« 2024年8月 | トップページ | 2024年10月 »

2024年9月29日 (日)

「もの」と「たま」

「もの」を辞書で引くと、具体的な物体つまり「物」のほかに「霊妙な作用をもたらす存在」という語義が現代語辞書にも古語辞典にも出ている。
これは物体と違って形のないものである。

広辞苑の「もの」の項の用例には、源氏物語からたくさん引かれている。
今では「もの」と言えば「物」の意味が大きいが、紫式部の生きた時代は上の二つ目の意味が重要だったらしい。

平安時代の初期は人々は「もののけ」の祟りを信じていた。
実際に藤原道長も「もののけ」を恐れた人事を行っている。

時代背景を受けて源氏物語には「もののけ」が頻繁に出て来る。
「もののけ」というのは霊魂を意味する「もの」ということばに病気を意味する「け」がくっついてできたことばであり、病んだ霊が凶悪化して人にたたるというわけである。
つまり霊のうちでも低級な霊である。

そこへいくと言霊の霊は正常な力を発揮する。
人間の都合にかかわりなく、ことばそのものに宿った霊である。

言霊の力によって口に出すとそのことが実現されてしまうと人々は信じていた。
だから、うかつに口にすることはためらわれた。

ところで言霊は「ことだま」と発音される。
この場合の「霊」は「たま」と言われる。

古語辞典で「たま」を引くと「「生物に宿って精神活動を営むもの」と出ている。
広辞苑にはさらに「古来多く肉体を離れても存在するとした」という説明がついている。

そういえば、六条御息所の生霊が彼女の身体を離れて夕顔や葵上に取りついたというエピソードが源氏物語に描かれている。

どうやら「もの」も「たま」も生命の根源にあって本人にも制御できない不思議なエネルギーを指すようだ。
問題はどういうときに「もの」を用い、どういうときに「たま」を使うのだろう?

広辞苑の「たま=魂、魄、霊」の項には「玉と同源か」という記述がある。
ひょっとすると「たま=霊」は「たま=玉}から派生したのかもしれない。

縄文時代のむかしから勾玉という装身具があった。
装身具とするからには貴重なものだったに違いない。
三種の神器の一つにもなった。
つまり、「たま」にはよいイメージがある。

これにたいして「もの」はどうか?
「もの」自体は良くも悪くもないけれど、ときに「もののけ」になったりして人々に災厄をもたらすことがある。
それでどこか「恐ろしいもの」というイメージを引きずっている。

そう考えると「たま」のほうが格が上、という気がする。
反論があるかもしれないが。

| | コメント (0)

2024年9月22日 (日)

もののあはれ

本居宣長の提唱した重要概念「もののあはれ」について検討してみたい。
最近、本居宣長と「もののあはれ」について論じた本を読んだ。

難しくてあまりよく理解できなかったのだけれど、「もののあはれ」とは要するに儒教に染まる以前の古代日本人のおおらかな心性をいうらしい。
おらかだけれども、ものに触れことに触れて起こる心の繊細な動きも大事にする。

儒教では是非善悪の基準が決まっている。
物事を何でもその基準に当てはめて判断する。
厳格な、ことばを換えれば窮屈は思想である。

儒教の基準からすれば、源氏物語に描かれた恋愛模様などは「けしからん!」ということになる。
しかし、「もののあはれ」の立場からすれば、これこそ人間性の発露であると肯定する。
つまり、本居宣長は「もののあはれ」論で儒教に対抗したわけである。
本居宣長は儒教に対抗して「肯定と共感の倫理学」を打ち立てようとした。

たとえば、光源氏の「色好み」は儒教の倫理からすれば悪徳になるが、「もののあはれ」の立場からすれば豊饒な生のエネルギーの発露であるとして肯定する。
そしてその生あるいは性のエネルギーは世の中の統治にまで及ぶとしている。

では、「もののあはれ」における「もの」とは何か?
この本(先崎彰容「本居宣長」)には相良亨さんの意見として『「ものあはれを知る」の「もの」は外在的な「もの」であり、その「もの」に内在する「あはれ」をこちらが受け取め、知り、感ずることが「ものあはれを知る」ことであった。』と紹介されているが、実際のところどうなんだろう?

