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2022年5月22日 (日)

驚天動地の事態(その2)

日本語の書きことばにおいて、漢字はその中心を占める。
その衛星文字であるひらがなとカタカナが、漢字だけで日本語を表記する欠点を補っている。
こうして、漢字と仮名を混ぜ書きにすることによって、日本語のテキストが出来上がる。

しかも混ぜ書きの方式にルールはない。
だから、「秘密の花園」とも書けるし、「ひみつの花園」とも書けるし「ヒミツのはなぞの」とも書くことができる。表記の特徴を生かした表現力が高いのだ。

それに漢字は四字熟語を作ることができる。
「魑魅魍魎」、「支離滅裂」、「驚天動地」などのように。
文字を見ているだけで、その意味がインパクトを持って切迫してくる。

水村美苗さんは「日本語が亡びるとき」の中でこう書いている。

そんなおもしろい表記法をもった日本語が「亡びる」のは、あの栄光あるフランス語が「亡びる」よりも、人類にとってよほど大きな損失である。

日本語話者としてはたしかにその通りだと思うけれど、残念ながらこの表記法は一般性を持たない。
漢字はすぐれた文字だけれど特殊な文字であり普遍性がない。
だから、人類全体には普及しない。

いま日本では漢字廃止論や漢字制限論はひところよりも衰えている。
むしろ人名漢字などを中心に若干増える傾向にある。
一見日本語の表記法は盤石のように見える。

しかし前にもお話ししたように、漢字廃止論が力を失ったのはITによる言語処理技術の進歩のおかげなのだ。
そしてその基盤を支えているのは皮肉にもローマ字である。

文字の運命も永遠ではありえない。
この先IT技術がますます発達すれば、漢字廃止論や制限論が息を吹き返すかもしれない。

漢字の生まれ故郷である中国の文字政策はいまどうなっているのだろう?
簡体字化は一段落したようだが、今後さらに徹底するつもりなのかどうか?
いずれにせよ正統な漢字に戻ることはあるまい。

日本でも中国ほどではないが、「國」を「国」にするなどいまは簡略化した漢字を使っている。
正統な漢字を継承しているのは臺灣と香港ぐらいのものだけれど、臺灣の文字政策はいまどうなっているのだろう?

今や世界でも数少なくなったこれら漢字使用国はこれからどうなってゆくのだろう?

2006年8月27日に、私はこのブログに「驚天動地の事態」という記事を投稿している。
http://kij.cocolog-nifty.com/nihongo/2006/08/index.html

あれから16年がたった。
その間にどんなことが起こっただろう?

私は漢字が書けなくなった。
いまはパソコンで文字を書くことが普通である。

「驚天動地」にしてもキーボードに「KYOUTENNDOUTI]と入力すればすむ。
だから手書きでは漢字が書けなくなった。

今の漢字を中心とした日本語の表記法は、ローマ字の海に漂っているようなものなのだ。

漢字の将来は決して安泰ではない。
遠い将来には、本当に「驚天動地の事態」が起こるかもしれない。

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2022年5月15日 (日)

「小説」の謎(その2)

前回は、novelの適切な訳語をめぐって呻吟しているところで終わった。
明治期に西洋から奔流のようにやってきた新来の概念に直面した人々はみなこのことで頭を悩ませた。

救いはそこに漢字があったことである。
漢字のすぐれた造語力によって、わたしたちはなんとかこの事態を乗り切った。

それだけでなく、「現地語」に過ぎなかった日本語を「国語」に進化させ、さらには「普遍語」に迫るまでになった。

前々回紹介した水村美苗さんの「日本語が亡びるとき」にこうある。

日本の二重言語者の男たちは、「普遍語」で読み書きしながらも、自然に「現地語」でも読み書きするようになった。そのことがいかに「現地語」の日本語を助けたことであろうか。
そのおかげで、日本語は「普遍語」の高みに近づき、美的な重荷を負うだけでなく、時には「普遍語」と同じように、知的、倫理的な重荷を負うのが可能な言葉になっていったのであった。

また、こうも書いている。

福沢諭吉、西周、蓑作麟祥、中江兆民、坪内逍遥ーその他数え切れない二重言語者による翻訳を通じて、日本の言葉は、世界と同時性をもって、世界と同じことを考えられる言葉へと変身していったのである。

ここで一つの仮定を考えてみたい。
もし日本語に漢字がなかったら、どうなっていただろう?

