« バルトの断章(その3) | トップページ | デリダのテキスト戦略(その2) »

2022年10月 9日 (日)

デリダのテキスト戦略

ロラン・バルトはエクリチュールについて、さまざまな実験をした。
自伝的エッセイを断章形式で書き、それを標題のアルファベット順に配列するというのもそのひとつだろう。
ある意味で、読者への挑戦でもある。

ジャック・デリダはエクリチュールの実験、読者への挑戦という意味でバルトのさらに上を行く。
デリダのテキストは、ラカンとは別の意味で難解である。
難解というよりも、奇妙というほうが適切かもしれない。

いま私の手許にはデリダの本が2冊ある。
「散種」(藤本一勇他訳 法政大学出版局 2013)と「絵葉書Ⅰ」(若森栄樹他訳 水声社2007)である。
どちらも部厚く、値段も高い。

むろん本屋さんで買ったものではない。
図書館で借りてきた。

まじめに読もうと思って、借りたのではない。
ものすごく難解という評判を聞いたので、どのくらい難解なのか確かめてみたい、といういわば好奇心からである。

こういう本は、まず「訳者あとがき」から読む。
ふたつの本に共通していることが2点ある。

ひとつは、内容解説に代えてデリダ自身の文を紹介していることである。
そのデリダの文が理解できないので、結局本の内容がわからない。

もうひとつは、これらのテキストの翻訳不可能性に言及していることである。
どちらの訳者も、一瞬にせよ「このテキストは日本語に翻訳できないのではないか?」と感じたことを述べている。
専門家がそう思うくらいだから、わたしがわからないのは当たり前かもしれない。

たとえばこんな調子。

1979年5月   通学かばんをめぐる君の夢について、もう一度よく考えてみた。それは(以下空白)
1979年8月5日 こうした奇妙な関心事に身を委ねることで、私は何に違背しているのだろうと思う。誰に、どんな誓約に、そしてもはや君ではない誰を誘惑するために。この問いは馬鹿げている。あらゆる問いは。

「絵葉書Ⅰ」は、こんな意味不明の疑似書簡で全編(373ページもある!)が占められている。
「訳者あとがき」で、若森さんは「読者がこの本を読んで好きになれば、翻訳は成功しています」と言っているけれど、この本をちゃんと理解して好きになる読者がどれほどいるのだろう?

デリダの、特に後期の著作は、内容もさることながら形式面でもこのように疑似書簡の方法を取り入れたりして、読者をびっくりさせる。
また、文字のスタイルやレイアウトの面でも実験的な試みをしている。

もちろんデリダはわざとこういうことをやっているのだ。
読者に挑むように。

デリダのテキストがこのような奇妙なものになったのは、70年代からだという。
それまでのデリダのテキストはわりと行儀のいいものだったらしい。

そのお行儀のいい論文群で展開した独自のテキスト理論を70年代に入っていよいよ実践に移し始めた、ということだろう。
脱構築を主張したデリダならではである。
しかしデリダはそれでいいのだろうけれど、読者にとってはこの時期以降のテキストは暗号解読に近くなる。

たぶん、デリダは「読む」というありふれた行為の意味を読者に再考させたいのだろう。
単なる情報受信行為ではなく、「読む」という行為に潜む創造性に気づかせたいのだと思う。

そう考えると、エクリチュールという概念は「書く」だけでなく「読む」という行為にまで広がっていくような気がする。
エクリチュールというのは何なのか、ますますわからなくなってきた。

|

« バルトの断章(その3) | トップページ | デリダのテキスト戦略(その2) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« バルトの断章(その3) | トップページ | デリダのテキスト戦略(その2) »