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2025年3月30日 (日)

言語の多様性とその起源

「宇宙の中で循環する言語」というアイデアがひらめいたおかげで言語の起源の問題を考えなくてよくなった。
やれやれと思ったのだけれど、実はまだ問題が残っていた。

それは言語の多様性の問題である。
いま世界の口頭言語は6000近くあるという。
世界中の人々がおたがい通じ合わない言語をしゃべっているのだ。

なぜそうなったのだろう?
聖書ではその原因をバベルの塔の事件のせいだとしている。

それはそれとして、本当のところはどうなのだろう?
その昔、異なる言語が同時多発的に誕生したのだろうか?

それとも、人類の東アフリカからの拡散の過程でそれぞれ独自の発達を遂げて今に至っているのだろうか?
口頭言語は人間が担うものだから、後者の考えのほうが納得がいくのだが。

いずれにしても、「宇宙の中で循環する言語」という考え方で片付く問題ではない。
何か別の考え方を導入しないとだめそうだ。

たとえば今わたしは日本語という言語を使ってこのブログを書いているのだけれど、これが理解できるのは日本語話者だけである。
日本語は世界のどの言語とも似ていない。
一時期言語系統論が盛んだったころは、日本語はウラルアルタイ語族に属すると言われていたけれども、最近はあまり聞かれなくなった。

どうして日本語のようなユニークな言語が生まれたのだろう?
縄文時代やもっと前の時代に日本列島人はどんなことばを喋っていたのだろう?

あいにく文字資料がないから何もわからない。
でも想像してみるのは楽しい。

現代日本語話者にはまったくわからないことばだろうけれど、たとえば「やま」のことは何と言っていたのだろう?
日本語の歴史に関する本は沢山あるけれども、ここまでさかのぼる本はない。

根拠となる音声が残っていないのだからどうしようもない。
出土した遺物や遺跡からなにか推測できるだろうか?

日本列島に人が住み始めたのはいつか?
いろいろな説があるようだけれど、大体3万年以上前、というのが正しいらしい。

もちろんユーラシア大陸から海を越えてやって来たのだ。
当然高度な操船技術が必要になる。

こうした組織的な活動のためには効率的なコミュニケーションが不可欠だ。
彼等はどんなことばを使っていたのだろう?

今となってはもうわからない。
こうしたことが今使われているすべての言語に当てはまる。

つくづく言語のはかなさを思わずにはいられない。

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2025年3月23日 (日)

空海の言語思想

前回はことばは人間をはるかに超えた大きな存在かもしれない、というお話をした。
そういう意味では神さまと並び立つ。

その神さまにあたるのが真言密教では大日如来である。
大日如来がみずから教えを語ることを「法身説法」という。

但し大日如来が語ることばは人間にはわからない。
それが異次元のことばであるからだ。

前回「宇宙の中を循環する言語」についてお話しした時、循環の過程で私たち人間には認知できない形をとることもある、と言ったけれどまさにそれなのだ。

この法身説法、つまり大日如来の語ることばは「宇宙を循環する言語」の一部と考えていい。
「宇宙の中を循環する言語」の考え方を導入すると空海の言語思想がよく理解できる。

空海の言語思想については井筒俊彦さんの高野山大学での講演から学んだ。
この講演は何度読んでも含蓄が深い。
言語の本質について、日常言語を超えたところから教えてくれる。

空海の言語思想の中核は「宇宙の中を循環する言語」と大体同じだ。
宇宙の中を吹きわたる風のようなものである。

その風は人間には感じられない。
その風を荘子は「天籟」と呼んでいる。

天籟は人には感じられないが、その風が一旦地上にまで及ぶと「地籟}となって人間に感じられるものとなる。
超言語が人が認知できるふつうの言語になるのだ。
循環の過程で言語が姿かたちを変えるのと同じである。

問題は空海がこうした言語思想をどうして着想したかである。
真言密教の教えの中にこうした考え方があるのだろうか?

