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2022年10月30日 (日)

デリダのテキスト戦略(その3)

前回は、デリダの「dissemination」の日本語訳、「散種」についてあれこれあげつらってみた。
おかげで少しわかったような気がしたけれど、「散種」という語が面妖であることには変わりがない。

「訳者あとがき」には、どうしてこのようなタイトルにしたのか、その経緯に一切触れていない。
ひょとすると、「散種」という造語は訳者によるものではなく、それ以前から日本のデリダ研究者の間ではふつうに使われていたのかもしれない。

デリダの著作は、その困難さにもかかわらず多くの外国語に翻訳されているらしい。

たとえば中国語に翻訳されたこの本のタイトルは何だろう?
やはり「散種」だろうか?それとも…。

スワヒリ語に翻訳されたこの本のタイトルは何だろう?
やはり訳者による新造語だろうか?
私には調べるすべがないので、ご存知の方はご教示いただきたい。

デリダの数ある著作のなかでも、「弔鐘」(1974)についてはまだ日本語訳が出ていないようだ。
テキストの変てこぶりがさらに過激になって、さすがに日本語訳が不可能、ということになっているのだろうか?

デリダの本を見る(この物理的な動詞のほうがふさわしい)ということは、デリダの華麗で奔放で奇怪なパフォーマンスを、遠巻きにして眺めていることに似ている。

そして時々、このセンテンスの言わんとしていることはこうであろうか、ああでもあろうかと推察しているのだ。
とにかく、ふつうの「読む」という行為では太刀打ちできない。

もちろんデリダはこのような破天荒なテキストをわざと書いている。
自身の脱構築の理論の実践のつもりかもしれない。

「散種」の「訳者あとがき」で、藤本さんはこのテキストはデリダから読者への挑戦状だと言っている。
挑戦されたからには受けて立たねばなるまい。

ただし、私はフランス語が分からないので、翻訳書の土俵で勝負するしかない。

「絵葉書」の「訳者あとがき」で若森さんは、「これまでデリダの翻訳はしばしば非常に読みにくく、ただ難解なだけという印象を持つ読者がいるかもしれません」と言っている。
そう、私もその一人なのだ。

そして、この本の翻訳の基準として、第一にフランス語学の次元でできる限り正確であること、第二に日本語として読むに値する、信頼のおけるテクストを作ること、を挙げている。

若森さんは、さらに「デリダのテクストが日本語になりにくい理由あるいは原因については、稿を改めて検討する必要がある」と述べているが、一刻も早くそのことを教えていただきたい。

それはともかく、これで挑戦を受けて立つ用意はできた。

デリダのテキストが戦略なのだから、こちらも戦略を持たねばなるまい。
その戦略として、私は脱構築と「散種」の方法を用いることにした。

ふつう「読む」とは「だれかの書いたものを」という目的語がくっついている。
まず初めにこの「だれか」、この場合はデリダを切り離してしまう。

あとは読む人がテキストを自由に料理していい。
解釈は自由だし、何なら書き換えて別のテキストにしてしまってもいい。
デリダが、それは誤解だ、それはひどいと言っても、もう切り離しているのでかまわない。

私はこのテキストを読むことで創造力を発揮しているのだ。
そして、各所に新しいテキストを「散種」していく…。
時が経って、どんな花が咲くか楽しみだ。

自分でも、こんなことは妄想だと思う。
しかし、デリダのテキストに接することによって「読む」という行為について再考させられたことは確かだ。

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2022年10月23日 (日)

デリダのテキスト戦略(その2)

前回はおもに「絵葉書」を取り上げて、デリダのテキストの変てこぶりを紹介した。
私の手許にあるもう1冊のデリダの本は「散種」である。

「散種」という語は広辞苑には載っていない。
たぶん他の国語辞典にも載っていないだろう。
私も生まれてこのかた、こんな語に出会ったことがない。

「散種」はこの本のフランス語原題「dissemination」の日本語訳である。
グーグル翻訳では、「dissemination」は「普及」となっている。
しかし訳者は、「普及」というふつうの日本語では読者の誤解を招くと考えて造語したのだと思う。

漢字の字義を手がかりにすれば、その意味は何となく分かる。
何かの種をあちこちにばらまくことだろう。

そして時が経つと、その種からそのばらまかれた地の環境に応じて、違った花が咲く。
すなわち差異が生ずる…。

こうして「散種」とデリダのキー概念のひとつである差異とが結びつく。
だからそれほど間違った解釈ではないと思うのだが、どうも自信がない。

デリダは本文のなかでも、ところどころ「散種」という語を使っている。たとえば…。

それゆえ、テクスト的な諸審級の向こうに、創造的なものや志向性、もしくは体験の中に再我有化すべきテーマ的統一性もしくは全体的意味など存在しないのだとすると、もはやテクストは、ある多義的な文献のなかで回折し集結するような何らかの真理の表現ないし表象(見事なものにせよそうでないにせよ)ではない。
散種という概念を用いる必要が出てくるとすれば、多義性というこの解釈学的概念に取って代えるためである。
(ジャック・デリダ 藤本一勇他訳「散種」法政大学出版局 2013)

