デリダのテキスト戦略(その2)
前回はおもに「絵葉書」を取り上げて、デリダのテキストの変てこぶりを紹介した。
私の手許にあるもう1冊のデリダの本は「散種」である。
「散種」という語は広辞苑には載っていない。
たぶん他の国語辞典にも載っていないだろう。
私も生まれてこのかた、こんな語に出会ったことがない。
「散種」はこの本のフランス語原題「dissemination」の日本語訳である。
グーグル翻訳では、「dissemination」は「普及」となっている。
しかし訳者は、「普及」というふつうの日本語では読者の誤解を招くと考えて造語したのだと思う。
漢字の字義を手がかりにすれば、その意味は何となく分かる。
何かの種をあちこちにばらまくことだろう。
そして時が経つと、その種からそのばらまかれた地の環境に応じて、違った花が咲く。
すなわち差異が生ずる…。
こうして「散種」とデリダのキー概念のひとつである差異とが結びつく。
だからそれほど間違った解釈ではないと思うのだが、どうも自信がない。
デリダは本文のなかでも、ところどころ「散種」という語を使っている。たとえば…。
それゆえ、テクスト的な諸審級の向こうに、創造的なものや志向性、もしくは体験の中に再我有化すべきテーマ的統一性もしくは全体的意味など存在しないのだとすると、もはやテクストは、ある多義的な文献のなかで回折し集結するような何らかの真理の表現ないし表象(見事なものにせよそうでないにせよ)ではない。
散種という概念を用いる必要が出てくるとすれば、多義性というこの解釈学的概念に取って代えるためである。
(ジャック・デリダ 藤本一勇他訳「散種」法政大学出版局 2013)
しかしこの文が理解できないので、結局「散種」が何だかわからない。
東浩紀さんは、「存在論的、郵便的」というデリダ論(新潮社 1998)の中で、パロール的多様性=多義性、エクリチュール的多様性=散種と整理している。
この場合のパロールは声、エクリチュールは文字である。
エクリチュールという語は、デリダの本文の中にも頻出するけれども、おおむねこの区別で使っている。
その意味では、バルトよりもさらに文字あるいは書きことばに近い。
そうか、散種という概念はエクリチュールの特性から生まれたのか。
ここまで来て、ようやくほんの少し腑に落ちた気分になった。
それでも、散種という造語が明治初期の多くの造語、たとえば演説や経済や哲学のように社会一般に普及することはあるまい。今後も、あくまでもデリダに言及する場合に限られるだろう。
散種という造語は、フランス文学やフランス思想を専門とするえらい先生たちがが考え出した語だから尊重すべきだろう。
でも、「訳語は、言語学その他の専門領域にのみ通用しているものはなるべく避けて、一般の共通言語として機能しうる日本語を選ぶことに努めた」という宗左近さんならどんなタイトルにしたか、ちょっぴり興味がある。
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