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2024年10月27日 (日)

糸の起源

前回はことばと糸の共通性についてお話しした。

生き物の中で衣服をまとうのは人間だけである。
その衣服はたいてい糸を撚り合わせて作る。

また生物の中でことばを操るのは人間だけである。
ここでもことばと糸の共通性を確認出来る。

ところで、衣服の起源はいつだろうか?
もちろん、人類が誕生した時は裸だった。
でも人類が「寒い」と思った時に身にまとうものの必要を感じたにちがいない。
ちょうど数万年前に小氷河期が訪れた。
その頃が衣服の起源ではないだろうか?

映画や漫画など古代人を視覚化した作品には、よくけものの皮をまとった人が登場するけれども、必ずしも獣皮だけが当時の衣服ではなかったようだ。
針と糸も数万年前の遺跡から発掘されている。

けものの皮は重い。
それに比べて植物繊維の糸を撚り合わせて作った衣服は軽い。
軽くて快適な植物製の衣服はこうして人類の好むところとなった。

今では植物繊維の糸から作った衣服は私たちの暮らしに欠かせない。
ことばが私たちに暮らしに欠かせないのと同じである。
ここにもことばと糸の共通性がある。

ただし、違うところもある。
糸の起源は考古学的研究によって大体わかったものの、ことばの起源はわからない。
糸はかたちのある「もの」だけれど、ことばはかたちもなく目にも見えない。
取り扱いは糸よりもはるかにむずかしい。

そもそもことばは人間が作ったものか神さまからのプレゼントかもわからない。
そんなものの起源を考えても詮無いことである。

むかしフランスの言語学会ではことばの起源を研究することを禁止したらしい。
「言葉の起源などに首を突っ込むと研究者人生を棒にふるとこになるよ」という親切心からの禁止令かもしれない。

それでも何にせよ起源の探求は魅力的だ。
とりわけ人類にとってなくてはならない言語の起源は。

この不思議な言語というものはどうして誕生したのだろう?
どうです、人生を棒にふる気はありませんか?

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2024年10月20日 (日)

ことばと糸

「text=テクスト、テキスト」という英語、外来語がある。
大体文字で書かれたもの、文書などを意味する。

ところで「textile,texture」と言った派生語もある。
そう、textというのは糸が縒り集まったもの、つまり「織物」が原義なのだ。

糸は何かと何か、誰かとだれかを結びつける。
中島みゆきも「糸」の中で歌っている。
「縦の糸はあなた 横の糸は私 織りなす布は いつか誰かを 温めうるかもしれない」

ことばが織りなす布はやさしく人を包むかもしれない。
逆にネットの誹謗中傷のようにとげとげしいものになるかもしれない。
ことばの布のtextureは、使う人によってさまざまだ。

「君の名は」の中に印象的な場面がある。
ある秋の日、三葉とその妹四葉、それにおばあさんが宮水神社の御神体に口かみ酒を奉納に行く。
宮水神社のご神体は、むかし隕石が衝突してできた大きなクレーターの中にある。

道すがら、三葉(実はタキと入れ替わっている)に背負われたおばあさんが「結び」について語る。
「より集まってつながって、時には結ぼれて、またつながってからまって…」

これはことばのことを言っているのではないかと思う。
ことばの機能、生態も同じである。

辞書を編む、ことばを紡ぐ、書物を繙く、などことばに関する動詞には糸へんの漢字が多い。
古今東西、ことばと糸は縁が深いのだ。

しかし、いつかどこかで書いたけれどことばははかない。
中島みゆきも歌っている。
「こんな糸が何になるの 心許なくてふるえてた風の中」

糸そのものはか細くてちぎれやすくてはかない。
でも人間にとっては、糸だけが頼りだ。
古くから人類はそのことに気が付いていたのだと思う。

ところで、三葉の住んでいるところは岐阜県糸守町という架空の場所である。
この地名からも分かるようにこの映画のテーマは「糸、絆」である。
三葉とタキも糸でつながっている。
しかしそこには時間の歪みがあり二人が出会うことはついにない。

さらに、もうひとつ欠かせないのが映画のタイトルにもなっている「名前」である。
糸は誰かと誰かを結びつけるけれども、その誰かと誰かの目印が名前なのである。

だから、名前がないと糸も困ってしまう。
三葉とタキも「お互いに名前を忘れないようにしようぜ」と言っている。

名前と言えば、固有名詞や普通名詞など名詞のことと思ってしまうが、動詞は行為の名前であり、形容詞は状態の名前なのだ。

つまり、ことばはすべて名前なのである。
私たちは日々名前を組み合わせ、他者とやり取りをしている。
糸がそれをつないでいる。、

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2024年10月 6日 (日)

多音節語の謎

去年の5月ごろ、言語経済というトピックをこのブログで持ち出したことがあった。
言語経済の考え方からいうと、発話に要するエネルギー、書記に要するエネルギーは少ないほうが良い。
ならば一音節が一番効率的、ということになる。

それがきっかけとなって、えんえんと1年以上にわたって一音節語をしらみつぶしに調べた。
その結果、古代には一音節語が多かったが、一音節語には致命的な弱点がある。
そのことによって、時代が下るにつれて二音節化、三音節化していった。
そんな傾向があることが分かった。

それで現代語では二音節、三音節の語彙が圧倒的に多い。
たとえばよく使う語彙として、身体の部位をあらわす語を例にとろう。

「目」、「手」、「毛」、「歯」、「血」などは一音節である。
これは言語経済の原則に従っている。

しかし、「腕」、「足」、「耳」、「鼻」、「口」、「首」。「肩」、「胸」、「腹」、「肘」、「指」など二音節語のほうが多い。
よく使われる語としてはやはり二音節語のほうに軍配が上がる。
二音節語は、一音節語の欠点をカバーし、同時に言語経済に原則も維持しているのだ。

わからないのは多音節語の存在である。
たとえばエスカレーター、エレベーターという外来語は、7音節、6音節もある。
テレビジョンがテレビになったような短音節化は起こっていない。
今でも人々は多大なエネルギーを使ってエスカレーター、エレベーターと発話している。
なぜテレビと違って、エスカ、エレベと短音節化しないのだろう?

多音節語という言語経済の原則に反する語は和語の中にもある。
たとえば「みっともない」、「かたじけない」などは6音節ある。

これらは語幹に「ない」という否定の語尾をくっつけた複合語だろうか?
複合語だとしたら、多音節化するのも分かる。
「面目ない」や「勿体ない」はたしかに複合語である。

しかし、「みっとも」や「かたじけ」は何だろうか?
広辞苑で「みっともない」を引くと、「ミトモナイの促音化」と出ている。

じゃあ「ミトモ」というのは何か?
現代語辞典にも古語辞典にも出ていない。
ここで私の探求は壁にぶち当たる。
「かたじけない」も同様である。

本当に「みっともない」などは複合語なのか?
複合語でないとすればなぜこのような多音節語が存在するのか?
ことばの歴史の中でなぜ短音節化が生じなかったのか?
わからないことばかりである。

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