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2025年5月25日 (日)

和歌とことば

日本語の歴史をさかのぼってみると、「オデッセイ」のような叙事詩は少ないが「うた」は万葉集以前からあった。
つまり人は古代から心の哀歓を「うた」で表現してきたのだ。
というか、「うた」でしか表現できなかった。
ことばと「うた」のつながりの深さをしみじみ感じる。

まだ仮名が存在しない時代に、万葉集が出来上がった。
万葉仮名という無理筋を使ってでも作らねばならなかった。

その後、平安時代に入って仮名が生まれ初の勅撰和歌集「古今和歌集」が成立した。
紀貫之の筆になる「仮名序」にこうある。

「やまとうたは人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける。 世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふ事を見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。 花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生けるものいづれか歌をよまざりける。力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛き武士の心をも慰むるは歌なり…」

貫之のことばは「うた」の本質をついている。
そして、宇宙における「うた」の効果も述べている。

日本人はむかしからこの効果に注目した。
ことばの本質のほうにはあまり注意が向かなかった。

前に何度もおはなししたことだけれども、日本語人はことばに関しては徹頭徹尾実用的なのだ。
だから、このブログのように執拗に言語の起源を考えたりしなかった。
ことばは使ってなんぼのものなのだ。

だから和歌や俳句、物語のような言語文化が発達した。
世界的に見ても日本文学は素晴らしい。
このことは水村美苗さんの「日本語が亡びるとき」にくわしい。

大きな新聞にはかならず全面を使って短歌と俳句の投稿欄がある。
そこに毎回アマチュア歌人や俳人の作品が投稿されている。

これは世界的に見て例がないのではないか。
日本文学を創作する層は厚い。

列島の津々浦々に短歌や俳句の結社があり、毎日アマチュアが作品を競っている。
一体古代から今までどれほどの作品が生まれたことだろう?

それでもいまだに新しい作品が作り続けられている。
そう思うと言語文化の可能性を感じる。

日本語人は言語の本質にはそれほど目を向けなかった代わりに、言語の実用性を重視した。
だから言語文化が花開いたのだ。

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2025年5月18日 (日)

ベートーベンとモーツァルト

私の音楽シーンにはいつも二人の男性がいた。
ベートーベンとモーツァルトである。
その名は誰でも知っている。

ベートーベンとモーツァルトもユーミンと中島みゆき同様好対照である。
モーツァルトがユーミン的だとすれば、ベートーベンは中島みゆき的である。
モーツァルトは聞いていて軽快な気分になる曲が多いが、ベートーベンは重厚な曲が多い。

ベートーベンとモーツァルトは西洋音楽史の双璧をなしている。
ほかにもバッハやブラームスやシューベルトなどがいるけれど、知名度の点でこの二人にかなわない。

二人が双璧なのは、たぶん人間がバランスよく生きていく上でどちらも必要だったからだろう。
人間は重厚だけではもたない。
時として軽快さが必要だ。

このように対照的な二人だが、ひとつだけ共通点がある。
それは晩年に人間の声を取り入れたことだ。

モーツァルトの遺作となった「レクイエム」とベートーベンの交響曲第9番「合唱」である。
この二つの曲は若いころ何度も聞いた。
その時はあまり考えなかったのだけれど、なぜ二人は人間の声、ことばを取り入れたのだろう?

やはり器楽だけでは表現しきれないものを感じたのだろうか?
人間の声が入ってはじめて完璧な音楽になると思ったのだろうか?
そう思うと、人間の声、ことばというのは偉大である。

以前にもお話ししたことだけれど、もともとことばと「うた」は相性がいい。
ずいぶん昔に覚えたうたは、今でもすらすら歌詞が出て来る。
このことはみなさんにもおぼえがあると思う。
文章だけではなかなか覚えられない。

古代の文学作品はみな「うた」である。
ホメロスの「オデッセイ」は叙事詩である。
日本でも最古の文学作品は、「万葉集」という「うた」である。
ずっと時代が下っても、「平家物語」などは琵琶法師が「平曲」にのせて語ったので人口に膾炙した。

人間の言語史のうえで無文字時代は異様に長かった。
「うた」があったので文字の必要を感じなかったのかもしれない。

文字が誕生してからも、無文字社会は多かった。
そこでは「うた」が発達した。
アイヌの「ユーカラ」などもそうである。

現代は「うた」という聴覚に訴えるメディアよりもSNSや動画などのような視覚に訴えるメディアのほうが幅をきかせている。
果たしていいことなのか悪いことなのか?

