言語の起源(その3)
ソシュールのことばをもう一度味わいたい。
そのソシュールのことばとはこんなだった。
「前日と同じ形で話されなかった言語は知られたことがない」
たしかにその通りだ。
私たちは昨日と同じことばで語っている。
でもソシュールの真理を遡及していけばどうなるか?
いつまでもことばの原点にたどり着けないことになる。
つまり言語の起源は「ない」ということになる。
それでも人類の起源はたしかに「ある」。
人類の出現は、瞬間的な突然の出来事ではない。
先立つ動物からの進化のグラデーションの中で出現した。
つまり起源はあるがその瞬間は特定できない、ということだ。
ことばは人間が使ってこそことばになるのだから、ソシュール先生には悪いが言語の起源は「ある」ということになる。
あるけれどもそれを特定することはできない、ということだ。
いま私たちは無数と言えるほど多くの語彙を操っているけれども、特定できないその起源のときに全部ワンセットでうまれたのだろうか?
たとえば、「目」とか「口」とか「足」とか「頭」はもうその起源のときに出そろっていたのだろうか?
どうもそうは考えにくい。
人類の発達に従って徐々に増加していったと考えるほうが順当だ。
するとたちまち新たな疑問が生じてくる。
たとえば「頭」という語彙が起源から少し遅れて成立したとすれば、その前の日は「頭」のことを何と言ったのだろう
?
ここでもまたソシュールの真理と衝突する。
困ったことだ。
こういう悩みを解消するためにキリスト教はことばは神さまが作って人間にプレゼントしたことにした。
もちろんワンセットで完全なものである。
これですべて解決。
では、その神さまの起源は、何てことを言いだす人間に向かっては、神さまは永遠の存在で起源などない、そもそも完全無欠の神さまに向かってそんなことをいうのは恐れ多い、と一喝すればいい。
キリスト教を作った人はえらい!
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