは保守的で頑迷な考えだろうか?
あなたはどう思いますか?

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