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2024年3月31日 (日)

一音節語をめぐって(その21)

「ひ」については、まず和語を考えてみた。
それで、横道にそれて「にほんとにっぽん」まで飛んでしまった。

残された問題がある。
まず「灯」。

明鏡国語辞典では独立の項目として扱われているが、広辞苑や明解国語辞典では「火」になかに含まれてしまっている。
(「灯」とも書く、という注記がなされている。)

「灯」は「火」の一形態として扱うべきか、それとも「火」から独立した語として扱うべきか?
どちらにも一理あって判断はむずかしい

それから「霊」。
この意味を「ひ」の項目で扱っているのは、広辞苑だけである。

漢和辞典では、「霊」の訓読みは「たま」しか出ていない。
また、ほかの国語辞典では「霊」を「たま」の項目で扱っている。

「霊」を「ひ」の項目で扱っているのは広辞苑だけである。
広辞苑ではその用例も挙げているので間違いではないのだろうけれど、このあたり辞書ごとの個性の違いがわかって面白い。

さて、日本語で「ひ」と読む漢字は多い。
否定の「否」、非常の「非」、皮膚の「皮」、被害の「被」、批判の「批」、比較の「比」、悲恋の「悲」、王妃の「妃」、肥料の「肥」、飛翔の「飛」、秘密の「秘」、費用の「費」、石碑の「碑」などなど。

これらは今でもよく使う。
しかし、漢語の一音節語はない。

次の「ふ」には、漢語の一音節語がある。
「麩」である。
すき焼きでよく使うあの「麩」である。
私は今まで「麩」は和語だと思っていた。

「麩」と「麩」の漢字はいつごろ日本にやってきたのだろう?
「麩」の歴史を調べなくてはなるまい。

「ひ」に負けず劣らず「「ふ」と読む漢字は多い。
しかし、「麩」を除くとあとの「ふ」は漢語の意味成分でしかない。
不調の「不」、譜面の「譜」、普通の「普」、符号の「符」、富豪の「富」、夫婦の「夫」、婦人の「婦」、父兄の「父」、府警の「府」、付録の「付」、綿布の「布」、扶養の「扶」、訃報の「訃」、勝負の「負」、腐敗の「腐」などなど。

和語は「ひ」では重要な語が多かったが、「ふ」になると途端に影が薄い。
現代語では和語の「ふ」の一音節語はない。

こうして音節の比較をすると、面白い事実が次々に見つかる。

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2024年3月24日 (日)

「にほん」と「にっぽん」(その3)

いまから19年前、このブログに「にほん」と「にっぽん」、という投稿をしたことがあった。
このブログをはじめて間もないころである。
要旨は次の通り。

・他の語と違って、「日本」という国号は文字表記が先行して発音は後回しになった。
 だから、天武天皇は「やまと」と発音したかもしれないし、いまに至るまで「にほん」と「にっぽん」の間で揺れ動いている。

・現代の日常会話を観察してみると、「にほん」と発音している人のほうが多い。
 「にほん」のほうが「にっぽん」に比べて発話エネルギーが少なくてすむからこれは言語経済の理にかなっている。

・ただし、「にほん」に比べて「にっぽん」のほうが正統である、という意識は多くの日本人が共有している。
 これは、「日本」とつく会社名の英文表記、紙幣や切手の「Nippon」の表記を見てもわかる。

・多くの日本語話者にとって、「日本」という表記が大事であって、その発音はどちらでもいい、と思っている。

このような認識は20年近く経った今もまったく変わっていない。
つまり、日本語が続く限りこの現象は変わらないと思う。
だから、この問題についてこれ以上追究しない。
けれど…。

もう一度だけ、「にほん」を観察してみよう。
「にほん」は「日本」という漢字表記の読みの一つである。
したがって字音である。

素直に字音で読むならば「にちほん」になる。
「にっぽん」というのは、それの促音便化したものである。
ここまでは自然である。

しかし、「にち」という字音を略して「に」と発音することが許されるのだろうか?
「日」を「に」と訓むのは「日本」の場合だけである。
きわめて特殊な読みというほかない。

「にほん」とアメリカの関係は「にちべい」関係である。
「にべい」関係とは言わない。

「にほん」と韓国の関係は「にっかん」関係である。
「にかん」関係とは言わない。

単独では「にほん」というが、複合語になると本来の字音である「にち」あるいはその促音便に戻っている。
このことからも、「日」を「に」と読むのは極めて異例というほかない。

どうしてこのような異例の読みが生じたのだろうか?
単に言語経済上の理由だけだろうか?
わからない。

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2024年3月17日 (日)

一音節語をめぐって(その20)

「ひ」は和語でも漢語でも語るべきことは多い。
まず和語から考えてみよう。

氷のことを「ひ」とも言う。
現代語ではないけれども、古語では「氷=ひ」を一音節語に使っている。
いまでも「氷雨」、「氷室」などということはある。

氷があれば、「火=ひ」が恋しくなる。
これはとても大事なことばだ。

人間の生存にとって不可欠なものだ。
火の使用を人間であることのメルクマールにしているくらいだから。

当然日本列島人も漢字伝来以前から火を使っていた。
だから和語に「ひ」があるのもよくわかる。

ギリシャ神話では、火はプロメテウスの贈り物とされている。
日本神話は火の起源について何も語っていないが、起源をうんぬんする必要すらなかった。
ことばと火は日本列島に住む人々にとって、古代から考えるまでもなくあって当然のものだった。

「日=ひ」は「火」と繋がりがありそうな気がする。
プロメテウスも天上から火を盗んできたのではなかったか?

あかあかと燃える太陽は人間に「火」を連想させる。
「日本」という国号もそんなところから発想を得たのではないだろうか?

