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2022年11月27日 (日)

哲学と言語

まるでそのつもりはなかったのだけれど、なりゆきのおもむくままむずかしい人たちを何人も取り上げてしまった。
しかもヤコブソンを除けばフランス語で書いた人たちばかりだ。
フランス語はむずかしいことを書くのに適しているのだろうか?

内田樹さんによると、フランスは日本よりはるかに強固な階層社会らしい。
エクリチュールも階層ごとに縛りがある。

このブログで取り上げた人たちのエクリチュールは、階層上位の人たちを相手にしている。
つまり、「わかる人にはわかる」のだ。
だから、かれらは平気でむずかしいことを書ける。

そもそも階層下位の人々はかれらの書いたものなど読まないから、日本のように「むずかしすぎるよこれ」と文句を言う読者などいないのだ。

ところで千葉雅也さんの「現代思想入門」によると、このブログで取り上げた現代思想の源流はニーチェ、マルクス、フロイトに始まるらしい。

何とこの人たちはみんなドイツ語で書いた人たちだ。
そういえば、ひとむかし前まで「哲学はドイツ」というのが相場だった。
たしかに哲学者と言えばカント、ヘーゲル、フッサール、ヤスパース、ハイデガーなどドイツの人の名前がすぐに浮かんでくる。

でも、この傾向は第二次大戦とともに終わったようだ。
それ以後中心はフランスに移る。
そのシンボルがサルトルでありボーボワールだった。
戦後しばらく、日本でもこのふたりが若者たちの知的ファッションみたいになっていた。

やがて実存主義から構造主義に流行が移って、このブログで取り上げたような人たちがあらわれるのだ。

そして、今はどうか?
ドイツもフランスも凋落したのではないか?
少なくとも、若者のファッションになるような思想や哲学は見当たらない。
ドイツもフランスも私が読んでみたい(翻訳で)と思うような人はいない。

では、これらに代わってイギリスやアメリカか?
こちらのほうも、若い人たちを虜にするような哲学はあらわれていないようだ。
もちろんこれは管見の限りだから、「いや、そうじゃない。こんな人がいる」という人がいれば、ぜひご教示いただきたい。

かつての哲学では、「人間」が不動の中心だった。
そしてその「理性」に限りない信頼を置いていた。

しかし構造主義やポスト構造主義では、中心に人間がいない。
と言うか、そもそも「中心」を認めない。
すべてのものは他との関係の中で意味を持つ。
中心と周縁という構造でなく、いわば相互依存の網の目構造なのだ。

そして、フーコーによるとその「人間」も近代の発明に過ぎないし、それも終焉が近いという。
また、デリダによる脱構築によって「理性」への絶対的信頼性も揺らいでいる。

今や人々は何をよりどころにして考えればいいかわからない。
それが、現在の哲学の混迷の原因ではないだろうか?

バルトの言っていたように、「中心の空虚」に慣れている日本がこの混迷から抜け出すカギを握っているかもしれない。

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2022年11月19日 (土)

レヴィ・ストロースとヤコブソン

「野生の思考」はメルロ・ポンティに思い出にささげられている。
レヴィ・ストロースは「序」の中でその理由を書いている。

かれの思想形成にメルロ・ポンティとの交流が大きな影響を与えたようだ。
大橋さんも本書の「訳者あとがき」の中でそのことに触れている。

レヴィ・ストロースの思想形成、構造主義の着想に大きな影響を与えた人がもう一人いる。
ロシア生まれの言語学者、ロマン・ヤコブソンである。
大橋さんは「訳者あとがき」の中で、「ヤコブソンの音韻論の知識が本書理解の前提になっている」と言っている。

ヤコブソンは若いころロシアフォルマリストとして活躍したのち、24歳でプラハに移った。
ここでは言語学のプラハ学派を組織したのだけれど、ナチスのチェコ侵攻を避けてスウェーデンにのがれた。
最終的に1941年アメリカに渡った。

そして、その前年ナチスのユダヤ人迫害のためにアメリカにのがれたレヴィ・ストロースとニューヨークでめぐり合うことになる。

ふたりはたがいの知見を教えあい、共同で論文も書いている。
とりわけヤコブソンの二項対立の理論が、レヴィ・ストロースに大きな影響を与えた。
レヴィ・ストロース自身が著書の中でそのことに触れている。
こうした交流の中から、かれの構造主義の着想も生まれたのだと思う。

ところで、ヤコブソンは若いころから欧米各地を渡り歩いた人だけれど何語で論文や著作を書いたのだろう?

