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2025年1月26日 (日)

ことばと意味(その20)

250126 938 ことばと意味(その20)

前回前にもことばと意味の関係についてこのブログで述べたとお話しした。
それは今から12年も前のことになる。

その時は18回にわたって考えてみた。
でも結局このテーマのすそ野をうろうろしただけで終わってしまった。
言語の起源と同じである。

12年前の記事を読み返してみると、きっかけは日本語には多義的な語が多いという指摘からだった。
これは利用できる音節数の少ない日本語のやむを得ない特徴である。
その例として「きく」という動詞をあげた。

漢字表記で語義を見てみると、まず「聞く」がある。
これは人の発話を受信するという意味である。

しかし、「利く」という意味もある。
「口を利く」というのは自分のほうからことばを発信する、という意味になる。

上の「聞く」と正反対の意味である。
それを一つの語「きく」が担っている。

よく似た現象は同じく基礎的な動詞「よむ」にも見られる。
ふつう「読む」は他人の文章を受信することである。

それに対して「詠む」という意味もある。
これは自分の感動を和歌などにしたためて発信することである。
つまり、「よむ」という語も正反対の意味を担っている。

「きく」、「よむ」といった基礎的な動詞が正反対の意味を担っていて日本語話者は混乱しないのだろうか?
歴史的に見ると混乱は生じずに今に至っている。
こんな疑問から、ことばと意味について考えるようになった。

その際、「ことばには意味がある」というキャッチフレーズが頭にあった。
これは岩波新書のしおりに書かれている標語である。

このキャッチフレーズを素直に読むとことばと意味は別物、という感じがする。
わかりやすくいうと、ことばとは意味という中身を入れる箱のようなものというイメージである。
実際多くの人はそう思っているのではないか?

私も何となくそう思っていた。
しかし今になって、そのイメージが前回の愚考の罠になっていたのかもしれない。

では本当はどうなのだろう?
それはまた次回に。

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2025年1月19日 (日)

ことばと意味(その19)

これまで言語の起源についてかんがえてきたけれど、何もわからなかった。
ずっと以前にこのテーマを扱った時も同じだった。

素人が徒手空拳で扱うべきテーマではないのだ。
といって、それなりの素養を備えたプロの研究者でもこの問題に答えを出した人はいない。

言語の起源は絶対にある。
でも、それは誰にも分らない。

というのが永遠の真理のようだ。
くやしいけれども。

言語に限らず起源の問題というのはそういうものかもしれない。
家族の起源、貨幣の起源、国家の起源…。
みな同じである。

「ない」状態から「ある」状態に変わるのは必ず何らかの「きっかけ」があるはずだ。
それを探りたいのだが…。

言語の起源に戻ると、この問題はプロの研究者でも歯が立たないのだから、私たち素人の直感もまんざら捨てたものではないだろう。
そう思って、この問題に取っかかったのだけれどその直感が出てこなかった。

なのでこの問題に正面から向かってもだめみたい。
だからいったん遠回りしてみたい。

「意味」という漢語を私たちは実によく使う。
いわく「そんなことして何か意味があるの?」
「この語の意味について述べよ」」
「私が生きている意味は何だろう?」

「意味」という漢語には対応する和語がない。
ということは漢字漢語が伝来する以前の日本では「意味」にあたる語がなくても平気で生活していたということになる。

そうかもしれない。
むかしの人はむずかしく考えずに上機嫌に暮らしていた。

以前にもこのブログでことばと意味について考えたことがあった。
もう10年以上前のことである。

その時「ことばと意味」シリーズは18回にわたって連載した。
しかしこれも言語の起源同様さしたる結論には至らなかった。

ところで私が「意味」という語に注目したのはあるきっかけからである。
岩波新書のしおりに「ことばには意味がある」と書かれていたからである。

すると何か。
ことばと意味は別物なのか?
ここからことばと意味の関係についての探求が始まった。

岩波新書のしおりを素直に読めば、ことばという箱に意味という中身が収納されているような感じを受ける。
しかし本当にそうなのだろうか?
そんな単純な関係なのだろうか?

こうして私は10年の時を経て再びことばと意味の関係を探る旅に出る。

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2025年1月12日 (日)

口頭言語と文字言語(その2)

口頭言語の場合、音韻も語彙も文法も異なる言語が世界で6千ほどもあるという。
これに対して文字言語の種類はそれほど多くない。

文字言語の場合、伝播して広がったり変形して使われたりしているから、オリジナルの文字は数種類程度だ。
これも口頭言語との大きな違いである。

日本語の場合でもオリジナルの文字はない。
まず中国から漢字が伝来した。
その漢字を変形して仮名ができた。
こうして現在使われている日本語の文字言語はみな漢字由来である。

ただし、中国語とはまるで違う日本語を漢字で表記するのは無理を伴う。
古事記を編纂した太安万侶も古事記序文でその困難に触れている。

そうして仮名が出来上がった。
ただし漢字も使い続けた。
こうして今の日本語の表記法がある。

同じ漢字文化圏でも朝鮮半島は違う。
中国から漢字を受け入れたのは日本と同じだが、その後漢字とは縁のないハングルというオリジナルの文字を作った。
今ではほぼハングル一本やりである。

