デリダのテキスト戦略(その3)
前回は、デリダの「dissemination」の日本語訳、「散種」についてあれこれあげつらってみた。
おかげで少しわかったような気がしたけれど、「散種」という語が面妖であることには変わりがない。
「訳者あとがき」には、どうしてこのようなタイトルにしたのか、その経緯に一切触れていない。
ひょとすると、「散種」という造語は訳者によるものではなく、それ以前から日本のデリダ研究者の間ではふつうに使われていたのかもしれない。
デリダの著作は、その困難さにもかかわらず多くの外国語に翻訳されているらしい。
たとえば中国語に翻訳されたこの本のタイトルは何だろう?
やはり「散種」だろうか?それとも…。
スワヒリ語に翻訳されたこの本のタイトルは何だろう?
やはり訳者による新造語だろうか?
私には調べるすべがないので、ご存知の方はご教示いただきたい。
デリダの数ある著作のなかでも、「弔鐘」(1974)についてはまだ日本語訳が出ていないようだ。
テキストの変てこぶりがさらに過激になって、さすがに日本語訳が不可能、ということになっているのだろうか?
デリダの本を見る(この物理的な動詞のほうがふさわしい)ということは、デリダの華麗で奔放で奇怪なパフォーマンスを、遠巻きにして眺めていることに似ている。
そして時々、このセンテンスの言わんとしていることはこうであろうか、ああでもあろうかと推察しているのだ。
とにかく、ふつうの「読む」という行為では太刀打ちできない。
もちろんデリダはこのような破天荒なテキストをわざと書いている。
自身の脱構築の理論の実践のつもりかもしれない。
「散種」の「訳者あとがき」で、藤本さんはこのテキストはデリダから読者への挑戦状だと言っている。
挑戦されたからには受けて立たねばなるまい。
ただし、私はフランス語が分からないので、翻訳書の土俵で勝負するしかない。
「絵葉書」の「訳者あとがき」で若森さんは、「これまでデリダの翻訳はしばしば非常に読みにくく、ただ難解なだけという印象を持つ読者がいるかもしれません」と言っている。
そう、私もその一人なのだ。
そして、この本の翻訳の基準として、第一にフランス語学の次元でできる限り正確であること、第二に日本語として読むに値する、信頼のおけるテクストを作ること、を挙げている。
若森さんは、さらに「デリダのテクストが日本語になりにくい理由あるいは原因については、稿を改めて検討する必要がある」と述べているが、一刻も早くそのことを教えていただきたい。
それはともかく、これで挑戦を受けて立つ用意はできた。
デリダのテキストが戦略なのだから、こちらも戦略を持たねばなるまい。
その戦略として、私は脱構築と「散種」の方法を用いることにした。
ふつう「読む」とは「だれかの書いたものを」という目的語がくっついている。
まず初めにこの「だれか」、この場合はデリダを切り離してしまう。
あとは読む人がテキストを自由に料理していい。
解釈は自由だし、何なら書き換えて別のテキストにしてしまってもいい。
デリダが、それは誤解だ、それはひどいと言っても、もう切り離しているのでかまわない。
私はこのテキストを読むことで創造力を発揮しているのだ。
そして、各所に新しいテキストを「散種」していく…。
時が経って、どんな花が咲くか楽しみだ。
自分でも、こんなことは妄想だと思う。
しかし、デリダのテキストに接することによって「読む」という行為について再考させられたことは確かだ。
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