「かみ」とことば(その2)
前回はキリスト教の「神」と日本の「かみ」を対比させた。
でもそこに登場する「かみ」は神道の神さまたちだ。
日本では仏教も盛んである。
でもl仏さまは神さまとは言わない。
宗教の至高の存在を「神さま」と呼ぶのなら、仏さまも神さまである。
でもそうは言わない。
昔から「神仏」と言って、神さまは神道のもの、仏さまは仏教のものと相場が決まっている。
世界中どこでも異文化が遭遇した時に起こる反応はおおむね3種類である。
置換、折衷、共存のいずれかである。
置換の例をあげると、ヨーロッパでキリスト教がそれまでの土着宗教と完全に置き換わったことがあげられる。
折衷とはAの文化とBの文化が融合して、AでもBでもないCの文化になることである。
言語の世界でこの例を探るとピジョンやクレオールがあげられるだろう。
共存とは、文字通りAもBもその姿を保ったまま共存することである。
そして日本ではこのパターンが多い。
だいたい仏教が伝来しても、それまでの神道はちゃんと残った。
今でも神道と仏教は共存している。
明治以前の神仏習合は折衷ではないのかという人がいるかもしれないけれど、あれも共存のひとつの形なのだ。
お寺の中に神社があったりしたけれども、お寺やお社の形は変わっていない。
洋間、日本間、洋服、和服、洋菓子、和菓子など衣食住にも共存は広がっている。
日本文化は外来の要素を積極的に受け入れるけれども、在来の要素も決して捨てないのだ。
さて、前回は「かみ」の中から「紙」を除外した。
やはりほかの「かみ」とは異質なのだろうか?
でも言語にとっては「紙」はなくてはならない。
とりわけ書きことばにとっては、古代から重要な役割を果たしてきた。
紙が発明されてから2千年以上が経つ。
その歴史の中で紙は文化の媒体としてだけではなく、人々の意識変化にまでかかわってきた。
とりわけグーテンベルクの印刷技術の発明が人々の意識変化を促した。
「幻想の共同体」によれば、国民国家の成立にも紙と印刷が深くかかわった。
さて今、デジタル社会の到来によって、ペーパーレス化が叫ばれている。
紙の使用は地球環境にもよくないらしい。
でも紙の消費量は減っていない。
歴史の中で育まれた人々の紙への執着は強い。
本当にペパーレス化が実現するのだろうか?
あなたはどう思いますか?
言語学的には神と紙は別系統かもしれないが、執着という点ではどこかつながっているような気がする。
日本語で神と紙が同じ音だということは象徴的である。
さて日本には和紙がある。
日常的には洋紙が圧倒的だけれども、和紙も作られ続けている。
これも共存の一例だろう。
和紙は耐久性に優れている。
今も紙幣や古文書の修復に使われている。
福井県の和紙の産地では「神と紙のまつり」が行われているそうだ。
最近のコメント