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2022年4月24日 (日)

日本語の文字の未来

前回は、文字の1万年、10万年、100万年後の未来について愚考した。
そこでは人類と文字のかかわり全般について考えてみた。

では、足もとの日本語における文字の未来はどうなのだ?

未来の運命について考えるには、過去を振り返ることが欠かせない。
日本語における文字の成り立ち、その変遷を踏まえなければならない。

現在、このブログのように日本語の表記は漢字かな交じりを基本にしている。
そして安定期に入っている。

しかし、安定期を迎えたのはごく最近のことだ。
明治のはじめ、「漢字御廃止の儀」が提出されてから、漢字廃止論、漢字制限論は根強かった。
ローマ字化論、かな文字化論も結構盛んだった。

でも今はそれらの声は小さい。
なぜ今になって、安定期を迎えたのだろう?

私はIT技術を活用した文字処理技術の進歩が大きいと思っている。
漢字かな交じりの表記に伴うわずらわしさからワープロが一挙に解放してくれたのだ。

世界的に見て、3種の文字を混用する日本語の表記法は実にユニークだ。
そして自由度と表現力に富んでいる。

「秘密」は「ひみつ」とも「ヒ・ミ・ツ」とも書くことができる。
そして、その微妙なニュアンスの違いを楽しむことができる。
ある特定の意図をもって、「広島」を「ヒロシマ」と書くこともある。

日本語話者は、漢字を日本語を表記するための道具として受け入れた。
だから、使い勝手が悪ければ道具を改良すればいい。
こうして仮名が生まれた。

仮名だけでも日本語は表記できる。
しかし、日本語話者は漢字を捨てなかった。

双方のいいとこ取りをした。
このような文字に対するプラグマティックな姿勢が、漢字かな交じりの現在の表記につながった。

この点、同じく表記法として漢字を受け入れた朝鮮語やベトナム語はどうなのだろう?
ベトナム語の歴史には、仮名に類似したチュノムがあったという話を聞くけれども、漢字とのまぜ書きをしたのだろうか?
あえてチュノムを使用することで、ニュアンスの違いを楽しむことができたのだろうか?

今では、ベトナム語はローマ字のみ、朝鮮語は(ほぼ)ハングル一本やりである。
日本語表記のユニークさが、ますます際立っている。

ただ、このユニークさがいいことなのかどうか?

上で、3種の文字を使い分けることで、日本語の表記は自由度と表現力に富んでいる、と言った。
けれども、その自由度と表現力を享受できるのは日本語話者に限られている。
いわば内輪で愉しむ自由度と表現力なのだ。

日本語の書きことばの世界は、表記の複雑さによって守られた「秘密の花園」になっているかもしれない。
そう考えると、手放しでいいこととは思えない。

日本語話者は漢字かな交じりを別に奇妙とも思わず当たり前のように使っている。
しかし、日本語学習者にとってこれは難物だ。

会話では不自由しない人でも、文字を自由自在に使いこなすことはむずかしい。
「世界に開かれた日本語」という視点で考えた時、安定期を謳歌するだけでいいのだろうか?

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2022年4月17日 (日)

文字の未来

人類が文字を獲得してから1万年も経っていない。
音声言語に比べれば、まったくの新参者だ。

それが今ではわたしたちの言語生活の中で、大きな顔をして中心に座っている。
SNSの時代になって、ますます文字によるコミュニケーションの比重が高まっている。

これから先、どうなるのだろう?
それも10年や20年の未来ではなく、1万年のスパンで考えてみたら?

声の時代の長さに比べて、人類の文字の発明が異常に遅かった理由についてはこの文字シリーズの中で仮説を提出したことがあった。

発した瞬間に跡形もなく消えてしまう声と違って、文字は時間を超えて「もの」として残る。
たしかに便利なものだし、いまとなってはなくてはならないものだ。

しかし文字に潜む危険性について人間はうすうす感づいていた。
だから、人間は文字の発明をわざと遅らせた。

おおよそそんな趣旨だったと思う。
同じ文字シリーズの中で、中島敦の「文字禍」を紹介したのもその延長線上のことだった。

いま全盛を誇っている文字の時代でも、その危険性は依然として残っている。
人々はがそれに気づかないだけだ。
あるいはもはや文字を手放せない以上、気づかないふりをしているのかもしれない。

これから先、文字はどんな運命をたどるのだろう?