しかしこの文が理解できないので、結局「散種」が何だかわからない。

東浩紀さんは、「存在論的、郵便的」というデリダ論(新潮社 1998)の中で、パロール的多様性=多義性、エクリチュール的多様性=散種と整理している。
この場合のパロールは声、エクリチュールは文字である。

エクリチュールという語は、デリダの本文の中にも頻出するけれども、おおむねこの区別で使っている。
その意味では、バルトよりもさらに文字あるいは書きことばに近い。

そうか、散種という概念はエクリチュールの特性から生まれたのか。
ここまで来て、ようやくほんの少し腑に落ちた気分になった。

それでも、散種という造語が明治初期の多くの造語、たとえば演説や経済や哲学のように社会一般に普及することはあるまい。今後も、あくまでもデリダに言及する場合に限られるだろう。

散種という造語は、フランス文学やフランス思想を専門とするえらい先生たちがが考え出した語だから尊重すべきだろう。

でも、「訳語は、言語学その他の専門領域にのみ通用しているものはなるべく避けて、一般の共通言語として機能しうる日本語を選ぶことに努めた」という宗左近さんならどんなタイトルにしたか、ちょっぴり興味がある。

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2022年10月 9日 (日)

デリダのテキスト戦略

ロラン・バルトはエクリチュールについて、さまざまな実験をした。
自伝的エッセイを断章形式で書き、それを標題のアルファベット順に配列するというのもそのひとつだろう。
ある意味で、読者への挑戦でもある。

ジャック・デリダはエクリチュールの実験、読者への挑戦という意味でバルトのさらに上を行く。
デリダのテキストは、ラカンとは別の意味で難解である。
難解というよりも、奇妙というほうが適切かもしれない。

いま私の手許にはデリダの本が2冊ある。
「散種」(藤本一勇他訳 法政大学出版局 2013)と「絵葉書Ⅰ」(若森栄樹他訳 水声社2007)である。
どちらも部厚く、値段も高い。

むろん本屋さんで買ったものではない。
図書館で借りてきた。

まじめに読もうと思って、借りたのではない。
ものすごく難解という評判を聞いたので、どのくらい難解なのか確かめてみたい、といういわば好奇心からである。

こういう本は、まず「訳者あとがき」から読む。
ふたつの本に共通していることが2点ある。

ひとつは、内容解説に代えてデリダ自身の文を紹介していることである。
そのデリダの文が理解できないので、結局本の内容がわからない。

もうひとつは、これらのテキストの翻訳不可能性に言及していることである。
どちらの訳者も、一瞬にせよ「このテキストは日本語に翻訳できないのではないか?」と感じたことを述べている。
専門家がそう思うくらいだから、わたしがわからないのは当たり前かもしれない。

たとえばこんな調子。

1979年5月   通学かばんをめぐる君の夢について、もう一度よく考えてみた。それは(以下空白)
1979年8月5日 こうした奇妙な関心事に身を委ねることで、私は何に違背しているのだろうと思う。誰に、どんな誓約に、そしてもはや君ではない誰を誘惑するために。この問いは馬鹿げている。あらゆる問いは。

「絵葉書Ⅰ」は、こんな意味不明の疑似書簡で全編(373ページもある!)が占められている。
「訳者あとがき」で、若森さんは「読者がこの本を読んで好きになれば、翻訳は成功しています」と言っているけれど、この本をちゃんと理解して好きになる読者がどれほどいるのだろう?

デリダの、特に後期の著作は、内容もさることながら形式面でもこのように疑似書簡の方法を取り入れたりして、読者をびっくりさせる。
また、文字のスタイルやレイアウトの面でも実験的な試みをしている。

もちろんデリダはわざとこういうことをやっているのだ。
読者に挑むように。

デリダのテキストがこのような奇妙なものになったのは、70年代からだという。
それまでのデリダのテキストはわりと行儀のいいものだったらしい。

そのお行儀のいい論文群で展開した独自のテキスト理論を70年代に入っていよいよ実践に移し始めた、ということだろう。
脱構築を主張したデリダならではである。
しかしデリダはそれでいいのだろうけれど、読者にとってはこの時期以降のテキストは暗号解読に近くなる。