ローマ字でも日本語を表記できるから、たとえばローマ字を基本とする言語圏だったとしよう。
そこへ西洋からnovelという新しい概念が入ってきた。

どのように訳して日本語の語彙に置き換えるのだろう?
漢字のように表意性を生かして訳すことはできない。
表音機能だけしかないローマ字の場合、適切な日本語に置き換えるのは難しいと思う。

あるいは文字が同じだから、特に訳さずそのまま受け入れるのだろうか?
だとすれば、novelという外来語として受け入れることになる。
一番簡単な方法だ。

以上は日本語がローマ字を使っていたら、という仮定のうえでの話だけれど、他の言語圏では実際どうしているのだろう?
アラビア文字にせよ、テーバナーガリー文字にせよ表音文字である。
これらの言語圏では、novelに対応する語彙はどんなものだろう?

そもそも中国語ではどうか?
日本語からの逆輸入で、やはりnovel=小説なのだろうか?
それとも、前回お話ししたように古代からある「小説」はまったく違う意味だから、別の語彙を用意しているのだろうか?

自然発生するにせよ、特定のだれかが創始するにせよ、ある語彙がその言語圏に受け入れられ、一般に流通するようになるまでには、それなりの紆余曲折があるはずだ。

「小説」にしても、坪内先生が作ったからと言ってすんなりと日本語圏に受け入れられたとは思えない。
坪内逍遥は、明治18年自ら作ったばかりの「小説」という語を用いて、「小説神髄」を出版している。

この時、人々はどう思っただろう?
「ん、小説? 何のことだ?」と思ったのではないだろうか?

それから130年以上たった今では、「小説」は当たり前の語になっている
誰も何とも思わない。

水村さんは小説家だから、「日本語が亡びるとき」の中でも「小説」という語がよく出てくる。
しかし、「小説」という訳語自体の適切性については何も言及していない。
水村さんでさえ、当たり前のように使っている。

前回、私は「小説」がnovelの訳語として適切かどうか疑念を呈したのだけれど、この事実の前には引き下がるほかない。
やはり坪内逍遥はえらかった。

いま、坪内逍遥や福沢諭吉のような仕事をする人はいない。
新来の概念を適切な日本語に置き換えようという動機がもう生まれない。

新来の概念は、カタカナに音写して外来語として処理するのが普通になっている。
コストやパフォーマンスも外来語として、そのまま受け入れる。
そして、コスパという略語まで作る。

J.D.サリンジャーの小説「The Catcher in the Rye」。
1964年、野崎孝はこの標題を「ライ麦畑でつかまえて」と訳して出版した。

しかし、2003年に出た村上春樹の新訳は「キャッチャー・イン・ザ・ライ」になっている。
コストやパフォーマンスと同じく音写である。
時代は変わったのだ。

しかし、もう一度水村さんのことばを思い出してほしい。

数え切れない二重言語者による翻訳を通じて、日本の言葉は、世界と同時性をもって、世界と同じことを考えられる言葉へと変身していったのである。

今その翻訳の必要性も苦悩も必要がない。
このことが日本語を再び「土語」の地位に引き下げはしないだろうか?

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2022年5月 8日 (日)

「小説」の謎

「小説」という語は、いま人口に膾炙している。

「小説家」という職業をあらわすことばが、当たり前に通用している。
長編小説、歴史小説、恋愛小説、空想科学小説、三文小説など、「小説」をさまざまに形容した語もあふれている。

みな何の不思議もなく使っている。
それほど日本語として定着した語彙なのだ。

しかし、単語としてはまったくの新参者である。

広辞苑によれば、「坪内逍遥によるnovelの訳語」と解説されている。
つまり、西洋由来の新しい概念を日本語にするために明治期に大量に作り上げられた和製漢語の一つらしい。

そうか、福沢諭吉がspeechから「演説」を作ったように、坪内逍遥はnovelから「小説」を作ったのか。

しかし、ちょっと待ってほしい。
speech=演説はなるほどと思うけれど、novel=小説はあまり納得できない。

「小説」は漢字の字義に従えば、小さな意見もしくは論ということになる。
それがなぜnovelに対応するのだろう?

