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2022年8月 8日 (月)

「読む」ことの意味

遠い未来、わたしたちは「書く」という面倒な言語行為をしなくてもよくなるかもしれないー。
というのが、前回のお話だった。

わたしたちは、「書く」かわりにAIに向かって同じことを話せばいい。
AIがそれを文字化してくれる。

わたしたちは、それを読めばいい。
だから、人間が書かなくなっても文字を読む技能は依然として必要だ。

いや、まてよ。
この段階での「読む」という作業もAIがやってくれるのではないか?
AIが読み、それを音声化してくれる。
人間はそれを聞けばいい。

こうなれば、人間は「話す」技能と「聞く」技能さえあればいい。
文字によるコミュニケーションは、AI同士の中で完結する。

人間社会から文字が消える日。
荒唐無稽な夢想かもしれないが、AIと人間の関係を深堀りしていけばそんな未来にもたどり着く。

「書く」ことと「読む」ことがAIに取ってかわられても、人間が存続する限り、「話す」と「聞く」は残る。
したがって、「話す」と「聞く」が人間の言語行為の本質だ。
人間社会から文字が消える日のことを思うと、そんな結論も導ける。

話しことばに比べて、書きことばははるかに遅れて誕生した。
ひょっとすると、書きことばは人間の長い歴史の一時期にあらわれた文化現象なのかもしれない。

考えてみると、たしかにそんな一面がある。
話しことばは、口と耳という生物に備わった器官さえあれば可能だけれども、書きことばは紙や筆記具など何らかの道具を必要とする。

話しことばは自然に属しているのに対し、書きことばは文化に属している。
だから、AIというあたらしい文化が進化することによって、書きことばという文化が必要なくなる。

やはり人間にとって、言語の本質は話しことばなのか?

文字言語は、音声言語の衣装である。
その衣装は、退廃と堕落の衣装であり、腐敗と仮装の衣であり、よき音声言語によって追い払われるべき祭りの仮面なのだ。
ソシュールもそう考えていた。

しかし、本当にそうだろうか?
ジャック・デリダはこれに対してエクリチュールの肩を持つ。

パロールは直接的、本質的であるかもしれないが、それゆえに何事も一義的に決めつけてしまう。
これに対してエクリチュールは間接的、非本質的であるがゆえに、読み手によってさまざまに解釈が可能であり意味が固定化されずどこまでも広がってゆく。

つまり、「読み」というのは単なる受動的な情報受信行為にとどまらず、豊かな創造性を内包しているという。
実際、デリダは読みの達人だったそうだ。

こうして新しい光を当ててみると、「読む」こともなかなか捨てたものではない。
ひょっとして、「文字が消える日」は来ないかもしれない。

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