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2022年9月11日 (日)

ラカンのエクリチュール(その3)

くどいようだけれど、ラカンのテキスト(の日本語訳)の難解な部分をあらためて引用してみる。

自己からの他人に対する時間性をおびた問い合わせとしてのソフィスムの真理、集合的論理の基本的形式としてのあらかじめする主観的な確言。

このようにして、ソフィスムの真理はそれがたまたま立証されるとしても、ただソフィスムに含まれる確言の中の、いわば推測によってそうされるのである。
また、この真理は或る観念を目ざす傾向に依存していることがこうして明らかにされるのであるが、その観念とは、もしそれが結論の時点を決定する時間の緊迫に還元されないとすれば、ひとつの論理的逆説であるかもしれないものである…。
(ジャック・ラカン 佐々木孝次他訳 「エクリⅠ」 弘文堂 1972)

同じ個所の引用はこれで3回目である。
私にとっては、それだけこの難解さが印象に残った。
おかしな言い方だが、そのわからなさに感銘を受けた。

訳者の佐々木んさんは、自分の訳を読み直してみて、「これでよし!」と思ったのだろうか?
ふつうの日本語話者にもわかってもらえると思って、出版のゴーサインを出したのだろうか?

正確さを多少犠牲にしても、もう少しリーダブルな日本語に直そうとは思わなかったのだろうか?

いやいやそれでは翻訳ではなく、翻案になってしまう。
翻案はそれを手掛ける人の主観が入ってしまう。
訳者として誠実な態度とは言えない。

佐々木さんはそう思ったのだろうか?
フランス文学者の内田樹さんなら、どんなふうに訳すだろう?
ふとそんなことを考えてみる。

なぜこのテキストがわからないのだろう?
日本語で書いてあるのに。

ということを考えることで、わたしたちの読解のメカニズムがわかるのではないか?

最初、このテキストを目にしたとき、垂直に切り立ったつるつるの壁面に直面した感じを受けた。
ということは前にもお話しした。

「机の上にみかんが3個置いてあります」という文ならだれでもわかる。
頭の中に、そのイメージがくっきり浮かぶ。

なぜなら、そこにある語彙がわたしたちの生活実感にただちに結びつくからだ。
言い替えれば、文が身体化される。
そして、文の意味が頭だけでなく身体全体で理解されるのだ。

これに対して、ラカンの冒頭のテキストでは、それぞれの語彙の辞書的意味は頭ではわかる。
しかしそれがわたしたちの生活実感に結び付かない。
つまりテキストを理解するための手がかり、足がかりがどこにも見つからないのだ。

「机の上にみかんが3個置いてあります」という日本語文をフランス語に訳した場合、フランス語話者の脳裡にも日本語話者とそう違わないイメージが浮かぶと思う。
使用されている語彙が生活実感に結び付いているからだ。

フランス語がわからない私の本音として、訳者にはやはりここのところを考えてほしい。
正確さは多少犠牲にしても、生活実感に近い語彙を選択してもらえないだろうか?
それとも内容が高度に抽象的だから、そもそも無理な相談なのだろうか?

佐々木さんは「訳者あとがき」の中で、「フランス語話者でもラカンのテキストを初めて読む人にとっては難しいと思う」と述べているけれども、その難しさの質は日本語話者のそれとは違うと思う。

ラカンはフランス語で書いている。
そこで使われている語彙はひとつひとつ歴史があり、他の語彙との関連があり、曰く言い難い陰影がある。
母語話者には、内容とは別にそのことが直感的に分かる。
そうした語彙が積み重なるとともに、テキストと読者の間に、内容とは別の「親和性」が生まれる。
母語話者なら、はじめての読者でもそのことだけは感じ取れる。

しかし悲しいかな日本語話者は、その「親和性」も感じ取ることができない。

「自我は自己の内部にしみじみと「自分は存在するのであるなあ」という実体的な確信が積み上げられて、その結果獲得されるわけではありません。外部にある像を「あれが私だ」と思い込むことによって獲得されるのです。」
(内田樹 「街場の文体論」 ミシマ社 2012)

これは、内田樹さんがラカンの鏡像段階説を解説したテキストの一部である。
日本語話者が日本語話者に向けて日本語で書いているのだから、わかやすくて当たり前である。

しかし、この文には「机の上にみかんが3個置いてあります」のような、ただちに生活実感に結び付くような語彙はない。
それでもわかりやすいのは、読者にとってリーダブルにするためのさまざまな工夫がなされているからだ。

冒頭のラカンのテキストについても、そのような工夫の余地はあるような気がするのだが…。

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