ヤコブソンは24歳でロシアを離れたから、母語はロシア語のはずである。
でも、言語学者だから当然さまざまな言語に通じていると思う。

いま、私の手許には「一般言語学」(ロマン・ヤコブソン 川本茂雄ほか訳 みすず書房 1973)がある。
この本の表紙にはフランス語の表題が添えられている。

しかし「訳者まえがき」によれば、この本はフランス人の学者がヤコブソンの論文をまとめて編んだ選集らしい。
そして、ヤコブソンのオリジナルテキストは英語で書かれているという。

さらに訳者の紹介によれば、ヤコブソンはこのほかフランス語でもドイツ語でも論文を書いている。
何か国語も自由自在に書き分けるのだから、言語学者とはいえ驚く。

日本語のほか中学生程度の英語しかできない私にとっては、うらやましい限りである。
先天的な語学の才があったのだろうか?

レヴィ・ストロースとヤコブソンの出会いは歴史の偶然によるものだけれど、構造主義の誕生にとっては幸福な出会いだった。
二人のたがいに対する敬意と親愛は終生続いたようだ。
ヤコブソンも「一般言語学」に収録された論文「言語学と隣接諸科学」をレヴィ・ストロースにささげている。

つねに出会いは何かのはじまりなのだ。

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2022年11月13日 (日)

レヴィ・ストロースと三色すみれ

大橋保夫の「野生の思考」は名訳のほまれがたかい。
と、梅棹忠夫さんが言っていたので、名訳とはどんなものか知りたくて図書館から借りてきた。

その名訳とはこんな具合だった。
「野生の思考のこれらの面はことごとくサルトルの哲学にも見出される。まさにそのゆえにこそ、この哲学には野生の思考を批判する資格がないと私は考える。(中略)民族学者にとっては、この哲学は(他のすべての哲学と同様に)第一級の民族誌的資料である。現代の神話を理解しようとすればその研究は不可欠であろう。」
(クロード・レヴィ・ストロース 大橋保夫訳「野生の思考」 みすず書房 1976)

なるほど、わかりやすい。
この皮肉の利いた一文を読むだけで、当時フランス哲学界の旗手だったサルトルの権威がこの本によって失墜したというのもわかる気がする。

ところで、「野生の思考」という日本語訳表題のことである。
フランス語の原題は「La Pensse sauvage]である。
それがどうして「野生の思考」と訳されたのか?

大橋さんは「訳者あとがき」でこのことに触れている。

「sauvage」はふつう「野蛮」と訳されることが多い。
西洋社会の根深い偏見が詰まった語である。

しかし、この語が植物に適用されると栽培種に対する「野生」という意味になる。
そして「pensse」は「思考」の意味があり、同時に「三色すみれ」をも指す。

レヴィ・ストロースはこの二つの語の両義性を利用してこの原題を考えた。
巧妙な仕掛けである。

この本の表紙には三色すみれの絵が大きく描かれている。
またこの本の末尾には三色すみれにまつわるヨーロッパの民話が付録として収録されている。
このこともレヴィ・ストロースの意図を暗示している。

こうして「野蛮」ではなく「野生」になった。
野生の思考のスタイルは、現代のいわゆる文明人にもふつうにみられる。
レヴィ・ストロースは野生の思考に正当な地位を認めた。
歴史的な転回である。
「野生の思考」というタイトルはそのことを象徴している。

