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2022年9月25日 (日)

バルトの断章(その2)

バルトは断章というスタイルを好んだ。
実際、「記号の国」も短い断章の積み重ねである。

「記号の国」は、26の断章からなっている。
でたらめに並べたのではなく、最初の3章は言語について、次の4つの断章は日本料理について、さらに次の4章は東京の都市論…と内容的に連鎖しながら構成されている。

このブログの構成とよく似ている。
それも当然だ。

実は、バルト先生は私の、このブログの恩人なのだ。
バルトに断章という形式を教えてもらわなかったら、17年も、845回もこのブログは続かなかった。

バルト先生には、まとまったテキストを書くのに必ずしも起承転結にこだわらなくていい、ということを学んだ。
そうすると、自然にテキストが出てくるようになった。
テキストが次のテキストを呼び出すという好循環が生まれた。
そして17年も続いた。

私のことはさておき、「記号の国」には文楽についての3つの断章、俳句についての4つの断章もある。
とりわけ俳句については熱が入っている。
バルト自身が語っているように、俳句はバルトの考え方やスタイルに大きな影響を及ぼしたようだ。

むろんバルトは俳句をフランス語訳を通じて理解している。
日本人がフランス語に訳したもの、あるいはイギリス人が英訳したもの(をバルト自身がフランス語に訳したもの)を通じて、理解している。

たとえば、「古池や蛙飛び込む水のおと」は、

古い池、
蛙が飛びこむ、
おお、水のおとよ。

となる(「記号の国」の訳者石川美子さんが日本語に再訳したもの)。
だから、バルトの理解したものは正確には俳句と言えないものかもしれない。

しかし、バルトの直感はフランス語訳を介しても俳句の本質に達したようだ。
バルトは、蛙が池に飛び込んだ時のポチャンという音のあとには意味が中断してしまう、と言っている。
また、「俳句は理解しやすいものでありながら、なにも意味していない」とも言っている。

いったいに、この本にはエクリチュール、空虚、中心と並んで意味という語も頻出する。
西洋では、中心は空虚であってはいけない。
意味をぎっしり詰め込まなくてはいけない。
そんな強迫観念があるようだ。

バルトはそのことを指摘している。
そして、中心を定め、そこは意味で充実していなくてはならない、という西洋の強迫観念に息苦しさを感じているようなのだ。

日本では中心はあるにせよ、東京の都市構造のようにそこは空虚である。
意味を詰め込もうとしない。

俳句についても、文楽についても、日本料理についても、そのことを繰り返し述べている。
バルトが日本で意味の重圧から解放され、楽しくこのテキストを書いたことがよくわかる。

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2022年9月18日 (日)

バルトの断章

ラカンに比べるとロラン・バルトのテキスト(の日本語訳)はまだしも読みやすい。
たとえば、こんな具合である。

ところが、わたしが話題にしている都市(東京)は、つぎのような貴重な逆説をしめしている。たしかに東京にも中心はあるのだが、その中心は空虚だということである。立ち入り禁止になっているとともに、だれの関心も引くことのない場所ー樹木の緑で隠され、お堀で守られて、けっして人目にふれることのない天皇が、つまり文字どおり誰だかわからない人が住んでいる皇居ーのまわりに、東京の都市全体が円をえがいて広がっている。
(ロラン・バルト 石川美子訳 「記号の国」みすず書房 2004)

日本語話者にとって身近な題材を取り上げているため、読みやすいのは当然かもしれないが、ここには日常の生活実感につながった手がかり、足がかりがたくさんある。

内容はラカンと同じくらい急斜面だが、よじ登れないことはないな、という気にさせる。
また、同じ題材について、ラカンならどんなふうに書くだろう?という興味もある。

「記号の国」はバルトが1960年代後半に日本を三度訪問、滞在した時の経験を踏まえて1970年に出した本である。

バルトは写真についても関心が深く、写真のエクリチュールをテーマにしたテキストもある。
なので、この本にもバルト自身の解説による写真がたくさん掲載されている。

古代装束をまとった舟木一夫、歌舞伎役者、二条城の廊下、石庭、相撲、毛筆による漢字など伝統文化に関するものがが多いが、パチンコ風景、タレントのブロマイド、全学連の闘争風景などもあって面白い。
乃木将軍とその妻の殉死前日の写真なんてのもある。

