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2024年5月26日 (日)

一音節語をめぐって(その29)

次の「ら」行も特殊である。
そもそも和語では「ら」行の音が語頭に来ることがない。
したがって「ら」行の一音節語はない。

これで話を済ませると楽ちんなんだけれど、そうはいかない。
語頭に限らず「ら」行音を含む和語は他の行に比べて圧倒的に少ない。
「れ」に至っては辞書には和語も漢語もひとつもない。
「ら」行音は日本語の中では異端なのだ。

どうして異端なのだろう?

現代語では「ら」行音はよく出て来る。
「もっと論理的に話せよ」とか「練習に行かなくちゃ」とか「早く食べろ」とか言う。

最初の二つの例は漢語である。
漢語には「ら」行音を含むものが多いから、漢語・漢字を受け入れ使いこなすなかで「ら」行音が増えていった。
三つ目の例は和語だけれど、この「ろ」は動詞の活用語尾として働いているに過ぎない。

いずれにしても「ら」行音は他の行に比べて日本語の中では主流ではない。
異端の地位に甘んじている。

一音節語はないけれど、一応各音をレビューしてみよう。

まず「ら」である。
広辞苑では「拉」と「羅」が出ている。
「拉致」や「羅列」、「網羅」はよく目にする。
しかしすぐ思いつく「裸」は出ていない。

明解国語辞典には、「等」と「裸」と「羅」が出ている。
「羅」は共通しているが他は違う。

辞典はことばを調べる拠り所なのだから、こんなことでは困る。
各社の採用基準はどうなっているのだろう?

「等」は比較的よく使う。
特に法律文では逃げ道あるいはぼやかす意味で愛用される。
「国の機関等に対する処分等の適用除外」などと使う。

この「等」は「とう」と読む。
漢和辞典には訓は「など」と出ている。

では、「これ等」や「彼等」の「ら」はどうなのだろう?
新明解漢和辞典には訓として出ているが、一般的には訓とは認識されていないように思う。
その証拠に、「漢字林」という別の漢和辞典では訓として出ていない。

明解国語辞典によれば、この「ら」は接尾辞として機能している。
「彼等」のほかにも、「どちら?」、「いくら?」の「ら」も接尾辞である。
中国語ではこのような使い方はしない。

結局のところ、この「ら」は字音なのか訓なのか?
よくわからない。

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2024年5月19日 (日)

一音節語をめぐって(その28)

「い」を飛ばして「ゆ」である。
「ゆ」の一音節語としてよく使われるのは「湯」である。
水を沸騰させたものである。

英語では「hot water」という。
そのほかの欧米語でも似たようなものだと思う。
つまり、「湯」を水のカテゴリーとして認識している。

そこへいくと日本語や中国語は違う。
あくまでも水と湯は別物なのだ。
だから、別のことば、別の文字が用意されている。
世界の認識の仕方はことばに反映されるのだ。

日本語で湯は熱い水のことを意味するけれども、そこから派生して風呂や温泉のことも意味する。
「龍の湯」とか「太平の湯」とか「湯の街」と言ったりする。
英語では「hot spring」とここでも二語で表現するが。

辞書にはほかにもいくつか出ているが、現代語では使わない。
それから、正式な語ではないが、「ゆ」は「や」と「よ」の間に位置するので「野党」と「与党」の間にあってどっちつかずのあいまいな政治的立場を揶揄して「ゆ党」と呼ぶことがある。

以上は和語の話だけれど、「ゆ」の字音を持つ漢字として、「油」、「喩」がある。
「油」は「原油」や「油田」として今でもよく使われる。

しかし、「喩」は字が難しいので「比喩」くらいしか使わない。
いずれも一音節語ではない。

さて、「え」を飛ばして「よ」である。
「よ」と言えばまず「世」である。
「世の中」、「世に問う」、「明治の世」、「人の世」、「浮き世」などと言ったりする。

非常に多義的な語である。
だから、「世をはばかる」のように「よ」を含む慣用句も辞書には40近く出ている。

原義は何だろうか?
要するに人が生きる時間空間を包みこむ何かをまとめて「世」と表現しているのではないか?

広辞苑には、「語源的には節(よ)と同じで、限られた時間の流れを意味する」との解説が載っている。
「源氏の世」、「平家の世」などの言い方はよく使われる。

してみると、時間的な意味が源なのか?
いやいや、辞書には「人が集まって生活しているところ、またそこの人々」という語釈も出ている。

とにかく多義的な語だから何が原義で何がそこからの派生なのかも判然としない。
こういう語は扱いにくい。

「よ」を漢字で表記すると「世」になる。
辞書には「代」も一緒に出ている。
「君が代」、「第73代首相」のあの「代」である。

時間的には共通する意味もあるが違う部分もある。
「代」のほうは、「代替わり」というように「いずれ代わる」という意味を含意している。
「世」にはそんな意味はない。
だから、「世」のほうがよく使われる。

欧米語には「よ」にどんぴしゃりの訳語がない。
時間的な意味としては、timeやlifeがそれに近いかもしれない。

空間的な意味としては、worldというまったく別の語が近い。
でも、日本語のようにどちらの意味も含めて「よ」ということはない。

とにかく「よ」は扱いにくいけれど、もうひとつ「よ」がある。
漢字で書くと「予」や「余」である。
この「よ」は一人称である。

「予の言うことが聞けぬのか!」とか「余の刀を持ってまいれ」とか言う。
時代がかった一人称なので時代劇でよくきく。

でも、現代語でも使える。
夏目漱石などは自分のことを「余」と言ったりしている。
私だってふざけて使うことはある。
漢語では「予定」とか「余裕」はよく使うけれどももちろん一音節語ではない。

