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2024年12月29日 (日)

言語の起源(その6)

言語の起源のときは分からないけれども言語は人類の誕生とともにあった。
ただし、これは口頭言語のことである。

いま私たちが普通に使っている文字言語の起源はどれだけ遡っても6千年を超えることはない。
みんな当たり前と思っているけれども、口頭言語の歴史に比べて短すぎるのではないだろうか。
人類は長い間口から発せられたことばを定着させる必要を感じなかったのだろうか?

そんなことはないと思う。
口頭言語は口から発せられた瞬間に消えてしまう。
大事だけれどはかないものである。
そんなことばを何とかして残したいと思わなかったはずはない。

その企てのひとつは「うた」である。
私たちも経験することだが、歌にするとことばは憶えやすい。
だから古代では歴史を語るとき、「イリアス」のような叙事詩がふつうだった。
日本語にも平曲があるし、日本書紀や古事記には歌謡がたくさん残っている。

でもやはり「うた」では不十分だ。
いつまで継承されるかわからないし、記憶に頼らざるをえないから時間が経つにつれてどんどんオリジナルから離れていく。

もっと正確に伝えられるツールはないか?
長い間誰もそんなことを考えなかったとは思えない。

文字はメソポタミア地方で生まれたと言われている。
取引を正確に記録する必要があったからだと言われている。
粘土板に楔形のひっかき傷をいれた。

それぐらいのことなら何万年も前から出来たはずだ。
それとも何万年も前からいろいろ試してみたけれどうまくいかなかったのだろうか?
それなら考古学的研究で、その痕跡ぐらいは見つかるはずだ。

聖書には言語の起源や役割について、いくつもエピソードが書かれている。
しかしそれは口頭言語のことだ。
文字言語についてはひとことも触れていない。

無文字社会はつい最近までたくさんあった。
人類は本当は文字を必要としていない?
西欧の伝統的な口頭言語優位の思想はこんな潜在意識から出ているのかもしれない。

でも今は文字言語が全盛である。
SNSも文字がなければ成り立たない。
AIと人間とのコミュニケーションもやはり文字である。

しかし、音声化技術や音声認識の革新はどんどん進んでいく。
やがてAIと人間が口頭言語でコミュニケーションできる未来が来るかもしれない。
すると文字は不要という意識が広がるかもしれない。

この先、口頭言語と文字言語の関係はどうなっていくのだろう?
私たちは両者をうまく使い分けることが出来るだろうか?

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2024年12月15日 (日)

言語の起源(その5)

言語の発生は時間軸上の事件である。
前回は言語の起源は時間軸上のどの時点かは特定できないにせよ、今使っている多くの語彙は起源後にさみだれ的には発生したとの仮定に立って新語にまで考えを広げた。

ただしこれは日本語内部での過程である。
数え方にもよるが世界には今でも6千くらいの言語がある、と言われている。
類似している言語もあるが、文法も語彙も言語音も似ても似つかぬ言語は多い。
日本語のように他からまったく孤立している言語もある。
このような言語の多様性はどのように生まれたのか?

旧約聖書の創世記にあるバベルの塔の物語によると、大昔人類の言語はひとつであったという。
人類はひとつの言語でコミュニケーションが可能であった。
そのためにバベルの塔を建設しようという神に挑むようなとんでもないプロジェクトを始めた。
これに危機感を持った神さまは、人間のことばをバラバラにして互いに意志疎通できないようにした…。
これが聖書が語る言語の多様性の起源である。

それはさておき、そもそも言語の発生は単一なのか、それとも世界同時多発的な現象なのか?
言語は人間が担うものだから、人類の起源と重ね合わせて考えなくてはならない。
今のところ、人類は東アフリカで誕生したとする単一説が有力だ。

だとすれば、人類の移動に伴って言語も世界に拡散していったのだろう。
その過程で様々な言語に分岐していったのだろう。
そう考えるしかない。
しかしどうやって分岐したのか、どうやって多様化したのか誰も語ってくれない。

ここでもあのソシュールのことばが立ちはだかる。
「前日と同じかたちで話されなかった言語は知られたことがない」
分岐や多様化というのは簡単だけれども上の真理をどうやって克服するのか?