たぶん、デリダは「読む」というありふれた行為の意味を読者に再考させたいのだろう。
単なる情報受信行為ではなく、「読む」という行為に潜む創造性に気づかせたいのだと思う。

そう考えると、エクリチュールという概念は「書く」だけでなく「読む」という行為にまで広がっていくような気がする。
エクリチュールというのは何なのか、ますますわからなくなってきた。

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2022年10月 2日 (日)

バルトの断章(その3)

前にもお話したように、「記号の国」は表むきは日本と西洋の比較文化論だけれど、真の主題はバルトの考えるエクリチュールなのだ。
それなのに、バルトの考えるエクリチュールとは何なのかいまいちよくわからない。

バルトはエクリチュールの語をさまざまな意味で用いている。
書体、文字、書く行為、書かれたもの、文体、書くことへの愛、文学の原動力…。
私がわからないのも当然かもしれない。
(以上は、「バルトによるバルト」という本の訳者である石川美子さんの訳注)

文字あるいは書ということが共通しているけれども、書きことばに限らないような気もする。
パロールにも、エクリチュールの概念は通用するのではないか?

実はこの本については別訳(ロラン・バルト 宗左近訳 「表徴の帝国」 新潮社 1974)がある。
その中で訳者の宗さんはエクリチュールを「表現体」と訳し、「エクリチュール」というルビを振っている。

このことについて宗さんは、「訳語は、言語学その他の専門領域にのみ通用しているものはなるべく避けて、一般の共通言語として機能しうる日本語を選ぶことに努めた」、「基本的な概念となる一つの原語は、できるだけ一つの日本語で置き換えようと試みた」と言っている。

ある文脈において、バルトがエクリチュールをこのうちどんな意味で用いているか?
それを知る手がかりはある。

それが前回の終わりのほうに記しておいた空虚、中心、意味、と言った語彙群である。
実際これらの語は、この本の全編にわたって頻出する。
これらの手がかりを注意深くたどっていけば、バルトの考えるエクリチュールにたどり着けそうな予感がする。

この本で重要な位置を占めている俳句もその手がかりの一つだ。この本でバルトが例として挙げている俳句は14句に上る。
私の知らない句も多い。

フランス語に訳された俳句(バルトが読んだもの)を日本語に再訳した俳句にはこんなのがある。

夕方 秋、
わたはただ思ふ
両親のことを。

すでに4時だ!
わたしは9回も起きた
月に見とれるために。

最初の句は与謝蕪村の「父母のことのみ思ふ秋のくれ」、次は芭蕉の「九たび起きても月の七つ哉」である。
フランス語のはオリジナルにはない「わたし」が入っている。
ラングの決まりに従って、入れなければ仕方がないのだ。

ただ、この「わたし」は軽い。
主体としての「わたし」、自我と深く結びついたような「わたし」ではない。
何なら「かれ」や「あなた」と入れ替えても大きな違いはない「わたし」である。
つまり、符牒のような役割しか果たしていない。

そんな俳句における{わたし」を発見したことで、バルトはテキストに「わたし」を使い始める。
実際、「記号の国」の冒頭は「もしわたしが…」ではじまる。
俳句における「わたし」が気に入ったようだ。

さて、バルトは無垢のエクリチュールということをいう。
内田樹さんによれば、エクリチュールは語り手(あるいは書き手)にとっての檻だという。
つまり、語り手を拘束する。

しかしバルトはあらゆるとらわれから自由な、つまり語り手を拘束しない無垢で透明なエクリチュールにあこがれる。
しかし、そんなエクリチュールがあり得るのだろうか?
バルトはその稀有な例がカミュの「異邦人」だという。

なので、わたしも「異邦人」(の日本語訳)を買って読んでみた。
たしかに、和訳を通じてでもそのカラッとした文体はしのぶことができる。
でも、バルトや内田さんが言うほど奇跡的な独創的な達成とは感じられなかった。
私の感受性がにぶいのだろうか?

「異邦人」はともかく、バルトにとっては俳句も無垢のエクリチュールと感じられたのは確かなようだ。

前にもお話ししたように、バルトは断章というスタイルを好んだ。
前出の「バルトによるバルト」という著作も350ほどの断章で編まれた自伝的エッセイだ。

その中には「断章の輪」という断章もあって、こう書かれている。

断章で書く。
すると、それらの断章は、輪のまわりの小石になる。
私は自分を丸く並べているのだ。
私の小さな全宇宙が粉々になる。
中心には何があるのか。
(ロラン・バルト「バルトによるバルト」 石川美子訳 みすず書房 1975)

私の断章もこんなふうだろうか?

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