そういえば仏教に輪廻転生という考え方がある。
これは生命が循環するということだろう。
空海はここからヒントを得たのかもしれない。

ともあれ、こうしたことを研究している人がいれば教えてほしい。

結局、その後の日本の言語思想には空海の思想は受け継がれなかった。
その内容があまりに世間離れしていために、実用を重んじる日本語話者には受け入れられなかったのだろう。

言語の起源や言語の本質なんかどうでもいい、ことばはつかってなんぼのもの、という考え方が徹底していたのだから仕方がない。

空海の言語思想は日本の言語思想史の中で屹立している。

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2025年3月 9日 (日)

ことばの源流(その2)

前回は「宇宙の中を循環する言語」というイメージを喚起した。
したがって初めもなければ終わりもない。
言語の起源について悩まなくてもいい。
言語の終わりも考える必要がない。

宇宙の中を循環しているだけでなく、循環している間に水のように姿かたちを変えているかもしれない。
ある場所では言語のすがたをとっていないかもしれない。

こうなるともはやわたしたちには認知できない。
井筒俊彦さんの前言語的エネルギーのイメージを思い出す。

この前言語的エネルギーは宇宙全体を満遍なく満たしているエーテルのようなものかもしれない。
「はじめにことばがあった」という新約聖書のフレーズはこのことを言いたかったのだろうか?

ことばが循環しているものなら、源流もないことになる。
わたしたちはその流れの一局面に立ち会っているだけだ。
それを言語として認知している。

それでもそれが私たちにとっての命綱だ。
そう思うと言語は私たちをはるかに超えた大きな存在かもしれない。

私たちをはるかに超えた大きな存在、と言えば神さまだ。
ことばは神さまと並び立つ。
「ことばは神とともにあった」

循環する言語というアイデアは、地球上を姿を変えながら循環する水とのアナロジーから生まれた。
地球は水の惑星と呼ばれている。
私たちにとって言語が不可欠であるのと同じように地球にとっては水が不可欠である。

ではその水の起源は何だろう?
地球史のある時点で水素原子と酸素原子が偶然結合したのだろうか?

それとも地球外からやってきた?
他にも水のある惑星があるらしいから、地球の水も外からやってきた可能性はある。
にこのアナロジーを言語にも適用すると、言語もまた私たちの外からやって来た、ということになる。
言語は神さまから人類へのプレゼントという考え方もこの線に沿っている。

ここまでくると収拾がつかない。
どうやら私のイメージの暴走が過ぎたようだ。

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2025年3月 2日 (日)

ことばの源流

結局言語の起源についてもことばと意味の関係についてもわからなかったけれども、この間、ことばの源流近くをうろついた感覚はある。
なぜそうかと言えばことばのかすかな水音が聞こえるからだ。

以前、黒部川の源流地帯を紹介した映像を見たことがある。
山肌の所々で水がチョロチョロ湧き出していた。

それが小さなせせらぎとなり幾筋も集めて川となり、やがて険しい渓谷となる。
そしてとうとう平地に出て流れが緩やかになり、最後に日本海に注ぐのだ。

黒部川の流れを言語の歴史と重ね合わせてみると、いま私たちはどのあたりにいるだろう?
日本語に限って言えば、今比較的落ち着いているので、もう河口は間近なのだろうか?

しかしこれからAIの進歩があり、英語の世紀の到来もあることを考えると、日本語も再び疾風怒涛に巻き込まれるかもしれない。
そう考えると、河口はまだまだ先かもしれない。
覚悟しておこう。

河口が近いのならもうすぐ言語の終わりということになる。
人類は永遠ではないのだから、いずれ言語も終わりの時を迎える。
どういう終り方をするのだろうか?

興味深いテーマだが、言語の起源同様私たちの想像力の彼方にある。
言語が神さまの創造によるものだとすれば、その終末にも神さまの意思が働くのだろうか?
こうなるともうわたしたちには関係ない。

川の一生を想うとき、私はスメタナの「モルダウ」を連想する。
出だしは源流に近く水が湧出する描写である。
それがやがて奔流になり、最後は穏やかに海に注ぐ。

言語の起源はわからなかったが、源流で湧出する水がどこから来ているかはわかる。
それは地下水である。

しかし地下水が川の起源だということはできない。
その地下水も最初の存在ではないからだ。
地下水は雨水が山肌にしみこんでできたものだ。

その雨は海から蒸発した水蒸気が原料になる。
そして海には川から水が流れ込んでいる。
つまりこの水には初めも終わりもなく自然の中を絶え間なく循環しているのだ。

同じように言語はもともと初めも終わりもなく循環しているのかもしれない。
「宇宙の中を循環する言語」
なかなかすてきな詩的イメージだ。

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