それから「夜」はふつう「よる」と読むけれども、「よ」と発音することもある。
「夜を徹して」とか「月夜」とか「真夜中」とか言う。

「や」と発音することもできる。
「暗夜」とか「夜半」とか「徹夜」とか言う。

とにかく「や」行は特殊でややこしい。

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2024年5月12日 (日)

一音節語をめぐって(その27)

「や」行はやや特殊である。

そもそも現代語では「や」行の「い」と「え」は音韻的に「あ」行の「い」と「え」と同じである。
「や」行で有意味な音節は、「や」、「ゆ」、「よ」だけである。
だから、五十音図では「や」行の「い」と「え」の欄は空欄にすることもある。

日本語の音節は頭子音と母音でできているが、「や」行の「い」と「え」は頭子音を欠いているので、「や」行全体を半母音と呼ぶことがある。

それにアルファベットはすべての文字に大文字、小文字の区別があるけれども、日本語のかなで小文字があるのは「つ」と「や」、「ゆ」、「よ」だけである。
「つ」の小文字は促音の表記に、「や」、「ゆ」、「よ」の小文字は拗音の表記に用いられる。

もちろんこれは戦後の表記である。
昔は促音も拗音も大文字で表記した。
したがって、「や」、「ゆ」、「よ」の小文字はなかった。

さて、「や」の一音節語はまず「矢」である。
「矢」は古代から有力な武器として用いられてきた。
昔の武将の絵には、たいてい弓矢が描かれている。

矢は「攻撃性」、「速さ」、「鋭さ」を象徴しているから、これらを含意する慣用句も少なくない。
「矢でも鉄砲でももってこい!」、「光陰矢の如し」、「矢もたてもたまらない」、「矢の催促」など。

それから「八」がある。
もともと数詞であるが、たんに8を意味するだけでなく古代では数が多いことあらわした。
「八雲立つ出雲八重垣…」のように。
「八百万の神々」、「うそ八百」もそのような意味だろう。

「谷」は低湿地の地形を意味する。
いまは主に地名に残っている。
関東はこんな地形が多かったのか、「や」のつく地名が多い。
「渋谷」、「四谷」、「千駄ヶ谷」、「阿佐ヶ谷」などのように。

関西では「や」という地名はない。
「たに」という。

一音節語ではないが、接尾語の「や」もある。
「坊や」、「ばあや」、「ねえや」などのように。

「坊や」を除いて今はほとんど死語になっているが、母は子どもの頃の「ばあや」について話していたことを思い出す。
血縁関係はないが、乳をやったり子供の世話をする人のことである。
「乳母」とも言う。

以上は和語だけれど、広辞苑には「や」と読む漢字が、「夜」、「野」の二つが出ている。
「夜間」、「野外」など日常的にわりとよく使うが、一音節語ではない。

「夜」は意味はひとつだけれど、「野」はふたつある。
ひとつは「の」である。
野原のように、広々と開けたところである。

もうひとつは「や」である。
「官」との対比を意識している。
政府と離れたところを意味している。
「在野」も「下野」もその意味の熟語である。
「野党」は政府の反対勢力である。

政府が正統という意識のせいか、多少軽蔑のニュアンスも含まれている。
「野卑」とか「粗野」ということばはそんな意味で使われている。
「野人」などという語には、洗練されていないという意味がある。

一方で何物にも縛られない自由奔放さにあこがれる意味もある。
もともと「や」は政府と違って広々と開けたところなのだ。

ことばはなかなか一筋縄ではいかないものである。

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2024年5月 6日 (月)

一音節語をめぐって(その26)

「め」の一音節語としては、まず「目」がある。
人間の身体器官はもっとも身近でよく使う語だから、「目」のほかに「歯」、「手」、「毛」、「背」、「血」など一音節語が多い。
関西方言ではどれも声調的に発音する。

なかでも「目」は重要器官であるから、特によく使う。
広辞苑には、「目」を含む慣用句が「目が肥える」、、「目を見張る」、「目の中に入れても痛くない」など100近くも出ている。

「め」の一音節語としては、ほかに「芽」がある。
「新しく生じ、発展しようとするもの」という良い意味もあるから、「芽が出る」、「芽を摘む」などのように比較的よく使う。
ワカメは「若芽」などと書いて、縁起の良い食べ物と考えられている。

さらに現代語では一音節語とは言いにくいが、「女」がある。
「女神」、「女ねじ」、「大原女」などという。
「お=男、雄」と対立する。

自立語ではないが、「め」は接尾辞としての役割がある。
形容詞の語尾に付いて、その状態が軽いことをあらわす。
「軽め」、「薄め」、「深め」、「高め」などのように。
この「め」をあえて漢字で表記すると「目」になる。

そのほか、名詞の語尾に付いてそれを見下げていうことがある。
「こいつめ!」、「泥棒め」などのように。
また、古い言い方だが「それがしがこの宿の主人めでございます」など、自分を謙遜する働きもある。

現代語で「も」の一音節語は和語の「藻」と「喪」だけである
でも「喪」のほうは人の死と結びついているのでよく使う。
「喪に服する」とか「喪が明ける」とか。
葬送の儀礼を行うことによって人間は人間になった、という説があるくらいだから、「喪」は人にとって大切なことばである。

それから広辞苑には「も」は「まこと、正しい、もっともの意をあらわす接頭辞」「という解説も出ている。
あまり明確な認識はなかったけれど、そういえば「最寄りの交番に行ってください」とか「もはやこれまで!」という言い方はする。

これで「ま」行は終わりだけれど、「ま」行音で印象の残った事実が二つある。

ひとつは、「ま」行音一字で読む字音が少ない、という点である。
これには何か意味があるのだろうか?

もうひとつは接頭辞や接尾辞として機能する語が多い、ということである。
これは私にとって新しい発見だった。

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