と、大橋さんは言っている。
なるほど、表題ひとつを訳すにもそこまで考えなくてはいけないのか!
たしかに名訳である。

大橋さんはレヴィ・ストロースの文体について、「訳者あとがき」で次のように言っている。

「本書はレヴィ・ストロースの著作の中でも格別に難解なものとして知られている」

そしてその最大の原因としてかれのこりにこった独特の文体をあげている。
「現代のフランス語の文章に対するその影響はきわめて大きく、おそらく本書はフランス語史にその名をとどめるであろう。」

内田樹さんによると、レヴィ・ストロースは論文執筆にあたっては必ずマルクスの任意の著作の数ページに目を通したという。
そうすると、脳が活性化するのだそうだ。
なるほどレヴィ・ストロースの名文には、そんな秘密があったのか。

ともあれ名文とその名訳である。
いいものを読ませてもらった。
といって、サルトルを批判した最終章しか読んでないけれど…。

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2022年11月 6日 (日)

フーコーのエピステーメー

関学の生協でフーコーの「言葉と物」を見つけて買ったのはもう10年前になる。

もちろん難しいので読んでいない。
10年間本棚の奥でほこりをかぶって眠っていた。
それがこのシリーズが始まって、思い出してほこりを払って開いてみた。

読んでいないと言ったけれど、最初と最後の1ページだけ読んだ。
最初の1ページでは、「シナのある百科事典」における動物の分類法を紹介している。
われわれの思考の枠組みを揺るがすような奇想天外な分類法である。
この衝撃が「言葉と物」の動機になっている。

実は、この「シナの百科事典」のことはボルヘスのエッセイ集(J・L・ボルヘス 「続審問」 中村健治訳 岩波 2009)の中の「ジョン・ウィルキンスの分析言語」に載っていて、私は「言葉と物」よりも先にこれを読んでいた。

なので、「ほう!」と思った。
フーコーをちょっと身近に感じた。
この調子で読んでいけばよかったのだが、根気が続かなかった。

それはともかく、この本の主題は思考の枠組みと時代によるその変化である。
この思考の枠組みをフーコーは「エピステーメー」というギリシャ語で呼んだ。
「エピステーメー」はこの本のキーワードなのだ。

フーコーは、西洋の古典主義の時代(17世紀中ごろから18世紀)をはさんでその前と後(フーコーは「近代」と呼んでいる)とでは、「エピステーメー」に断続的な変化があらわれると言い、生物分類学、文法学、経済学の分野でそれを論証している。

その結果、「人間」があらわれたのは近代になってからだ、とフーコーは言う。

この本の本文の前に、ベラスケスの「侍女たち」の図版が載っている。
そして、この本の第1章「侍女たち」で、フーコーはこの絵を詳細に分析している。
その中でフーコーはこの絵には近代的な意味での「人間」が不在であることを論証している。

では近代において「人間」が「エピステーメー」にどのようにかかわってきたか、ということが大事なのだが、白状すれば読んでいないのでその肝心のことがわからない。
探求心の旺盛な方は、「言葉と物」を私に代わって読んでいただきたい。

その「人間」ももうすぐ終わるらしい。
この大部の本の最後のページで、フーコーはこう書いている。

「人間は、われわれの思考の考古学によってその日付の新しさが容易に示されるような発明にすぎぬ。そしておそらくその終焉は近いのだ]  、
(ミシェル・フーコー 渡辺一民・佐々木明訳 「言葉と物」 新潮社 1974)

そして、最後の1行が印象的だった。
「人間は波打ちぎわの砂の表情のように消滅するであろう」

「あとがき」の中で、訳者はこう言っている。

「フランス語という個別言語の特性に根ざしているだけに、異なった言語体系への移植をほとんど許さぬものであった。」
そのために、「訳者は再三ならず翻訳不能ではないかという疑念にとらえられた」

翻訳不能じゃないかと思った、という点ではデリダと共通している。
しかし、その難解さはデリダとは別種だと思う。

そのテキストはデリダのように変てこではなく、割にお行儀が良い。
読者に挑むようなエクリチュールの実験もしていない
だから根気さえあれば、読んで理解することも可能な気がする。

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