ことばと意味(その23)
「ことばには意味がある」というテーゼに対して「ことばは意味である」というのが私の結論だった。
これを数学記号であらわすと「ことば>意味」ではなく「ことば=意味」ということになる。
この数学的表現の妥当性を検討してみよう。
たとえば「ねこ」ということばがある。
この音を聞いた人の脳裏には、その実体が浮かぶ。
ということは、ことばは音と意味から成り立っている。
してみるとやはり「ことば>意味」ということになるのだろうか?
しかし、意味はことばと離れて独立で存在することはできない。
「ねこ」という音があるからこそ、「ねこ」の実体が立ち上がる。
ということは、やはり「ことば=意味」なのだろうか?
そもそも「ねこ」の実体はことばに先立って、つまり先験的に存在しうるのだろうか?
私達の日常感覚では、そう思える。
神さまがアダムの前に生き物を連れてきて、アダムがそれぞれ名付けるという創世記のエピソードはその感覚の上に立っている。
しかし、これもことばの魔力なのかもしれない。
ことばがそう錯覚させるのかもしれない。
「ねこ」ということばが生まれる前には、「ねこ」は存在しない。
しもそも「生き物」ということばがなければ生き物なんて存在しない。
と言えるかどうか?
ことばに先立って、「存在」があり得るかどうか?
これは認識論上の大問題だ。
あなたならどう思いますか?
ことばと意味をめぐる私の議論は堂々巡りをしている。
どうやら袋小路にはまり込んでしまったようだ。
ここから抜け出すには、視点を変えるにしくはない。
「ねこ」ということばは、どうしてうまれたのだろう?
神さまか人間かどちらかしかいない。
神さまが人間にプレゼントしたのなら話は早い。
どうやって人間がそのことばを受け入れたか、どうやって言語集団の中に広がったのか考えなくていい。
しかし人間が作ったと考えると難しくなる。
じゃあ集団の中のだれが作ったのかということがまず問題になる。
「こいつはよく寝るからこれからは『ねこ』と呼ぶことにしよう!」と誰かが言って、みんながそれに賛同したから?
まさか!
最初からつまづいてしまった。
結局、言語の起源やことばと意味の関係なんて私たちの手に負えるものではない。
私たちにできるのは、これらの問題について詩的なイマジネーションをふくらませることだけである。
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