前日とまったく異なった文法や語彙や言語音が集団内に瞬間的に共有されるとは考えにくい。
「長い時間をかけて」というのがこんな時の常套句だけれども、具体的な変容の様子は何も説明してくれない。
私たちはこういうことばを聞くとわかったような気になるというだけのことだ。

言語の変容や多様性は方言のような同一言語内でも起こる。
方言の成立過程を綿密に研究していけば多様性の起源に迫れるかもしれない。

どちらにせよ、バラバラになってしまったものは仕方がない。
しかし異なったことばを橋渡ししようという取り組みは昔からあった。
昔から異なったことばの人々の間で交流があったから当然のことだ。

かつては通訳が活躍したけれど、最近は機械翻訳の精度が上がってきた。
生成AIも出てきて、翻訳アプリもたくさん手に入る。
コミュニケーションするだけなら、人々がわざわざ外国語を学ばなくてもよくなりつつある。

こうして人間が再びバベルの塔に挑戦する環境が整いつつある。
その時、神さまはどうするだろうか?

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2024年12月 1日 (日)

言語の起源(その4)

前回は言語の起源に関して、素朴な疑問を提起した。
すなわち、起源の時点は問わないにせよ基礎語はワンセットで成立したのか、それとも時間をかけてさみだれ式に成立していったのか、ということである。

例として挙げたのは、たとえば、「目」とか「口」とか「足」とか「頭」はもうその起源のときに出そろっていたのだろうか、それとも「目」とか「口」とか「足」が起源のときに成立してその後しばらく経ってから「頭」という語が生まれたのか、ということである。

この疑問が簡単に解けないことは分かっているけれども、最近になって生まれた語があることははっきりしている。
つまり、新語である。

たとえば「電卓」や「パソコン」は昔は影も形もなかった。
こういうものにどういう語を当てるか?

大体は基礎語を組み合わせてその概念をあらわす。
つまり複合語である。

たとえば「電卓」は「電子式卓上計算機」の略である。
また「パソコン」は「パーソナルコンピュータ」の略である。
つまり手持ちの基礎語を組み合わせて対応するのである。

でもこれで終わりではない。
さらに、「電」や「卓」や「計算」や「パーソン」や「コンピュート」という複合語を形づくる基礎語の起源を問わなくてはならない。

こうして多くは基礎語の複合で対応できるのだが、それでは説明できない例もある。
たとえば、「ダサい」とか「ヤバい」とか「キモい」とかいった形容詞はどうだろう?

こうした語は少なくとも私の子どもの頃は使われなかったから新語と言っていいだろう。
「ヤバい」はやくざの隠語としてむかしからあったかもしれないが今では完全に意味が異なっている。

それから「真逆」という語は私が大人になってからも聞くことがなかったごく最近誕生したことばである。
それでも今ではふつうに通じているし、こうしてパソコンでも変換できる。

こうした新語は最近になって誰かが言い出したことばだから、起源ははっきりしている。
しかし、いつどのように成立したかという研究はあまり見かけない。
調べれば簡単にわかるはずなのに。
新語の起源なんてものはあまり研究者にとって魅力がないのかもしれない。

「じいじ」も新語と言えるだろう。
少なくとも私の子どもの頃は誰も使わなかった。
でも最近は祖父のことを「じいじ」と呼びかけるのがふつうになっている。

「じじい」という語は昔からあった。
しかし孫がその祖父のことを「じじい」と呼んだら大変なことになる。

では「じじい」と「じいじ」はどう違うのか?

まず、「じじい」は高齢の男性一般に対する蔑称である。
「あのじじい生意気だ」というように。
必ずしも親族呼称とは言えない。

これに対して「じいじ」は孫が祖父に呼びかけるときに使う。
あるいはお母さんが、子供に対して「じいじにありがとうと言いなさい」というように親族間でしか使わない。

ではどうして「じいじ」のような新語がうまれたのだろう?
こどもに「じいじ」という呼称を教えるのは、父か母だろう。
子どもが言いやすいうえに「じじい」に比べて少し愛嬌があると父や母が感じたからだろうか?

私が子どもの頃は、祖父のことは「おじいちゃん」と呼んでいた。
でも「おじいちゃん」は5音節、それに比べて「じいじ」は3音節。
こちらのほうが言語経済にかなうということで父や母が使い始めたのだろうか?
あなたはどう思いますか?

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