テキストとこれらの写真がバルトの意図のもとに渾然一体となっていて、楽しいけれども気の抜けない本だ。

この本は、表面的には日本の伝統文化や見聞きしたことと西欧のそれとを対比した比較文化論のようだけれど、ほんとうはバルトの考えるエクリチュールが主題なのだ。
実際エクリチュールという語は、この本の中に頻出する。

でもバルトの考えるエクリチュールとはなんだ?
この本を楽しく読みながらも、つねに悩んでいたのはそのことだ。
このフランス語にはぴたりとあてはまる日本語がないので困る。

広辞苑には、「書くこと、書かれたもの」と出ているけれども、少なくともバルトの場合、これではだめ。
内田樹さんはその人が属している階層や社会集団に特徴的な「語り口」と言っている。

この本における「エクリチュール」にあたる日本語としてもっともふさわしいのはなんだろう?
この本を読みながらずっと考えていたのだけれど、いまだにわからない。
あなたなら、どんなことばがいいと思いますか?

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2022年9月11日 (日)

ラカンのエクリチュール(その3)

くどいようだけれど、ラカンのテキスト(の日本語訳)の難解な部分をあらためて引用してみる。

自己からの他人に対する時間性をおびた問い合わせとしてのソフィスムの真理、集合的論理の基本的形式としてのあらかじめする主観的な確言。

このようにして、ソフィスムの真理はそれがたまたま立証されるとしても、ただソフィスムに含まれる確言の中の、いわば推測によってそうされるのである。
また、この真理は或る観念を目ざす傾向に依存していることがこうして明らかにされるのであるが、その観念とは、もしそれが結論の時点を決定する時間の緊迫に還元されないとすれば、ひとつの論理的逆説であるかもしれないものである…。
(ジャック・ラカン 佐々木孝次他訳 「エクリⅠ」 弘文堂 1972)

同じ個所の引用はこれで3回目である。
私にとっては、それだけこの難解さが印象に残った。
おかしな言い方だが、そのわからなさに感銘を受けた。

訳者の佐々木んさんは、自分の訳を読み直してみて、「これでよし!」と思ったのだろうか?
ふつうの日本語話者にもわかってもらえると思って、出版のゴーサインを出したのだろうか?

正確さを多少犠牲にしても、もう少しリーダブルな日本語に直そうとは思わなかったのだろうか?

いやいやそれでは翻訳ではなく、翻案になってしまう。
翻案はそれを手掛ける人の主観が入ってしまう。
訳者として誠実な態度とは言えない。

佐々木さんはそう思ったのだろうか?
フランス文学者の内田樹さんなら、どんなふうに訳すだろう?
ふとそんなことを考えてみる。

なぜこのテキストがわからないのだろう?
日本語で書いてあるのに。

ということを考えることで、わたしたちの読解のメカニズムがわかるのではないか?

最初、このテキストを目にしたとき、垂直に切り立ったつるつるの壁面に直面した感じを受けた。
ということは前にもお話しした。

「机の上にみかんが3個置いてあります」という文ならだれでもわかる。
頭の中に、そのイメージがくっきり浮かぶ。

なぜなら、そこにある語彙がわたしたちの生活実感にただちに結びつくからだ。
言い替えれば、文が身体化される。
そして、文の意味が頭だけでなく身体全体で理解されるのだ。

これに対して、ラカンの冒頭のテキストでは、それぞれの語彙の辞書的意味は頭ではわかる。
しかしそれがわたしたちの生活実感に結び付かない。
つまりテキストを理解するための手がかり、足がかりがどこにも見つからないのだ。

「机の上にみかんが3個置いてあります」という日本語文をフランス語に訳した場合、フランス語話者の脳裡にも日本語話者とそう違わないイメージが浮かぶと思う。
使用されている語彙が生活実感に結び付いているからだ。

フランス語がわからない私の本音として、訳者にはやはりここのところを考えてほしい。
正確さは多少犠牲にしても、生活実感に近い語彙を選択してもらえないだろうか?
それとも内容が高度に抽象的だから、そもそも無理な相談なのだろうか?

