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2025年4月13日 (日)

源流と原点

「宇宙の中を循環する言語」の視点から見ると、私がことばの源流に近づいたと思ったのは錯覚だった。
そうではなくてこれはことばを考える際の原点だったかもしれない。

源流と原点は違う。
源流は場所が決まっているが、原点は時空間のどこに設定するのも任意である。

原点が定まていれば、いま私たちが座標系のどこにいるのかはっきり把握できる。
時空間のどこで言葉の問題を考えているのかがわかる。

自分たちがしっかりしていれば、変幻自在のことばの生態も多少はちゃんと認識できるかもしれない。
そうして少しづつ進んでゆくのだ。

抽象論に終始していても仕方がない。
ひとつ具体的な例を挙げよう。

日本語には仕事をあらわす接尾辞がたくさんある。
たとえば「しゅ=手」。
運転手とか投手とかいう。
助手や好敵手もその意味だろう。

それから「し=師、士」というのもある。
医師、教師、看護師などという。
技師もその意味だろう。

士のほうは弁護士や行政書士、税理士など。
士も師も国家資格保有者である。

それから「か=家」というのもある。
作家、陶芸家、写真家、音楽家、画家、建築家などという。
「一家をなす」、「大家」などもその意味だろう。
こちらは芸術系の仕事が多い。

今はあまり使われなくなったが、「ふ=夫」というのもある。
人夫、炭鉱夫、掃除夫などがある
こちらは現業系の仕事が多い。

そのほか仕事と言っていいかどうかわからないけれども、組織の構成員を示す接尾辞として「いん=員}というのがある。
社員、職員、工員、店員、作業員などという。

ほかの言語でもこうした使い分けをするのだろうか?
英語でも「…する人」の意味で「…er」、「…ist」、「…ian」などという接尾辞があるが、必ずしもそれで統一されているわけではない。

こうして見てくると、多くの言語に潜んでいる共通性が認められるとともに、そこからの逸脱も認められる。
思考の原点に「宇宙の中を循環する言語」の理念があれば、こうした共通性とそこからの逸脱は、すべて循環のプロセスで生じる「ゆらぎ」としてとらえることが出来る。

少し牽強付会が過ぎただろうか?

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