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2022年9月 4日 (日)

ラカンのエクリチュール(その2)

前回は、ラカンのテキストにはじめて出会ったときの衝撃についてお話しした。
前回も紹介したけれど、その一部をここに再掲しよう。

自己からの他人に対する時間性をおびた問い合わせとしてのソフィスムの真理、集合的論理の基本的形式としてのあらかじめする主観的な確言。

このようにして、ソフィスムの真理はそれがたまたま立証されるとしても、ただソフィスムに含まれる確言の中の、いわば推測によってそうされるのである。
また、この真理は或る観念を目ざす傾向に依存していることがこうして明らかにされるのであるが、その観念とは、もしそれが結論の時点を決定する時間の緊迫に還元されないとすれば、ひとつの論理的逆説であるかもしれないものである…。
(ジャック・ラカン 佐々木孝次他訳 「エクリⅠ」 弘文堂 1972)

この引用部分が「このようようにして」という接続文で始まっているのは、これが「エクリ」に収録された比較的短い論文(それは「論理的時間と予期される確実性の断言ー新しいソフィスム」と題されている)の結論部分だからである。

皆目理解できないテキストの例として、この部分だけを引用するのは若干公正さに欠けるかもしれない。
何故なら、この論文の冒頭部分は比較的わかりやすいからである。

刑務所長が三人の囚人を呼び出して、「これからある問題を出す。一番早く正解を言い当ててこの部屋から退出したもの一名だけを釈放する」という。

その問題とは、三人の背中に黒か白の円盤を貼る。
他の二人の円盤を見ることはできるが、そのことをお互いに言ってはいけない。
円盤は黒が二枚、白が三枚、用意されている。
さて、自分の円盤は黒か白か?

具体的な論理問題なのである。
論文はこの問題と囚人の出した解答をめぐって時間の変数も加えながら考察が進むのだけれど、だんだん抽象度が高くなってきて、例示した結論部分に至ってさっぱりわからなくなる。

タイトルが示す通り、この論文の主題は「ソフィスム」である。
「ソフィスム」は外来語だけれど、国語辞典には載っていない。
英和辞典よると「詭弁、謬論」とあるのだけれど、このような理解でいいのかどうかもついにわからない。

論文集「エクリ」は、日本語訳では三分冊になっている。
一冊でもけっこう部厚い。
他の論文の難解さも、ここに例示したものと大同小異だ。

佐々木孝次さんの「訳者あとがき」によれば、この本が1966年に出版されるとたちまちベストセラーになったのだそうだ。
一体フランスの読書界はどうなっているのだろう?

今からフランス語を猛勉強して、何ならラカンのゼミナールの録音テープも聞いて、しかる後に原文に当たれば少しは理解が進むのだろうか?
でも、そんな余裕も気力もない。

フランス語は使用できる語彙の数が日本語よりも少ないらしい。
だから、ひとつの単語にさまざまな意味を詰め込もうとする。
その上、ひとつひとつの語にはそれぞれ古代からの歴史があり意味の積み重ねがあり微妙な陰影もある。

そのことだけでも日本語との違いは大きい。
つくづく翻訳の難しさ、限界を感じる。

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