前にもお話しした通り、「もの」も「こと」も形式名詞であるからそれ自体には特に意味はない。
ということで、単なる接頭辞と片付けてもいいのかもしれない。
でもこれでは余りにもつまらない。
本居宣長がわざわざ「もの」をくっつけたのには何らかの意味があったに違いない。

古語辞典の「もの」の項には、以下のような解説が出ている。
『特にこれと指示しない、あるいは指示できない物事を「もの」と表す。「もののけ」「ものもうで」などと使われる「もの」は、あることばでは表せない、不思議な力を持つ存在を言うし、「ものがなし」「ものさびし」などと使われる「もの」は「なんとはなしに…」と訳されるように、何かことばでは言い表しにくい感じがあるとして、「もの」の語が用いられている。』
そう、本居宣長は「もののあはれ」という概念にこのような特性を与えたかったのだと思う。

ところで、「もののあはれ」を外国語に訳せるだろうか?
日本語でも漠然としてややこしい概念を正確に外国語に訳せるだろうか?

たとえばプログレッシブ和英中辞典では「pathos」と出ているが、これで「もののあはれ」を英訳したことになるのだろうか?
本居宣長の思想はたぶん海外にも紹介されているだろうけれど、どのように訳されているのだろう?

「もののあはれ」の概念が正確に海外の読者に伝わるだろうか?
つくづく翻訳の難しさを痛感する。

| | コメント (0)

2024年9月15日 (日)

「こと」と「もの」(その2)

前回は、「こと」と「もの」の違いをはっきりさせようとしてうまくいかなかった。
そもそも「こと」にせよ「もの」にせよ形式名詞だから、それ自身の意味を問うことはそれこそ無意味なのかもしれない。

「もの思い」にしても「もの淋しい」にしても「物語」にしても形式名詞ととらえ、単なる接頭辞として片づければいいのかもしれない。
この「もの」は物体的ではなく抽象的ではないか、と文句をつけるのは的外れかもしれない。
要は「もの」そのものの意味ではなくその機能が問題なのだ。

では「もの」や「こと」の機能とは何か?
たとえば「子供の時、一度だけ蝉取りをしたことがある」という場合、その蝉取りをした日付が「昭和〇年〇月〇日」という特定の時間が意識されている。

これに対して、「子どもの頃はよく蝉取りをしたものだ」の場合はそんなものは意識されていない。
つまり無時間なのである。

この視点から「もの淋しい」、「もの思い」、「物語」を分析してみよう。
「淋しい」や「悲しい」という感情、「語る」という行為には特定の時間がある。
しかし、それを「もの」が修飾することによって無時間化される。
したがって、「もの淋しい」や「もの思い」や「物語」は一回的ではなく、持続的になる。

「こと」の場合もたぶん同様である。
「こと」を含む慣用句は多いが、いずれも一回的であることを強調する役割を果たしている。

つまり「もの」は対象を無時間化する機能があり、「こと」は対象を時間化するのだ。
この区別にはほとんど例外がない。

以上は私の仮説だが、反証があれば検討してみたい。
カール・ポパーは反証可能性を保証することが真の科学の条件であると言っている。

反証の一例として、「言霊=ことだま」を取り上げてみよう。
この場合の「こと」は「たま」を修飾しているけれど、「たま」を時間化しているだろうか?

「言霊」というのは「ことばには霊妙な力が宿っている」という考え方を意味する語だから、別に「こと」によって時間化されるわけではない。
ここで私のお粗末な仮説は早くも破綻をきたした形だけれども、どうだろう?

早まった判定を下すのは慎みたい。
もう少し事例を集めないといけないが、それがうまく思い浮かばない。
みなさんはどうだろうか?

私の仮説は破綻したかもしれないが、「こと」と「もの」の意味ではなくその機能に着目するというアイデアは間違っていないと思う。
これからはその機能をもっと深く追究するのが次のステップになるが、いかんせん私は言語学のプロではないのでここまでで打ち止め。

| | コメント (0)

2024年9月 8日 (日)

「こと」と「もの」

「もの」にせよ「こと」にせよ、わたしたちは日常会話の中で非常によく使う。
そして無意識的に使い分けている。
「子どもの頃はよく蝉取りをしたものだ」とか「子供の時、一度だけ蝉取りをしたことがある」のように。

