時空を漂流する言語
当たり前のことだけれど、言語には地域差と時代差がある。
いま世界には6000を超える言語がある。
ひとつの言語の中でも方言がある。
どこまでが方言でどこからが別の言語か、その境界ははっきりしないけれど、ともあれそんな地域差がある。
時代差もどの言語にもある。
たとえば今の日本人が縄文人と会話してもまったく通じないだろう。
それでも同じ日本語である。
今だってことばは変わりつつある。
たとえばほんの20年前には「じいじ」ということばはなかった。
それまでは「おじいちゃん」や「じじい」ということばがふつうだった。
今や「じいじ」のほうがよく使われている。
たしかに発声器官が未発達の乳幼児は「じいじ」や「ばあば」のほうが言いやすいかもしれないが…。
千年後、日本語が存在しているとして未来の日本語人とわたしたちは通じ合えるだろうか?
心配になってくる。
そんなこと心配しなくてもいいのかもしれないが。
そう、言語は地域により時代により変わるものなのだ。
当たり前だけれど。
ここから「時空を漂流する言語」というイメージが出て来る。
先日ひらめいた「宇宙の中を循環する言語」というアイデアとよく似ている。
宇宙の中を循環している間に言語は自由自在に姿かたちを変えるというお話をした。
時空を漂流する言語も漂流している間に形を変える。
地域差、時代差という形で。
問題はこの地域差、時代差の成立に人間がかかわっていないことだ。
人間はこの地域差、時代差に翻弄されるばかりだ。
結局人間は言語の支配者じゃない。
この地域差、時代差は神さまあるいは言語そのものの意思で生じるのだ。
あと一つ、宇宙を循環する言語と時空を漂流する言語とでは決定的な違いがある。
宇宙を循環する言語は無限に循環するわけだから起源を考える必要がないけれど、時空を漂流する言語の場合漂流を始めた起点があるかもしれない、ということだ。
それがいつかは分からないけれど。
| 固定リンク
コメント