ところで、「日本」という国号は和語だろうか、漢語だろうか?
「本」は字音読みで問題ない。

けれど、「にち」という字音を「に」と略して発音することは許されるのだろうか?
微妙である。
国号という、ある意味根本的な語彙がこんなにあいまいなことでいいのだろうか?

国史「日本書紀」にはもちろん「日本」が出てくるが、同じ時代に編纂された「古事記」には「日本」は登場しない。
この頃はまだ「日本」を国号とするという共通認識がなかったのかもしれない。

そもそもこの国号が生まれた当時、たとえば天武天皇は「日本」を「やまと」と訓んでいたかもしれない。
つまり、発音と表記は分けて考えなければいけない、ということだ。

表記は後世に伝わるけれども、発音はわからない。
だから、「日本」という漢字を何と発音していたか何もわからない。

中国の史書には日本列島の人々が「倭」という表記を嫌って「日本」を採用したという経緯が書かれているが、真相はわからない。
日本人自身もそれまでは自分たちの国のことを「倭=わ」と呼んでいたのだろうか?

そもそもこの時代の人々にとって、「くに」はどんなイメージだったのだろう?
もちろん日本列島の地図など知る由もない。
各人が「くに」についてそれぞれ違うイメージを持っていて、統一された「くに」の意味などなかったのかもしれない。

ともあれこの時代までさかのぼってみると、わからないことだらけである。

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2024年3月10日 (日)

一音節語をめぐって(その19)

な行の次はは行である。
は行の各音を眺めてみると発音上のおもしろい現象がたくさんある。

まず、は行には半濁音がある。
半濁音はは行にしかない。

半濁音は外来語の発音、表記によく使われるがそれだけではない。
語中の促音の後にもよくあらわれる。
たとえば、「葉っぱ」や「菜っぱ」、「こっぱみじん」のように。

それから、「は行転呼」という現象がある。
語中のは行音がわ行音に転移する現象のことである。
たとえば、「障り=さはり」や「前=まへ」、「遠し=とほし}を今では「さわり」、「まえ」、「とおし」と発音するようになっている

ただし、助詞の「は」と「へ」だけは発音は「わ」と「え」になっているが、表記はは行転呼以前の状態を踏襲している。
このため、現代語では語中には行音があらわれることはない。

へえー、そうなんだ!
私はこれまで意識していなかったけれど。

さらに、発音の変遷もある。
たとえば奈良時代には「母」のことは「ふぁふぁ」と発音したらしい。

こうした発音の変遷は、は行音だけではないし日本語だけでもない一般的な現象である。
でも、発音の変化がなぜ起こり、なぜその言語全体に広がっていったのか、そのメカニズムがよくわからない。

「ことばは変化するものだ」というのは経験的事実だろうけれども、それでとどまっていていいものだろうか?
「なぜ?」をもっと追求してほしい。

さて、は行の一番初めは「は」である。
前のな行の各音と違って「は」にはりっぱな一音節語がいくつもある。
よく使われるのは「歯」である。
前にもお話ししたように「歯」は、関西方言では「はあ」のように声調的に発音される。

次によく使われるのは「葉」である。
「葉」は関西方言でも「は」であり、なぜか声調的にはならない。

それから、「刃」もある。
「包丁の刃」、「のこぎりの刃」」などという。
これも声調的にはならない。
こうしてさまざまな現象は記述できるけれども、その現象の原因となるメカニズムに踏み込めないのがくやしい。

こうして現象を記述している間に、面白いことに気が付いた。
「葉」はりっぱな一音節語だけれども、「葉っぱ」という言い方もある。
日常的にはこちらのほうがよく使う。

そう考えるとほかにも同様の例が少なくない。
「菜」には「菜っぱ」、「根」には「根っこ」,「田」には「田んぼ」など。
「名」には「名前」、「野」には「野原」、「値」には「値段」など。
それから幼児語であるけれども、「お目め」、「お手て」という言い方もある。

りっぱな一音節語があるのに、音をつけ足してわざわざ多音節化している。
そして、そちらのほうがよく使われている。

たしかに一音節語は言語経済の原則にかなっているが、日本語話者にとっては言いにくいのだろうか?

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2024年3月 3日 (日)

一音節語をめぐって(その18)

「に」も「ぬ」も現代語の一音節語はない。
和語にも漢語にもない。

ただ一つ、「荷」はいまも使うかもしれない。
「これで肩の荷が下りた」、「この仕事はあいつには荷が重い」などのように。

古語にまで目を向ければ、「丹」という色名がある。
赤い色である。

それくらい。
「ぬ」に至っては、古語にもあまりない。

なぜだろう?
「に」や「ぬ」は言語音として使いにくい音なのだろうか?

それに比べると、「ね」はいくらかましである。

まず「値」」がある。
「値段」という湯桶読みのほうが一般的だが、一音節語としても使える。
「ものの値」とか「値が張る」などのように。

それから「根」もある。
「木の根」という。
「木の根」から連想して「根を張る」という言い方もある。

やや文学的な表現だが、「音」もある。
「虫の音」とか「音色」とかいう。

あと辞書にはいくつか出ているが、無視してかまわない。

「の」も少ない。
わずかに「野」くらいか。

それも一音節語としては使いにくい。
「野原」のほうが一般的である。

人の姓としては割合よく用いられている。
「野村」とか「北野」とか「西野」とか。
日本人の人名には地形をあらわす語がよく取り入れられているのでそのせいだろう。

総じてな行音は「な」を除いて、一音節語が少ない。
な行音は鼻音だから、他の音に比べてインパクトが弱いからだろうか?

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