novelの原義は「新奇さ」である。
fiction,tale,storyなどnpvelの類語とはそこが異なっている。

逍遥はそこまで踏まえて「小説」と訳したのだろうか?
novelには「小」の意味は含まれていないから、どうせなら「大説」でもよかったのではないか?
できることなら、タイムマシンに乗って逍遥に問いただしてみたい。

「小説」という真正の漢語は古代中国からある。
広辞苑には漢書の用例が載っている。

でも、意味はnovelとはまったく関係がない。
とるに足らない市中のうわさ話、といった意味らしい。

「小」という漢字が、そのことを示している。
逍遥の「小説」における「小」は何を意味しているのだろう?

みなさんが逍遥の時代に生きていて、novelという新来の概念を日本語に置き換えなければならない立場にあったとしたら、どのような訳語を考えるだろうか?

私なら、novelの原義を生かして「創話」という造語にしてみたいがいかがだろう?
別に逍遥と張り合うつもりはないけれど。

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2022年5月 1日 (日)

日本語の文字の未来(その2)

2008年に出た水村美苗さんの「日本語が亡びるとき」を、私は繰り返し読んだ。
繰り返し読んで、大事だと思うところには付箋を貼り、書き込みもした。

つねづね、私の読書は淡々としている。
付箋を貼ったり、書き込みをすることなどない。

こんなことはめったにない。
それにとどまらず、書評まで書いてしまった。
このブログにリンクが貼ってある。

なぜこんなにはまったのだろう?
水村さんの日本語に対する危機意識が、私の心の琴線と共鳴したのだと思う。

この本には「英語の世紀の中で」という副題がついている。
今や世界のリンガフランカになった英語の前に、日本語は日常の用を足すだけの「土語」に堕ちてしまうのではないか?
これが、水村さんの危機意識の要点である。

水村さんはこんなふうに言っている。

「私が言う『亡びる』とは、言語学者とは別の意味である。
それは、ひとつの<書きことば>が、あるとき空を駆けるような高みに達し、高らかに世界をも自分をも謳いあげ、やがてはそのときの記憶さえ失ってしまうほど低いものになり果ててしまうことにほかならない。」

現に、話しことばにおいても書きことばにおいても日本語への英語の浸透は進行している。
このことはみなさんも日々実感しておられることと思う。

たとえばTVの歌番組では、歌詞の中に英語がふつうに混在するようになっているし、画面下に流れる歌詞のテロップではローマ字が目立つようになっている。
新聞のテレビ欄を見ても、「SP」や「SHOW」などのローマ字がよくあらわれる。
このブログでも、「キャッチャーとは何か」のシリーズの中で、その実例をたくさん上げてみた。

前回は、漢字、ひらがな、カタカナの3種の文字を混用するのが日本語表記の標準といったけれども、今ではそれにローマ字を加えて4種の文字を混用するのが標準、と言い替えるべきかもしれない。

このように英語が浸透していく中で、日本語は空洞化してしまわないか?
いっときは文学や思想、科学を語る高みにまで達した日本語が再び土語のレベルにまで失墜してしまうのではないか?

というのが、水村さんが抱く危惧であり、私もその通りだと思う。
「叡智を求める人々」が「普遍語」に流れていくのは常のことなのだから。

私は水村さんがこの本で触れていないもう一つの事実も見逃すことができないと思っている。

前回、私は日本語表記はいま安定期に入っている、と言った。
そして、日本語表記が安定したのは、ワープロやパソコンの技術革新によって漢字かな交じりの表記が飛躍的に効率的になったためだ、と言った。

しかし、その入力はどうなのだろう?
ほとんどの人がローマ字入力をしているのではないか?

かく言う私もローマ字入力である。
「NOHONNGO」とキーをたたいて「日本語」に変換している。

こんなことばかりしているので、手書きでは漢字を書けなくなっている。
つまり、いま日本語表記は安定していると言ったけれども、その安定はローマ字が支えているのだ。
いまの安定は見かけの安定にすぎない。

スマホはローマ字入力ではないが、文を作成する背後で動いているソフトはローマ字とアラビア数字で書かれている。
日本語表記がローマ字に依存していることには変わりがない。

漢字かな交じりの日本語表記の未来はローマ字が握っている、というのも皮肉ですね。

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