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2022年10月 2日 (日)

バルトの断章(その3)

前にもお話したように、「記号の国」は表むきは日本と西洋の比較文化論だけれど、真の主題はバルトの考えるエクリチュールなのだ。
それなのに、バルトの考えるエクリチュールとは何なのかいまいちよくわからない。

バルトはエクリチュールの語をさまざまな意味で用いている。
書体、文字、書く行為、書かれたもの、文体、書くことへの愛、文学の原動力…。
私がわからないのも当然かもしれない。
(以上は、「バルトによるバルト」という本の訳者である石川美子さんの訳注)

文字あるいは書ということが共通しているけれども、書きことばに限らないような気もする。
パロールにも、エクリチュールの概念は通用するのではないか?

実はこの本については別訳(ロラン・バルト 宗左近訳 「表徴の帝国」 新潮社 1974)がある。
その中で訳者の宗さんはエクリチュールを「表現体」と訳し、「エクリチュール」というルビを振っている。

このことについて宗さんは、「訳語は、言語学その他の専門領域にのみ通用しているものはなるべく避けて、一般の共通言語として機能しうる日本語を選ぶことに努めた」、「基本的な概念となる一つの原語は、できるだけ一つの日本語で置き換えようと試みた」と言っている。

ある文脈において、バルトがエクリチュールをこのうちどんな意味で用いているか?
それを知る手がかりはある。

それが前回の終わりのほうに記しておいた空虚、中心、意味、と言った語彙群である。
実際これらの語は、この本の全編にわたって頻出する。
これらの手がかりを注意深くたどっていけば、バルトの考えるエクリチュールにたどり着けそうな予感がする。

この本で重要な位置を占めている俳句もその手がかりの一つだ。この本でバルトが例として挙げている俳句は14句に上る。
私の知らない句も多い。

フランス語に訳された俳句(バルトが読んだもの)を日本語に再訳した俳句にはこんなのがある。

夕方 秋、
わたはただ思ふ
両親のことを。

すでに4時だ!
わたしは9回も起きた
月に見とれるために。

最初の句は与謝蕪村の「父母のことのみ思ふ秋のくれ」、次は芭蕉の「九たび起きても月の七つ哉」である。
フランス語のはオリジナルにはない「わたし」が入っている。
ラングの決まりに従って、入れなければ仕方がないのだ。

ただ、この「わたし」は軽い。
主体としての「わたし」、自我と深く結びついたような「わたし」ではない。
何なら「かれ」や「あなた」と入れ替えても大きな違いはない「わたし」である。
つまり、符牒のような役割しか果たしていない。

そんな俳句における{わたし」を発見したことで、バルトはテキストに「わたし」を使い始める。
実際、「記号の国」の冒頭は「もしわたしが…」ではじまる。
俳句における「わたし」が気に入ったようだ。

さて、バルトは無垢のエクリチュールということをいう。
内田樹さんによれば、エクリチュールは語り手(あるいは書き手)にとっての檻だという。
つまり、語り手を拘束する。

しかしバルトはあらゆるとらわれから自由な、つまり語り手を拘束しない無垢で透明なエクリチュールにあこがれる。
しかし、そんなエクリチュールがあり得るのだろうか?
バルトはその稀有な例がカミュの「異邦人」だという。

なので、わたしも「異邦人」(の日本語訳)を買って読んでみた。
たしかに、和訳を通じてでもそのカラッとした文体はしのぶことができる。
でも、バルトや内田さんが言うほど奇跡的な独創的な達成とは感じられなかった。
私の感受性がにぶいのだろうか?

「異邦人」はともかく、バルトにとっては俳句も無垢のエクリチュールと感じられたのは確かなようだ。

前にもお話ししたように、バルトは断章というスタイルを好んだ。
前出の「バルトによるバルト」という著作も350ほどの断章で編まれた自伝的エッセイだ。

その中には「断章の輪」という断章もあって、こう書かれている。

断章で書く。
すると、それらの断章は、輪のまわりの小石になる。
私は自分を丸く並べているのだ。
私の小さな全宇宙が粉々になる。
中心には何があるのか。
(ロラン・バルト「バルトによるバルト」 石川美子訳 みすず書房 1975)

私の断章もこんなふうだろうか?

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