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2022年8月30日 (火)

ラカンのエクリチュール

ジャック・デリダ、ロラン・バルトときたからには、ジャック・ラカンにも登場してもらわねばなるまい。

ラカンのテキストに初めてふれたのは、もう10年近く前になる。
その時は腰を抜かした。

日本語の訳文で読んだのだけれど、ひとことも理解できなかった。
こんな日本語文もあるのか、と思った。

たとえば、こんな具合である。

自己からの他人に対する時間性をおびた問い合わせとしてのソフィスムの真理、集合的論理の基本的形式としてのあらかじめする主観的な確言。

このようにして、ソフィスムの真理はそれがたまたま立証されるとしれも、ただソフィスムに含まれる確言の中の、いわば推測によってそうされるのである。
また、この真理は或る観念を目ざす傾向に依存していることがこうして明らかにされるのであるが、その観念とは、もしそれが結論の時点を決定する時間の緊迫に還元されないとすれば、ひとつの論理的逆説であるかもしれないものである…。
(ジャック・ラカン 佐々木孝次他訳 「エクリⅠ」 弘文堂 1972)

こんな調子でえんえんと続く。

垂直に立ったつるつるの壁面を前にしているように感じる。
どこにも手がかり、足がかりが見つからず途方に暮れてしまう。

この文をすらすらと理解できる日本語話者がいるのだろうか?

この論文を訳した佐々木さんはフランス思想史のえらい先生だそうだから、その訳文は正確で適切なのだと思う。
でも私にはひとこともわからない。

もともとラカンはフランスでも難解な文章で有名な人だそうだから、日本語への翻訳についての苦労話が出ていないかと、「訳者あとがき」を読んでみた。

そこにはこんなことが書いてあった。

「語ることとは全く次元の異なった文体をとおして、言葉が文字として読者に提供されているので、その話を聞いたことがなく、書きものによってはじめて彼の思想に接した大部分の読者には、その説くところがきわめて難解と映ったのは当然であろう。」

つまり、フランス語話者でさえ、テキストだけで彼の思想を理解するのは至難の業なのだ。
まして、そのテキストをまったく構造の異なる日本語への翻訳を通じて接することになるわれわれにおいておや。

実はラカンは、この訳書への序文を寄せている。
それによると、ラカンは日本語にまったく不案内というわけではなさそうだ。
この序文には、音読み(l'on-yomi)、訓読み(le kun-yomi)という日本語さえ出てくる。

そのラカンにして、日本語への翻訳の困難さを恐れている。
彼は「この序文を読んだらすぐに、私の本を閉じる気を起こさせるようにしたい!」とまで言っている。

私がこの訳文を理解できないのは、たんに私の頭が悪いせいだけではないことがわかって、ほっとした。

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2022年8月21日 (日)

エクリチュールとパロール

前回はエクリチュールというフランス語の術語が出てきた。

そこでは、日本語の「書きことば」に当たる語として用いた。
デリダもパロールつまり話しことばの対概念として使っている。

エクリチュールということばは日常会話ではあまり登場しないけれども外来語としては登録されていて、広辞苑には「書くこと、書きことば」という語釈が載っている。

でも、エクリチュールに言及した他のテクストを読むと、必ずしもエクリチュール=書きことばではないらしい。

ロラン・バルトなどによるとエクリチュールの意味範囲はもっと広い。
日本語で言えば「語法」または「語り口」にあたる。
それがある階層と深く結びついているのだそうだ。

こうなると、エクリチュールは単なる書きことばではなくなる。
エクリチュールが「語り口」なら、それはパロールまで包摂してしまう。
エクリチュールとパロールという対概念も成り立たなくなる。

そもそも言語学用語としてのパロールは、ソシュールが使い始めた。

彼によると、ランガージュ(言語活動)の下位分類としてラングとパロールがあることになる。
ラングとは文法規則や言語音の選択など体系的、制度的な側面、平たく言えば〇○語のことである。
そしてパロールとは、ラングに従って個々人が表現する具体的な〇〇語の表出のことである。
こう考えると、パロールには話しことばだけでなく書きことばも含まれることになる。

前回、知ったかぶりをしてフランス言語学の術語を持ち出したものの、だんだん自信がなくなってきた。
その原因は、私のスノビズムだけでなくフランス語の術語と日本語の対応関係にも問題があるのではないか?

