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2025年5月18日 (日)

ベートーベンとモーツァルト

私の音楽シーンにはいつも二人の男性がいた。
ベートーベンとモーツァルトである。
その名は誰でも知っている。

ベートーベンとモーツァルトもユーミンと中島みゆき同様好対照である。
モーツァルトがユーミン的だとすれば、ベートーベンは中島みゆき的である。
モーツァルトは聞いていて軽快な気分になる曲が多いが、ベートーベンは重厚な曲が多い。

ベートーベンとモーツァルトは西洋音楽史の双璧をなしている。
ほかにもバッハやブラームスやシューベルトなどがいるけれど、知名度の点でこの二人にかなわない。

二人が双璧なのは、たぶん人間がバランスよく生きていく上でどちらも必要だったからだろう。
人間は重厚だけではもたない。
時として軽快さが必要だ。

このように対照的な二人だが、ひとつだけ共通点がある。
それは晩年に人間の声を取り入れたことだ。

モーツァルトの遺作となった「レクイエム」とベートーベンの交響曲第9番「合唱」である。
この二つの曲は若いころ何度も聞いた。
その時はあまり考えなかったのだけれど、なぜ二人は人間の声、ことばを取り入れたのだろう?

やはり器楽だけでは表現しきれないものを感じたのだろうか?
人間の声が入ってはじめて完璧な音楽になると思ったのだろうか?
そう思うと、人間の声、ことばというのは偉大である。

以前にもお話ししたことだけれど、もともとことばと「うた」は相性がいい。
ずいぶん昔に覚えたうたは、今でもすらすら歌詞が出て来る。
このことはみなさんにもおぼえがあると思う。
文章だけではなかなか覚えられない。

古代の文学作品はみな「うた」である。
ホメロスの「オデッセイ」は叙事詩である。
日本でも最古の文学作品は、「万葉集」という「うた」である。
ずっと時代が下っても、「平家物語」などは琵琶法師が「平曲」にのせて語ったので人口に膾炙した。

人間の言語史のうえで無文字時代は異様に長かった。
「うた」があったので文字の必要を感じなかったのかもしれない。

文字が誕生してからも、無文字社会は多かった。
そこでは「うた」が発達した。
アイヌの「ユーカラ」などもそうである。

現代は「うた」という聴覚に訴えるメディアよりもSNSや動画などのような視覚に訴えるメディアのほうが幅をきかせている。
果たしていいことなのか悪いことなのか?

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