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2025年4月27日 (日)

州と県

どの国にも地方行政区画がある。
日本の場合は2段階方式で、上位が都道府県、その下に市区町村がある。

世界を見渡してみるとどうだろう?
州のほうが多いような気がする。

たとえばロシアにはクルスク州があり、ウクライナにはサポリージャ州がある。
アメリカももちろん州である。

でもフランスは県である。
ロワール県とかマルヌ県とかいう。
県はフランス革命のときにできtらしい。

でも州とか県は日本語である。
現地語はまったく違う。
どうしてこのように使い分けるのだろう?

想像するに、州は地方分権的であり(アメリカの州はその典型だ)県は中央集権的であるからだろうか?
日本のメディアがその国の地方行政の仕組みを勘案してこのように訳し分けたと考えられる。

日本の場合、明治維新初期に廃藩置県が行われ、それまでの藩がなくなり代わりに県がおかれた。
藩というのは半分独立国のようなもので、完全に地方分権だった。
でも明治政府は富国強兵を目指すうえで「これではいかん」ということになり、県を置いて中央から県令や県知事を派遣した。

つまり戦前は県は国の機関だったのだ。
戦後県は市町村と同等の自治体になったけれど、名称は県のままになった。
あとの都、道、府も同じである。

都は東京都だけ。
首都であることを強調したいのだろう。
でも戦前は東京府と言っていた。
いま大阪都構想なんてのがあるけれどどうだろう?

府は大阪府と京都府。
府もまた鎮守府とか都督府とか大宰府とか言って国家機関であることの意味である。
一時は大阪も京都も首都みたいなものだったから。

道も北海道だけ。
ここは新しいフロンティアだったので特別扱いしたのだろう。
韓国の全羅南道や慶尚北道と言った名称を参考にしたのかもしれない。

ではフランスはどうして県なのだろう?
やはり中央集権なのだろうか?

たしかにフランスの県も20世紀までは官選知事だったが、今では県のトップは公選の県会議長になっているという。
つまり、日本と同様名称だけ昔のままなのかもしれない。

ここでは、ロシア、ウクライナ、アメリカ、フランスの例しか挙げなかったけれど、他の国はどうなのだろう?
やはり圧倒的に州が多いのだろうか?
世界的に民主主義が浸透して地方分権が主流になってきたということだろうか?

この稿では各国の地方行政区画をその日本語訳を頼りに考察してみたのだけれど、メディアは訳す際に各国の地方行政の仕組みを調べるのだろうか?
手間ではあるが、それが誠実な態度というものだろう。

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2025年4月20日 (日)

源流と原点(その2)

前回は「~する人」をあらわす接尾辞をいろいろ挙げた。
「しゅ=手」とか「し=師、士」とか。

あの後考えてみるとまだあった。
たとえば「しゃ=者」。
記者、忍者、易者、芸者、学者などという。

医師は前回例として挙げたが、これは国家資格であることを強調する場合。
日常会話では医者のほうがよく使われる。

それから「じ=事」なんてのもある。
刑事、検事、判事、執事などという。

こうしてみると、日本語にはこの種の接尾辞が他の言語に比べても多いようだ。
多いだけでなく、複数の接尾辞を使い分ける場合もある。

先に上げた「医師=医者」がそうだが、「教師=教員」もそう。
教師は国家資格であることを強調する場合だが、教員は学校という組織の一員であることを強調する場合。

日本語にはこうした接尾辞が多いだけでなく複数の接尾辞の使い分けもある。
よほど「~する人」への関心が深かったようだ。
そういえば「秋深しとなりは何をする人ぞ」という俳句もあった。

前回はこうした接尾辞の存在について、「宇宙を循環する言語」の循環過程における「ゆらぎ」や「ゆれ」とこじつけた。
そして人類はそうした「ゆらぎ」や「ゆれ」を楽しむだけの能力もあった。
これも言語運用能力の一部だろうか?