大体ソシュールが言い出したシニフェとシニフィアンという術語も難しい。
日本語として、所記、能記というよくわからない訳語がある。
訳した人もずいぶん悩んだことと思うが、演説や経済と異なり訳語にはなじまないのではないか?

エクリチュールとパロール。
ランガージュとラング。
シニフィアンとシニフェ。

これらのフランス記号学の術語と日本語とは、どうもうまく対応しない。
何故だろうか?
日本語の側に原因があるのだろうか?

そうとも考えられる。
大体日本語話者は言語を対象化してこなかった。
ことばを駆使して、感情を表現することに関しては長けていたけれども、あまりに身近すぎて、研究対象とすることを思いつかなかった。

しかし、言語が身近であり生活に密着したものであるのは、日本でも西洋でも同じである。
では、この違いは何に由来するのだろうか?

そう掘り下げてみると、神話時代に行き着かざるを得ない。
創世記を読むと、そのそも天地開闢のはじめに、神の「光あれ!」ということばによっ光が誕生したことが記されている。
それだけでなく、名づけの由来、神の怒りが人間の言語を混乱させたこと、などことばの力に関する言及が多い。

ひるがえって古事記でも日本書紀でも、ことばはすでにそこにあるものとして扱われてきた。
先験的にそこにある以上、あとは利用するだけのことである。

わたしたち日本語話者は、古代以来今日に至るまでことばに対して、そんな態度をとり続けてきた。
だから、フランス記号学は理解しにくいのだと思う。

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2022年8月 8日 (月)

「読む」ことの意味

遠い未来、わたしたちは「書く」という面倒な言語行為をしなくてもよくなるかもしれないー。
というのが、前回のお話だった。

わたしたちは、「書く」かわりにAIに向かって同じことを話せばいい。
AIがそれを文字化してくれる。

わたしたちは、それを読めばいい。
だから、人間が書かなくなっても文字を読む技能は依然として必要だ。

いや、まてよ。
この段階での「読む」という作業もAIがやってくれるのではないか?
AIが読み、それを音声化してくれる。
人間はそれを聞けばいい。

こうなれば、人間は「話す」技能と「聞く」技能さえあればいい。
文字によるコミュニケーションは、AI同士の中で完結する。

人間社会から文字が消える日。
荒唐無稽な夢想かもしれないが、AIと人間の関係を深堀りしていけばそんな未来にもたどり着く。

「書く」ことと「読む」ことがAIに取ってかわられても、人間が存続する限り、「話す」と「聞く」は残る。
したがって、「話す」と「聞く」が人間の言語行為の本質だ。
人間社会から文字が消える日のことを思うと、そんな結論も導ける。

話しことばに比べて、書きことばははるかに遅れて誕生した。
ひょっとすると、書きことばは人間の長い歴史の一時期にあらわれた文化現象なのかもしれない。

考えてみると、たしかにそんな一面がある。
話しことばは、口と耳という生物に備わった器官さえあれば可能だけれども、書きことばは紙や筆記具など何らかの道具を必要とする。

話しことばは自然に属しているのに対し、書きことばは文化に属している。
だから、AIというあたらしい文化が進化することによって、書きことばという文化が必要なくなる。

やはり人間にとって、言語の本質は話しことばなのか?

文字言語は、音声言語の衣装である。
その衣装は、退廃と堕落の衣装であり、腐敗と仮装の衣であり、よき音声言語によって追い払われるべき祭りの仮面なのだ。
ソシュールもそう考えていた。

しかし、本当にそうだろうか?
ジャック・デリダはこれに対してエクリチュールの肩を持つ。

パロールは直接的、本質的であるかもしれないが、それゆえに何事も一義的に決めつけてしまう。
これに対してエクリチュールは間接的、非本質的であるがゆえに、読み手によってさまざまに解釈が可能であり意味が固定化されずどこまでも広がってゆく。

つまり、「読み」というのは単なる受動的な情報受信行為にとどまらず、豊かな創造性を内包しているという。
実際、デリダは読みの達人だったそうだ。

こうして新しい光を当ててみると、「読む」こともなかなか捨てたものではない。
ひょっとして、「文字が消える日」は来ないかもしれない。

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