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2025年4月20日 (日)

源流と原点(その2)

前回は「~する人」をあらわす接尾辞をいろいろ挙げた。
「しゅ=手」とか「し=師、士」とか。

あの後考えてみるとまだあった。
たとえば「しゃ=者」。
記者、忍者、易者、芸者、学者などという。

医師は前回例として挙げたが、これは国家資格であることを強調する場合。
日常会話では医者のほうがよく使われる。

それから「じ=事」なんてのもある。
刑事、検事、判事、執事などという。

こうしてみると、日本語にはこの種の接尾辞が他の言語に比べても多いようだ。
多いだけでなく、複数の接尾辞を使い分ける場合もある。

先に上げた「医師=医者」がそうだが、「教師=教員」もそう。
教師は国家資格であることを強調する場合だが、教員は学校という組織の一員であることを強調する場合。

日本語にはこうした接尾辞が多いだけでなく複数の接尾辞の使い分けもある。
よほど「~する人」への関心が深かったようだ。
そういえば「秋深しとなりは何をする人ぞ」という俳句もあった。

前回はこうした接尾辞の存在について、「宇宙を循環する言語」の循環過程における「ゆらぎ」や「ゆれ」とこじつけた。
そして人類はそうした「ゆらぎ」や「ゆれ」を楽しむだけの能力もあった。
これも言語運用能力の一部だろうか?

前回の記事の意図は、思考の原点を定めることの大事さを伝えるためだった。
原点を設定していれば、今自分たちは思考のどのあたりにいるのかおのずからわかる。
それがわかれば、見当はずれの結論を出すこともあまりなくなるだろう。

今までの1000近い記事を改めてチェックしてみると、見当外れのものも多かったに違いない。
それは思考の原点が定まらず、右往左往していたからである。
これからはそういうことがない(ことを期待しよう)。

さて、「宇宙の中を循環する言語」という原点があるからと言って、それに固執してもいけない。
原則に固執することは、思考の柔軟性を奪うからだ。

言語という複雑怪奇な現象と向き合うためには、原点を保持しつつ柔軟に対応しなければならない。

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