この日本と韓国、朝鮮の違いは文化の受容、変遷の点で興味深い。
この違いの原因は何だろうか?
それについてわかりやすい説明は聞いたことがない。

ベトナムのチュノムの場合は成立の事情が仮名によく似ている。
漢字をもとに作ったことや漢字とのまぜ書きをしていたことなどの点で仮名と類似している。
しかしそのベトナムもフランスの統治を経て今ではローマ字になってしまった。

昔は別の文字を使っていたのに政治的な理由でラテン文字に変わってしまった例は多い。
トルコの文字もそう、インドネシアの文字もそう。

同じ文字でも異なった字体で使用している例もある。
繁体字と簡体字はそんな例の一つだ。

大陸で使っている簡体字の中には本来の漢字からかなり離れてしまっている字もある。
かと思えば台湾のようにかたくなに繁体字を使い続けているところもある。
「鹽」なんて子供が覚えるのは大変だと思うのだが…。

こうしてみると文字言語は言語にとって本質的なものでなく、便宜的、補助的なものという印象が強い。
日本語だって今は漢字かな交じりが不動の地位にあるけれども、遠い将来はわからない。

口頭言語は自然発生的だけれど、文字言語は文明に属する。
だから政治的、経済的条件で変わることがある。

時には個人の意思さえ関係してくる。
ハングルが誕生したのもそんな例だろう。

これから先、文字はどうなってゆくのだろう?
AIという新しい要素も絡んでくる。
予断は許されない。

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2025年1月 5日 (日)

口頭言語と文字言語

口頭言語と文字言語の比較論は以前にもしたことがあるから、蒸し返しになるかもしれない。
でもこれは興味深いテーマなのでもう一度取り上げてみたい。

一番大きな違いは文字言語は道具が必要、ということである。
地面に文字を書くのだって、枯枝という道具がいる。
今ならスマホという電子機器がいる。

これに対して口頭言語を発するのに道具はいらない。
口を開けば自然に声が出る。

そういう意味では口頭言語は身体的、文字言語は文明的である。
文字言語が口頭言語に比べて発生がずっと遅かったのも、そのせいかもしれない。

それと関係があるかもしれないが、文字言語を習得するためには学習が欠かせない。
口頭言語に学習はいらない。

子供が成長するに伴って自然に歩けるようになるのと同じように、自然にことばを発することが出来るようになる。
私たちには難しいと感じる東欧の言語だって、現地で生まれ育った子供は難なくしゃべれるようになる。
口頭言語は徹頭徹尾身体的なのだ。

文字言語は文明に属するから、これを使いこなせるようになるには学習や教育が欠かせない。
古代は学校が整備されていなかったから家族の中でその文明が継承された。
紫式部だって、お父さんから文字、古典を習った。
俗にいう「読み書きそろばん」は昔から教育の基本である。
教育の発達の背後には、文字言語の存在があったかもしれない。

文字は長い間エリートや支配層の占有物だった。
むしろ一般民衆は文字を知らないほうが都合がよかった。

しかし、時代が進み社会の中で文字の役割が大きくなってくると、そういうわけにはいかなくなった。
支配者の命令を行き届かせるためには民衆が文字を知る必要が出てきた。
蔦重が江戸のメディア王になれたのも文字を読むことのできる民衆がいたからだ。

それでも無文字社会はつい最近まであったし、いまでも読み書きができない人はいる。
そう思うと言語は人類にとって必須だけれども、文字は必ずしも必須とは言えないかもしれない。
そういう本質的な疑問は残りつつ、文明社会を維持していくために文字は欠かせない。

西欧では文字は口頭言語の補助手段、口頭言語のしもべという意識が強かった。
これに対して東アジアでは漢字文化圏というものが形成され、文字優位の伝統があった。
これには漢字というインパクトの強い文字があったためだと思う。

前回は最後に口頭言語と文字言語の未来を少し展望してみた。
口頭言語は身体的だから、人間の肉体が変わらない限りあまり変化することはないと思う。
これに対して文字言語は文明に属するから、どんどん変化していく。

文字を書く道具も大昔から多くの変遷を遂げてきた。
その変遷は人間の言語活動にも影響を及ぼしている。

たとえば今ではパソコンやスマホで文字を書くことが増えている。
それらの道具には、かなで入力すると先回りして候補を表示してくれるというおせっかい機能がついている。
そのために漢字を忘れる。
もう手書きでは書けなくなっている。

今漢字を使っている国は中国、台湾、日本の3か国だけである。
使用人口はそこそこ多いが、今後増える見込みはない。
それに上でもお話ししたように、どんどん漢字を忘れてしまっている。
この分では将来漢字文化圏は消滅してしまうかもしれない。
漢字かな交じりという日本語の独特の表記法はしばらくは安泰だろうけれども、遠い将来はわからない。

このように文字言語の変化に伴う私たちの言語活動の変化は日本語だけでなく、他のすべての言語にもあると思う。
遠い将来私たちの言語活動はどうなるのだろう?

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