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2025年5月11日 (日)

ユーミンと中島みゆき

私の音楽シーンにはいつも二人の女性がいた。
ユーミンと中島みゆきである。

たぶん二人とも私と同世代だろうから若い人は知らないかもしれない。
だが、わたしたちの世代には圧倒的な人気があった。
しかし、ユーミンと中島みゆきは対照的である。

ユーミンには「中央フリーウェイ」という曲があるけれど、その名の通り高速道路を疾走しながら聞くにはちょうど良い。
ユーミンが活躍した時代はちょうどモータリゼーションが発展した時代と重なっている。
高度成長期にはユーミンの楽曲がよく似合う。

その点、中島みゆきの曲はごつごつしていて各所に引っ掛かりがある。
とても高速道路を突っ走るような疾走感はない。

ユーミンが軽快なら中島みゆきは重厚あるいはドラマチックである。
あえて言えば「プロジェクトX」のようなドキュメンタリーや深刻なドラマの主題歌にふさわしい。

それがどうしてユーミンと同じく人々の支持を得たのか?
たぶんユーミンのイメージの裏側を衝いたからだと思う。

世の中がユーミン一色に染まってしまってはいけない。
人間にはもう一つの側面がある。
そういう人々の無意識のバランス感覚が働いたからだと思う。

つまり、おたがいに補完しあって人間の全体像が成立するのだ。
ユーミンと中島みゆきは私たちの時代を通じてそんな役割を果たしてくれた。
中島みゆきのデビュー作に「時代」というのがあるけれど、これからの時代この二人のようなペアがあらわれるだろうか?

歌詞の面でも、軽快対重厚である。
ユーミンの「魔女の宅急便」の主題歌を聞いてほしい。
アップテンポの曲に乗って、歌詞が流れていく。

中島みゆきの「糸」を聞いてほしい。
岩に波濤が砕けるように、曲と歌詞がぶつかり合う。

二人の歌を重ね合わせると、つくづくことばの多様性とそれが生み出す力を感じないわけにはいかない。
これも「宇宙を循環することば」が循環の過程で磨き上げたわざだろうか?

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2025年5月 7日 (水)

山の名前

日本は山国である。
日本列島の林野率は70%を超える。
つまり、日本国内のどこから見ても山が見えないところはない。

学校の校歌にもそこでシンボルとなる山の名が詠みこまれている。
私の高校の校歌にもさほど高くない山が詠みこまれていた。
つまり山は日本人の郷土愛の象徴なのだ。

やまには山という漢字が当てられる。
その字音は「さん」である。
でも漢字伝来以前から「やま」という和語は当然ながらあった。
太古から身近な地形に名がないはずがない。

今の日本語では「山」は「さん」、「やま」と二通りに読まれる。
富士山、妙高山、六甲山…。
浅間山、栗駒山、岩木山…。

富士山などは前の字音に引きずられて「さん」と読むのだろう。
同様に浅間山なども前の訓に引きずられて「やま]と読むのだろう。
山の名前は和語のほうがしっくりくるように感じる。

山の名前には山のほかに岳というのもある。
岳には「がく」という字音があるが、山の名前の場合は「だけ」と訓で読む。
剣岳、穂高岳、甲斐駒ヶ岳…。
比較的高峰が多いようだ。

明治になってスポーツ登山が始まるまでは、日本の山は信仰の対象であり修行の場であった。
山はきびしい環境であればこその精神性があったように思う。
つまり男性的なのだ。

この点、海が世界共通に女性のイメージがあることと対照的である。
むかしは女人禁制の山もあったという。

山であれ岳であれ、要するに地表のでっぱりである。
それを指して太古の日本人は「やま」と呼んだ。

いつ誰がそう呼び始めたかーということは言語の起源の問題になって来るので先日来考えないことにしている。
ただ、これも「宇宙の中を循環する言語」というコンセプトの中で考えることもできる。

循環している言語の地下で不思議な動きが起こっている。
井筒俊彦さんの前言語的エネルギのイメージを思い出してほしい。
「や」という前言語的エネルギーが最適な相棒を求めて四方八方に触手を伸ばしている。
そして遂に「ま」という音節に出会った。

こうして「やま」という語が出来上がった。
「まや」ではなく…。

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