古代にローマ字や漢字やアラビア文字やテーバナーガリー文字などの大文字が出そろってから、新しいタイプの文字はほとんど生まれていない。

ひらがなやカタカナやチュノムのような既存大文字をもとにした派生的な文字が生まれたくらいだ。
まったく新たな文字体系が出現したのはハングルくらいではないか?

これからも人類が存続する限り、文字は続く。
しかし、新しい文字体系が生まれることなどあるだろうか?

考えにくい事態だけれど1万年とは言わず10万年、100万年のスパンを取った場合、あり得るかもしれない。
IT技術、AI技術の進歩はいちじるしい。
こうした技術革命が言語活動に及んで、文字のあり方に影響するかもしれない。

SFには、テレパシーなどのような文字を介さないコミュニケーションがよく登場する。
これから先ますます発達するAIを応用すれば、それに似たことが可能になるかもしれない。

前回は文字と音声言語の相互作用についてお話しした。
この先文字が変化するなら、その相互作用にも変化が及ぶだろう。
文字だけに限らず、話は言語活動すべてにつながってゆく。

太陽が巨星化するときに、地球はなくなる。
おそらく地球がなくなる前に、人類は滅ぶだろう。

しかしそれも当分先のことだ。
文字、言語の未来を考えると、気が遠くなる。

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2022年4月 3日 (日)

話しことばと書きことば(その3)

前回は、話しことばと書きことばの間にある「溝」について、少し掘り下げて考えてみた。

考えてみた結果、この「溝」は決して悪いものじゃない。
「溝」というから何だか悪いもののように思えるのだ。
これを「区別」と言い換えてみてはどうか?

話しことばと書きことばの間には厳然とした区別があって、これがわたしたちの言語活動にけじめをつけてくれているのだ。
そんなふうな結論に至ったような気がする。

書きことばが話しことばとまったく区別がなくなって単なる話しことばの文字化に堕落してしまったら、わたしたちの言語活動はみすぼらしくなる。
あなたはそうは思いませんか?
「話すように書きたい」という人々の切ない欲望も分かるのだけれど。

それでは、話しことばと書きことばはそれぞれ独自の道を進めばいいのだろうか?
そうではあるまい。

ここでは、話しことばと書きことばの相互作用について考えてみたい。
話しことばと書きことばが織りなすダイナミズムについて考えてみたい。

自分の体験に照らしてみて、これがあることは間違いない。

わたしたちは人と会話をしていても文字を思い浮かべることがある。
文字の助けを借りることがある。

特に日本語は使用できる言語音が少ないため、どうしても同音異義語が多くなる。
相手が「こうえん」と言っても、一義的に意味を確定することができない。
通常は文脈から判断するのだけれど、「講演、後援、公園」などの文字を思い浮かべることで一層意味の印象が鮮やかになる。

あるいは、電話で自分の名前を伝えるき。
「ええと、博物館の博と銀行の行です」。
こういう時は文字のありがたさを痛感する。

無文字時代の人々は、そもそも脳裡に文字が浮かぶことがない。
どんな感覚だったのだろう?

あまりいいことではないかもしれないが、わたしたちは英語を話すときでもついアルファベットのつづりを意識してしまう。
母語話者にはこんなことはないのだろうか?

同じく文字を思い浮かべるにしても、漢字とローマ字とでは相互作用における重さに違いがあるように思える。

何といっても漢字のインパクトは圧倒的なのだ。
そこへ行くと、ローマ字は話しことばを視覚化するための単なるシンボルあるいは図像として済ませることができるかもしれない。

欧米に根強い音声言語優先主義、あるいは「文字は声のしもべ」という考え方は、こうした文字の性質の違いに由来するのだろう。

一方、話しことばが書きことばの変化に作用したことは歴然としている。
このことは、江戸時代と現代の文学作品を比較するだけで明らかだ。
自覚的な言文一致運動がなくても、いずれ今のようになっただろう。

話しことばから書きことばに向けた作用についてもローマ字と漢字の性質の違いが関係していると思う。
200年前と今の英語の文学作品の隔たりは、日本語におけるそれのように大きくないのではないか?

話しことばと書きことばの相互作用は、人々が気づかないままいまも続いている。
これから先、どのようなダイナミズムが展開されるのだろうか?

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