でもその使い分けの基準をちゃんと説明できるだろうか?
案外難しいと思う。
「もの」にせよ「こと」にせよ、その使用範囲が非常に広いから。

一般的に、あるいは直感的に「もの」には物質的イメージがあり、「こと」には抽象的イメージがある。
たしかに「もの」は「物」あるいは「者」と表記し、実体のイメージがある。

これに対して、「こと」ははっきりした実体がつかめない。
「わたしのこと、どう思っているの?」とか「「そんなことがあったなんて知らなかった」のように。

しかし双方ともに使用範囲が広いから、重なり合う部分がある。
たとえば、「もの思いにふける」や「秋はもの悲しい」における「もの」には実体がない。
でも「こと思いに耽る」とか「秋はこと悲しい」とは言わない。

例によって広辞苑をひもといてみよう。
まず「こと」のほうだが、「言」と「事」の二つが出ている。
この二つは源が同じ、というのは前回もお話しした。
これはこれで興味深い現象だが、ここではスルーして「事」に注目しよう。

「こと=事」の第1義として「意識、思考の対象のうち、具象的、空間的でなく抽象的に考えられるもの」が出ている。
なるほど、やはり抽象的な意味が一番強いようだ。

しかし、「活用語の連体形に付いてその活用語を名詞化し、またその語句全体で経験、習慣、必要、状態等をあらわす」という解説もある。
上は普通「もの」の守備範囲と考えられているものだ。

次に「もの」はどうか?
こちらも漢字表記では「物」と「者」が出ている。
漢字から見る限り、やはり物体のイメージが強い。
「者」は人間という物体だからこっちはスルーして「もの=物」に注目しよう。

「もの=物」の第1義として「形のある物体をはじめとして、存在を感知できる対象」とある。
なるほど、「こと」が抽象的なら「もの」は具象的というわけか。

しかし「魂など霊妙な作用をもたらす存在」という語義もある。
では「ことだま」はどうか?
「ものだま」とは言わないではないか?
要するにすっきり分けられないのである。

「こと」と「もの」の違い、わかっているようでわからない。
そのわかっているようでわからないものを私たちは使いこなしている。

| | コメント (0)

2024年9月 1日 (日)

「こと」と「ことば」

「ことば」という語彙は「こと」と「は」から出来ている。

このうち「は」については前回愚考をめぐらせた。
「は」は「葉」でもいいし「端」でもいい。
どちらもことばの頼りなさをあらわしている。

「は」が頼りなさということばの特性をあらわしているとすれば、「こと」はその内容をあらわしている。
「こと」は「~ということ」という形で事態を名詞化して相手に伝えることが出来る。

ひとつひとつの「ことば」は前回もお話しした通りひとつの事態を述べるだけだけれども、多くの語彙を組み合わせ集積することで事態の全体像ひいては世界の全体像を述べ、相手に伝えることが出来る。
たくさんの語彙を知って使いこなせることが力になる。

それだけ「こと」と「ことば」の関係は深い。
「こと」はふつう「事」という漢字であらわされる。
また、「言語」の「言」の訓は「こと」である。
「事」と「言」の間には深い関係がありそうだ。

広辞苑にも、「もと「こと」と同源」という解説が出ている。
では、むかしは「事」と「言」は同じだったのだろうか?

ネットを見てみると違った意見も出ている。
古事記などでは「事」と「言」は使い分けられているという。
つまり、神が人に対して言うときは「事」(例:事霊)、人が神に向かって言うときは「言」(例:言霊)というのだそうだ。

どちらが正しいのだろう?
古いことなのでわからない。

それはさておき、日本語には古くから「ことだま」という語があった。
むかしの日本の人々はことばには不思議な力が宿っていると信じていた。

頼りないけれど、不思議な力を持っている。
案外ことばの本質をついた観念かもしれない。

「もの」と対比する時、「こと」には非物質的なイメージがある。
上でも「こと」は事態や事象をあらわすと言った。

しかし、「ことば」は事物もあらわすことが出来る。
たとえば、「つくえ」や「いぬ」と言ったことばがある。

なぜ、言語を意味する語として「ことば」という日本語が成立したのだろう?
なぜ、「もの」ではなく「こと」を採用したのだろう?

誰にも答えられまい。
むかしの人にとっても、生まれた時にはすでに「ことば」という語があったのだから。

| | コメント (0)

« 2024年8月 | トップページ | 2024年10月 »