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2025年2月16日 (日)

ことばと意味(その23)

「ことばには意味がある」というテーゼに対して「ことばは意味である」というのが私の結論だった。
これを数学記号であらわすと「ことば>意味」ではなく「ことば=意味」ということになる。
この数学的表現の妥当性を検討してみよう。

たとえば「ねこ」ということばがある。
この音を聞いた人の脳裏には、その実体が浮かぶ。

ということは、ことばは音と意味から成り立っている。
してみるとやはり「ことば>意味」ということになるのだろうか?

しかし、意味はことばと離れて独立で存在することはできない。
「ねこ」という音があるからこそ、「ねこ」の実体が立ち上がる。
ということは、やはり「ことば=意味」なのだろうか?

そもそも「ねこ」の実体はことばに先立って、つまり先験的に存在しうるのだろうか?
私達の日常感覚では、そう思える。
神さまがアダムの前に生き物を連れてきて、アダムがそれぞれ名付けるという創世記のエピソードはその感覚の上に立っている。

しかし、これもことばの魔力なのかもしれない。
ことばがそう錯覚させるのかもしれない。

「ねこ」ということばが生まれる前には、「ねこ」は存在しない。
しもそも「生き物」ということばがなければ生き物なんて存在しない。
と言えるかどうか?

ことばに先立って、「存在」があり得るかどうか?
これは認識論上の大問題だ。
あなたならどう思いますか?

ことばと意味をめぐる私の議論は堂々巡りをしている。
どうやら袋小路にはまり込んでしまったようだ。
ここから抜け出すには、視点を変えるにしくはない。

「ねこ」ということばは、どうしてうまれたのだろう?
神さまか人間かどちらかしかいない。

神さまが人間にプレゼントしたのなら話は早い。
どうやって人間がそのことばを受け入れたか、どうやって言語集団の中に広がったのか考えなくていい。

しかし人間が作ったと考えると難しくなる。
じゃあ集団の中のだれが作ったのかということがまず問題になる。

「こいつはよく寝るからこれからは『ねこ』と呼ぶことにしよう!」と誰かが言って、みんながそれに賛同したから?
まさか!
最初からつまづいてしまった。

結局、言語の起源やことばと意味の関係なんて私たちの手に負えるものではない。
私たちにできるのは、これらの問題について詩的なイマジネーションをふくらませることだけである。

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2025年2月 9日 (日)

ことばと意味(その22)

「ことばは意味である」
というのが長い愚考の末の私の結論だった。

つまりことばと意味は別物ではなく同じ一つのもの、ということだ。
これですっきりした。
ここまで来るのに10年以上の歳月を費やした。

そもそも「ことばには意味がある」というキャッチフレーズがいけないのだ。
こういうことばを聞くと、多くの人は何となくことばと意味は別物、と思ってしまう。
まあふだんことばと意味の関係なんて深く考えることはないから、仕方ないのだけれど…。

どうも日本語話者にはそんな傾向があるような気がして仕方がない。
これも何度もお話ししてきたことだけれど、西洋には聖書をはじめ言語の存在へのこだわりがある。

ひるがえって日本の言語研究史を繙いてみると、空海の言語思想にしても、江戸時代に興隆した国学にしても、言語の起源とかことばと意味の関係には触れていない。
みなことばはあって当然、使いこなしてなんぼのもの、という態度なのだ。

日本列島には日本語しかなかった、という特殊事情のせいだろうか?
西洋には多くの異なる言語圏が接していて日常的に異なる言語に触れる機会が多かったためかもしれない。

もちろん日本語圏の内部でも方言による違いは存在する。
方言と異言語の違いというのは難しいけれど、方言は何とか工夫すれば通じ合うことができる類いのものだ。

むかし列島の遠く離れた人がコミュニケーションをとるとき、能のことばを使った、ということを聞いたことがある。
これも工夫の一例だろう。
今では学校教育やメディアがその役割を果たしている。 

そのせいか、だんだん方言による違いがなくなってきているような気がする。
言語の均一化が進んいるような気がする。
今後ますます人々の交流が進んでいくだろうから、この傾向は進んでいくだろう。

以上は日本語の中での話だけれど、他の言語ではどうなのだろう?
同じだろうか?

だとすれば言語の均一化は世界的規模で進んでいくだろう。
現に英語が国際共通語になりつつある。
日本でも幼児の時期から、英語教育に取り組んでいる。

将来世界中の人々が英語でコミュニケーションをとるようになるかもしれない。
聖書にあるバベルの塔以前の姿に戻るかもしれない。

そのことについて問題点を指摘したのが水村美苗さんが10年前に出した「日本語が亡びるとき」という本である。
出版当時はそれなりに話題になったようだが、みなさん覚えておられるだろうか?

その指摘の正否はともかく、私はこの本を何度も読んで感銘を受けた。
ことばというものついて、深く考えさせられる本である。

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2025年2月 2日 (日)

ことばと意味(その21)

「ことばには意味がある」
という岩波新書のキャッチフレーズがいまだに頭の中に響いている。

すると何か。
ことばと意味は別物なのか?

いやいやそうとは即断できぬ。
しからばことばと意味の関係やいかに?
というのがこの長い愚考の発端だった。

ことばと意味は別物と仮定するとすぐ井筒さんのことばの深層のイメージが思い出される。
意味を求めて四方八方に触手を伸ばすあの前言語的エネルギーのイメージである。

そしてついに最適な意味と結合できたとき、特定の語彙が成立する。
そんなメカニズムだろうか?

たしかにシニフィアンとシニフェが結びついて一つの語彙が出来上がるとするソシュールの説はそれを支持している。
しかし、そうではないような気もする。

たとえばここに「いぬ」ということばと「ねこ」ということばがある。
いずれもまとめて「生き物」と呼ばれる。
そしてこの世は「生き物」と「無生物」でできている。

このように世界を分割したり分類したり分節するのはことばの役目である。
ことばがなければ世界はのっぺらぼうである。
わたしたちには世界を認識するすべがない。

ということは、ことばが意味を創造するということになるのではないか?
「はじめにことばがあった」という聖書のセリフは核心をついたことばのように思える。

こうしてみるとことばのほうが意味よりえらいように思えるのだが…。
いやいやそもそもこう考えるのは、無意識にことばと意味は別物という前提に立っているからではないか?

ことばも意味もどちらかがなければ成り立たない。
ことばと意味は相互依存的である。
というより、ことばと意味はセットになっていて一つのものなのだ。

だから、「ことばには意味がある」ではなくて「ことばは意味である」というのが私の結論である。
如何だろうか?

辞書はことばの意味を解説している。
たとえば「意味」ということばは次のように解説されている。
「言語表現によって表される内容、言語表現が指し示す事柄または事物」

ここでもことばと意味は別物、という前提があるようにうかがわれる。
そもそもその前提が怪しいのだけれども、辞書としてはこのように「ことばで」説明するしかない。

ともあれ、わたしたちはことばの檻から逃れるることはできない。
ことばの外に出て、「意味」を観察することなどできないのだ。

その場合の解決策は、「ことばと意味は別物でなく。ひとつのものである」と考えるほかない。
ようやく長い愚考の果てに結論が出たようだ。

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