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2022年8月21日 (日)

エクリチュールとパロール

前回はエクリチュールというフランス語の術語が出てきた。

そこでは、日本語の「書きことば」に当たる語として用いた。
デリダもパロールつまり話しことばの対概念として使っている。

エクリチュールということばは日常会話ではあまり登場しないけれども外来語としては登録されていて、広辞苑には「書くこと、書きことば」という語釈が載っている。

でも、エクリチュールに言及した他のテクストを読むと、必ずしもエクリチュール=書きことばではないらしい。

ロラン・バルトなどによるとエクリチュールの意味範囲はもっと広い。
日本語で言えば「語法」または「語り口」にあたる。
それがある階層と深く結びついているのだそうだ。

こうなると、エクリチュールは単なる書きことばではなくなる。
エクリチュールが「語り口」なら、それはパロールまで包摂してしまう。
エクリチュールとパロールという対概念も成り立たなくなる。

そもそも言語学用語としてのパロールは、ソシュールが使い始めた。

彼によると、ランガージュ(言語活動)の下位分類としてラングとパロールがあることになる。
ラングとは文法規則や言語音の選択など体系的、制度的な側面、平たく言えば〇○語のことである。
そしてパロールとは、ラングに従って個々人が表現する具体的な〇〇語の表出のことである。
こう考えると、パロールには話しことばだけでなく書きことばも含まれることになる。

前回、知ったかぶりをしてフランス言語学の術語を持ち出したものの、だんだん自信がなくなってきた。
その原因は、私のスノビズムだけでなくフランス語の術語と日本語の対応関係にも問題があるのではないか?

大体ソシュールが言い出したシニフェとシニフィアンという術語も難しい。
日本語として、所記、能記というよくわからない訳語がある。
訳した人もずいぶん悩んだことと思うが、演説や経済と異なり訳語にはなじまないのではないか?

エクリチュールとパロール。
ランガージュとラング。
シニフィアンとシニフェ。

これらのフランス記号学の術語と日本語とは、どうもうまく対応しない。
何故だろうか?
日本語の側に原因があるのだろうか?

そうとも考えられる。
大体日本語話者は言語を対象化してこなかった。
ことばを駆使して、感情を表現することに関しては長けていたけれども、あまりに身近すぎて、研究対象とすることを思いつかなかった。

しかし、言語が身近であり生活に密着したものであるのは、日本でも西洋でも同じである。
では、この違いは何に由来するのだろうか?

そう掘り下げてみると、神話時代に行き着かざるを得ない。
創世記を読むと、そのそも天地開闢のはじめに、神の「光あれ!」ということばによっ光が誕生したことが記されている。
それだけでなく、名づけの由来、神の怒りが人間の言語を混乱させたこと、などことばの力に関する言及が多い。

ひるがえって古事記でも日本書紀でも、ことばはすでにそこにあるものとして扱われてきた。
先験的にそこにある以上、あとは利用するだけのことである。

わたしたち日本語話者は、古代以来今日に至るまでことばに対して、そんな態度をとり続けてきた。
だから、フランス記号学は理解しにくいのだと思う。

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