« デリダのテキスト戦略(その3) | トップページ | レヴィ・ストロースと三色すみれ »

2022年11月 6日 (日)

フーコーのエピステーメー

関学の生協でフーコーの「言葉と物」を見つけて買ったのはもう10年前になる。

もちろん難しいので読んでいない。
10年間本棚の奥でほこりをかぶって眠っていた。
それがこのシリーズが始まって、思い出してほこりを払って開いてみた。

読んでいないと言ったけれど、最初と最後の1ページだけ読んだ。
最初の1ページでは、「シナのある百科事典」における動物の分類法を紹介している。
われわれの思考の枠組みを揺るがすような奇想天外な分類法である。
この衝撃が「言葉と物」の動機になっている。

実は、この「シナの百科事典」のことはボルヘスのエッセイ集(J・L・ボルヘス 「続審問」 中村健治訳 岩波 2009)の中の「ジョン・ウィルキンスの分析言語」に載っていて、私は「言葉と物」よりも先にこれを読んでいた。

なので、「ほう!」と思った。
フーコーをちょっと身近に感じた。
この調子で読んでいけばよかったのだが、根気が続かなかった。

それはともかく、この本の主題は思考の枠組みと時代によるその変化である。
この思考の枠組みをフーコーは「エピステーメー」というギリシャ語で呼んだ。
「エピステーメー」はこの本のキーワードなのだ。

フーコーは、西洋の古典主義の時代(17世紀中ごろから18世紀)をはさんでその前と後(フーコーは「近代」と呼んでいる)とでは、「エピステーメー」に断続的な変化があらわれると言い、生物分類学、文法学、経済学の分野でそれを論証している。

その結果、「人間」があらわれたのは近代になってからだ、とフーコーは言う。

この本の本文の前に、ベラスケスの「侍女たち」の図版が載っている。
そして、この本の第1章「侍女たち」で、フーコーはこの絵を詳細に分析している。
その中でフーコーはこの絵には近代的な意味での「人間」が不在であることを論証している。

では近代において「人間」が「エピステーメー」にどのようにかかわってきたか、ということが大事なのだが、白状すれば読んでいないのでその肝心のことがわからない。
探求心の旺盛な方は、「言葉と物」を私に代わって読んでいただきたい。

その「人間」ももうすぐ終わるらしい。
この大部の本の最後のページで、フーコーはこう書いている。

「人間は、われわれの思考の考古学によってその日付の新しさが容易に示されるような発明にすぎぬ。そしておそらくその終焉は近いのだ]  、
(ミシェル・フーコー 渡辺一民・佐々木明訳 「言葉と物」 新潮社 1974)

そして、最後の1行が印象的だった。
「人間は波打ちぎわの砂の表情のように消滅するであろう」

「あとがき」の中で、訳者はこう言っている。

「フランス語という個別言語の特性に根ざしているだけに、異なった言語体系への移植をほとんど許さぬものであった。」
そのために、「訳者は再三ならず翻訳不能ではないかという疑念にとらえられた」

翻訳不能じゃないかと思った、という点ではデリダと共通している。
しかし、その難解さはデリダとは別種だと思う。

そのテキストはデリダのように変てこではなく、割にお行儀が良い。
読者に挑むようなエクリチュールの実験もしていない
だから根気さえあれば、読んで理解することも可能な気がする。

|

« デリダのテキスト戦略(その3) | トップページ | レヴィ・ストロースと三色すみれ »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« デリダのテキスト戦略(その3) | トップページ | レヴィ・ストロースと三色すみれ »