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2024年11月24日 (日)

言語の起源(その3)

ソシュールのことばをもう一度味わいたい。
そのソシュールのことばとはこんなだった。

「前日と同じ形で話されなかった言語は知られたことがない」

たしかにその通りだ。
私たちは昨日と同じことばで語っている。

でもソシュールの真理を遡及していけばどうなるか?
いつまでもことばの原点にたどり着けないことになる。
つまり言語の起源は「ない」ということになる。

それでも人類の起源はたしかに「ある」。

人類の出現は、瞬間的な突然の出来事ではない。
先立つ動物からの進化のグラデーションの中で出現した。

つまり起源はあるがその瞬間は特定できない、ということだ。

ことばは人間が使ってこそことばになるのだから、ソシュール先生には悪いが言語の起源は「ある」ということになる。
あるけれどもそれを特定することはできない、ということだ。

いま私たちは無数と言えるほど多くの語彙を操っているけれども、特定できないその起源のときに全部ワンセットでうまれたのだろうか?

たとえば、「目」とか「口」とか「足」とか「頭」はもうその起源のときに出そろっていたのだろうか?
どうもそうは考えにくい。
人類の発達に従って徐々に増加していったと考えるほうが順当だ。

するとたちまち新たな疑問が生じてくる。
たとえば「頭」という語彙が起源から少し遅れて成立したとすれば、その前の日は「頭」のことを何と言ったのだろう

ここでもまたソシュールの真理と衝突する。
困ったことだ。

こういう悩みを解消するためにキリスト教はことばは神さまが作って人間にプレゼントしたことにした。
もちろんワンセットで完全なものである。

これですべて解決。
では、その神さまの起源は、何てことを言いだす人間に向かっては、神さまは永遠の存在で起源などない、そもそも完全無欠の神さまに向かってそんなことをいうのは恐れ多い、と一喝すればいい。
キリスト教を作った人はえらい!

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2024年11月17日 (日)

言語の起源(その2)

このブログへの投稿も900回を超えるときっと同趣旨の記事が多くなっていると思う。
果たせるかな、2014年の10月、「起源の探求」というタイトルで3回にわたって投稿していた。
なつかしさに駆られて読み返してみると、次のようなことが書かれていた。
1.「起源」ということばは魅力的で私たちの魂をひきつけてやまないが、その探求は至難の業である。
2.「言語の起源」に関する日欧の姿勢の違い。
3.ソシュールは「前日と同じ形で話されなかった言語は知られたことがない。」と言っている。
この記事は10年前に書いたものだ。
今は少しは進歩しているだろうか?
同じところをうろうろしているような気がする。
3番目のソシュールのことばはなるほど真実だ。
でもこれを繰り返していけば結局言語の起源は「ない」ということになる、
ここはソシュール先生の言に従って、言語の起源はない、と割り切ってこの問題から撤退するのが現実的な生き方かもしれない。
それでも…という未練はあるが。
これで言語の起源とは縁が切れたことになるが、他にも起源を探るべき問題はいくつもある。
前に述べたように衣服の起源、糸の起源などは歴史的、考古学的に根気良く調べれば明らかになるにちがいない。
生命の起源はまだ未解決の問題だが、科学的研究によっていずれ明らかになるだろう。
ほかにも、貨幣の起源、農業の起源、資本主義の起源などいくつもある。
言語の起源の問題がこれらと違うところは歴史的、考古学的研究も科学的研究も無効だというところである。
私たちは徒手空拳で難問に立ち向かうことはできない。
ならば何か別のアプローチ方法はあるだろうか?
言語は人類だけのコミュニケーションツールだから、コミュニケーションの歴史的発展の観点から考えていけばどうだろう?
しかし、何分古い時代にことだから証拠が現存していない。
どうも八方塞がりだ。
言語はコミュニケーションツールであるだけでなく、思考のツールでもある。
言語以前から人類には思考能力が備わっていたと思う。
それが言語と出会って具体的な思考が始まった。
思考がことばによって形を与えられ、それがことばのコミュニケーション機能によって人々の間に広がってゆく…。
人間にとってことばほどありがたいものはない。
その起源がわからない、というのは分かっていても落ち着かない。

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2024年11月10日 (日)

言語の起源

このところ、起源について思いを巡らせている。
衣服の起源、糸の起源…。
ついでだから言語の起源についても考えてみたい。

前回は言語の起源など考えてもどうせ答えは出ないのだから詮無いことであると言った。
「言語の起源などに首を突っ込むと研究者人生を棒にふるとこになるよ」という親切心にも触れた。
でも、私は研究者じゃないから平気である。

このブログでことばについて愚考を重ねてきてもう20年近くになるけれども、何かわかっただろうか?
もちろん何もわからない。
一時はことばの源流近くまで来た予感があったけれどまた遠ざかってしまった。
その繰り返しである。

人類をヒトたらしめる特徴はいくつかある。
直立二足歩行、火の使用、葬送の儀礼、宗教…。
そして言語の使用である。

火はプロメテウスからの贈り物だったけれど、同じように言語も神さまからの贈り物だったかもしれない。
そういうことなら言語の起源は「ない」と言っていい。

旧約聖書の創世記や新約聖書のヨハネ福音書によると、なるほどことばは神さまとともにあったらしい。
でもわたしたちにような無神論者はそれを素直に信じることが出来ない。
ここが難しいところだ。

神さまからの贈り物でないとするなら、やはり人類の発明と考えるほかはない。
でもどうやって今のような多様な言語が成立したのだろう?

人類はアフリカ東部で誕生したと言われている。
そしてその移動に伴って世界中に言語が広がった。
そしてそれぞれの土地で独自に発展を遂げ、今のような多様な言語世界が出来上がった…。
こんな仮説は当たり前のことで、何も考えていないに等しい。

だったら何か考える糸口があるのだろうか?
それがわからない。
うーむ困った。
どなたかアドバイスをいただけないだろうか。

やはり言語の起源を研究する専門の学者はいないのだろうか?
どなたも冒頭の親切なアドバイスに従って、起源の問題には触れず今ある言語の諸問題に研究テーマを限定しているのだろうか?
ジュリア・クリステヴァは、ことばの起源の問題は歴史上つねに提起されてきたが、科学としての言語学はそれを受け入れることを拒み続けてきた、と言っている。

これはこのブログで何度も触れたことだが、古事記や日本書紀は聖書と違って、言語の起源については何も触れていない。
ことばはあって当たり前、使いこなしてなんぼのもの、というのが古代日本人の超プラグマティックでドライな言語観だった。

やはり私もこれに倣うべきかもしれない。

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