前回の記事の意図は、思考の原点を定めることの大事さを伝えるためだった。
原点を設定していれば、今自分たちは思考のどのあたりにいるのかおのずからわかる。
それがわかれば、見当はずれの結論を出すこともあまりなくなるだろう。

今までの1000近い記事を改めてチェックしてみると、見当外れのものも多かったに違いない。
それは思考の原点が定まらず、右往左往していたからである。
これからはそういうことがない(ことを期待しよう)。

さて、「宇宙の中を循環する言語」という原点があるからと言って、それに固執してもいけない。
原則に固執することは、思考の柔軟性を奪うからだ。

言語という複雑怪奇な現象と向き合うためには、原点を保持しつつ柔軟に対応しなければならない。

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2025年4月13日 (日)

源流と原点

「宇宙の中を循環する言語」の視点から見ると、私がことばの源流に近づいたと思ったのは錯覚だった。
そうではなくてこれはことばを考える際の原点だったかもしれない。

源流と原点は違う。
源流は場所が決まっているが、原点は時空間のどこに設定するのも任意である。

原点が定まていれば、いま私たちが座標系のどこにいるのかはっきり把握できる。
時空間のどこで言葉の問題を考えているのかがわかる。

自分たちがしっかりしていれば、変幻自在のことばの生態も多少はちゃんと認識できるかもしれない。
そうして少しづつ進んでゆくのだ。

抽象論に終始していても仕方がない。
ひとつ具体的な例を挙げよう。

日本語には仕事をあらわす接尾辞がたくさんある。
たとえば「しゅ=手」。
運転手とか投手とかいう。
助手や好敵手もその意味だろう。

それから「し=師、士」というのもある。
医師、教師、看護師などという。
技師もその意味だろう。

士のほうは弁護士や行政書士、税理士など。
士も師も国家資格保有者である。

それから「か=家」というのもある。
作家、陶芸家、写真家、音楽家、画家、建築家などという。
「一家をなす」、「大家」などもその意味だろう。
こちらは芸術系の仕事が多い。

今はあまり使われなくなったが、「ふ=夫」というのもある。
人夫、炭鉱夫、掃除夫などがある
こちらは現業系の仕事が多い。

そのほか仕事と言っていいかどうかわからないけれども、組織の構成員を示す接尾辞として「いん=員}というのがある。
社員、職員、工員、店員、作業員などという。

ほかの言語でもこうした使い分けをするのだろうか?
英語でも「…する人」の意味で「…er」、「…ist」、「…ian」などという接尾辞があるが、必ずしもそれで統一されているわけではない。

こうして見てくると、多くの言語に潜んでいる共通性が認められるとともに、そこからの逸脱も認められる。
思考の原点に「宇宙の中を循環する言語」の理念があれば、こうした共通性とそこからの逸脱は、すべて循環のプロセスで生じる「ゆらぎ」としてとらえることが出来る。

少し牽強付会が過ぎただろうか?

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2025年4月 6日 (日)

時空を漂流する言語

当たり前のことだけれど、言語には地域差と時代差がある。

いま世界には6000を超える言語がある。
ひとつの言語の中でも方言がある。
どこまでが方言でどこからが別の言語か、その境界ははっきりしないけれど、ともあれそんな地域差がある。

時代差もどの言語にもある。
たとえば今の日本人が縄文人と会話してもまったく通じないだろう。
それでも同じ日本語である。

今だってことばは変わりつつある。
たとえばほんの20年前には「じいじ」ということばはなかった。
それまでは「おじいちゃん」や「じじい」ということばがふつうだった。

今や「じいじ」のほうがよく使われている。
たしかに発声器官が未発達の乳幼児は「じいじ」や「ばあば」のほうが言いやすいかもしれないが…。

千年後、日本語が存在しているとして未来の日本語人とわたしたちは通じ合えるだろうか?
心配になってくる。
そんなこと心配しなくてもいいのかもしれないが。

そう、言語は地域により時代により変わるものなのだ。
当たり前だけれど。

ここから「時空を漂流する言語」というイメージが出て来る。
先日ひらめいた「宇宙の中を循環する言語」というアイデアとよく似ている。

宇宙の中を循環している間に言語は自由自在に姿かたちを変えるというお話をした。
時空を漂流する言語も漂流している間に形を変える。
地域差、時代差という形で。

問題はこの地域差、時代差の成立に人間がかかわっていないことだ。
人間はこの地域差、時代差に翻弄されるばかりだ。

結局人間は言語の支配者じゃない。
この地域差、時代差は神さまあるいは言語そのものの意思で生じるのだ。

あと一つ、宇宙を循環する言語と時空を漂流する言語とでは決定的な違いがある。
宇宙を循環する言語は無限に循環するわけだから起源を考える必要がないけれど、時空を漂流する言語の場合漂流を始めた起点があるかもしれない、ということだ。
それがいつかは分からないけれど。

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