佐々木さんは「訳者あとがき」の中で、「フランス語話者でもラカンのテキストを初めて読む人にとっては難しいと思う」と述べているけれども、その難しさの質は日本語話者のそれとは違うと思う。

ラカンはフランス語で書いている。
そこで使われている語彙はひとつひとつ歴史があり、他の語彙との関連があり、曰く言い難い陰影がある。
母語話者には、内容とは別にそのことが直感的に分かる。
そうした語彙が積み重なるとともに、テキストと読者の間に、内容とは別の「親和性」が生まれる。
母語話者なら、はじめての読者でもそのことだけは感じ取れる。

しかし悲しいかな日本語話者は、その「親和性」も感じ取ることができない。

「自我は自己の内部にしみじみと「自分は存在するのであるなあ」という実体的な確信が積み上げられて、その結果獲得されるわけではありません。外部にある像を「あれが私だ」と思い込むことによって獲得されるのです。」
(内田樹 「街場の文体論」 ミシマ社 2012)

これは、内田樹さんがラカンの鏡像段階説を解説したテキストの一部である。
日本語話者が日本語話者に向けて日本語で書いているのだから、わかやすくて当たり前である。

しかし、この文には「机の上にみかんが3個置いてあります」のような、ただちに生活実感に結び付くような語彙はない。
それでもわかりやすいのは、読者にとってリーダブルにするためのさまざまな工夫がなされているからだ。

冒頭のラカンのテキストについても、そのような工夫の余地はあるような気がするのだが…。

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2022年9月 4日 (日)

ラカンのエクリチュール(その2)

前回は、ラカンのテキストにはじめて出会ったときの衝撃についてお話しした。
前回も紹介したけれど、その一部をここに再掲しよう。

自己からの他人に対する時間性をおびた問い合わせとしてのソフィスムの真理、集合的論理の基本的形式としてのあらかじめする主観的な確言。

このようにして、ソフィスムの真理はそれがたまたま立証されるとしても、ただソフィスムに含まれる確言の中の、いわば推測によってそうされるのである。
また、この真理は或る観念を目ざす傾向に依存していることがこうして明らかにされるのであるが、その観念とは、もしそれが結論の時点を決定する時間の緊迫に還元されないとすれば、ひとつの論理的逆説であるかもしれないものである…。
(ジャック・ラカン 佐々木孝次他訳 「エクリⅠ」 弘文堂 1972)

この引用部分が「このようようにして」という接続文で始まっているのは、これが「エクリ」に収録された比較的短い論文(それは「論理的時間と予期される確実性の断言ー新しいソフィスム」と題されている)の結論部分だからである。

皆目理解できないテキストの例として、この部分だけを引用するのは若干公正さに欠けるかもしれない。
何故なら、この論文の冒頭部分は比較的わかりやすいからである。

刑務所長が三人の囚人を呼び出して、「これからある問題を出す。一番早く正解を言い当ててこの部屋から退出したもの一名だけを釈放する」という。

その問題とは、三人の背中に黒か白の円盤を貼る。
他の二人の円盤を見ることはできるが、そのことをお互いに言ってはいけない。
円盤は黒が二枚、白が三枚、用意されている。
さて、自分の円盤は黒か白か?

具体的な論理問題なのである。
論文はこの問題と囚人の出した解答をめぐって時間の変数も加えながら考察が進むのだけれど、だんだん抽象度が高くなってきて、例示した結論部分に至ってさっぱりわからなくなる。

タイトルが示す通り、この論文の主題は「ソフィスム」である。
「ソフィスム」は外来語だけれど、国語辞典には載っていない。
英和辞典よると「詭弁、謬論」とあるのだけれど、このような理解でいいのかどうかもついにわからない。

論文集「エクリ」は、日本語訳では三分冊になっている。
一冊でもけっこう部厚い。
他の論文の難解さも、ここに例示したものと大同小異だ。

佐々木孝次さんの「訳者あとがき」によれば、この本が1966年に出版されるとたちまちベストセラーになったのだそうだ。
一体フランスの読書界はどうなっているのだろう?

今からフランス語を猛勉強して、何ならラカンのゼミナールの録音テープも聞いて、しかる後に原文に当たれば少しは理解が進むのだろうか?
でも、そんな余裕も気力もない。

フランス語は使用できる語彙の数が日本語よりも少ないらしい。
だから、ひとつの単語にさまざまな意味を詰め込もうとする。
その上、ひとつひとつの語にはそれぞれ古代からの歴史があり意味の積み重ねがあり微妙な陰影もある。

そのことだけでも日本語との違いは大きい。
つくづく翻訳の難しさ、限界を感じる。

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