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2022年3月20日 (日)

話しことばと書きことば(その2)

今日のわたしたちは、話しことばも書きことばも使う。
しかし、人々が意識するかしないかはともかく、話しことばと書きことばの間には「溝」がある。

前回はそんなお話をした。
その「溝」が生まれた所以をもう少し掘り下げてみたい。

話しことばは身ひとつで発することができる。
身体さえあれば、何もいらない。
メガホンやマイクのような道具を使うこともあるけれど、それは特殊な用途に限られる。

前回もお話ししたように、「話す」、「語る」など話しことばの発話をあらわす動詞の漢字にはみな「口」のパーツが含まれている。
「聞く」、「聴く」などの話しことばの受信をあらわす漢字には「耳」のパーツが含まれている。
この事実は話しことばの主役であるのは身体であることを雄弁に物語っている。

人間の身体は自然が創造したものだ。
だから、話しことばは自然に属する。

しかし、書きことばはそうはゆかない。
たとえ枯枝や粘土板のような素朴なものにせよ、何らかの道具がいる。
時代の変遷によって道具はいろいろ変わってきたけれども、道具が必須であることに変わりはない。

最近では、人は自ら道具を持たず話すだけでいい。
話した音声を認識し、それを文字に変換する装置がある。
それでも、書きことばに至るために道具が介在することに変わりはない。

書きことばを生成するには、目と手と道具を使う。
しかし、「書く」や「読む」には、身体部分である「目」も「手」もパーツとして含まれていない。
このことは、書きことばの主役が必ずしも身体ではないことを暗示している。

身体の外部にある道具。
書きことばにはそれが必須なのだ。

道具の使用は、文明の象徴である。
だから、書きことばは文明に属する。

道具を発明し使用することによって、人間は他の動物と別れた。
道具は人間を文明化した。

もし書きことばが生まれなければ、人間は自然状態にとどまっていたかもしれない。
ことばの使用は、人間を他の動物と分かつ指標になっているけれども、それだけでは足りないと思う。

話しことばによって情報を伝達するだけなら、小鳥でもする。
小鳥のさえずりは、ことばの機能を持っている。
近く「小鳥は言葉を使える?」と題したオンラインセミナーがあるので、ご関心のある方は視聴いただきたい。

では、話しことばと書きことばの間にある「溝」は越えられない「溝」だろうか?
前回もお話ししたように、時代とともに話しことばと書きことばの距離は縮まってきている。

「話すように書きたい」という欲求を人々は持っている。
明治には言文一致の運動があった。
最近ではSNSがある。

今や人々はほとんど話すように書いている。
「話すように書きたい」という欲求は実現された。

しかし、ちょっと待ってほしい。
それは本当にいいことのだろうか?

「書くように話したい」という欲求を人は持たない。
なぜなら、話すことと違って書くことはなにがしかの心理的負担があるからだ。
責任の感覚といってもいい。

むかしは筆を執って、文机に向かうと心が改まったものだ。
身が引き締まったものだ。
いつの時代も、そんな瞬間が言語活動には必要なのではないか?

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2022年3月13日 (日)

話しことばと書きことば

前回と前々回で、「話すー聞く」と「書く―読む」を比較したうえで、話しことばと書きことばの間には深い溝がある、というお話をした。

あなたは日々の言語生活で、そんな「溝」を感じたことがある、あるいは意識したことがあるだろうか?

人のことより、そもそも自分自身の言語活動はどうなのだろう?

話しことばは日常生活のうえで無意識的に無反省的に、ほとんど空気を呼吸するように使っている。
大勢の前であいさつするときや講演をするときなどは、多少意識してあらたまったことば遣いをする。
必要に応じてメモやレジュメなどの書きことばを援用することもある。
人からばかと思われたくないからだ。

日ごろ喋るばかりでほとんど書く機会がない、という人も多いかもしれないが、私はわりと書くほうだと思う。
たとえば日記は15歳の頃からほぼ毎日書いている。習慣になっている。
朝起きたら歯を磨くようなものだ。

それから、このブログも15年前からほぼ1週間ごとに書いている。
仕事柄、書類を作成することも多い。

ことさら「溝」を意識したことはないけれども、話すときと書く時とでは明らかにモードが違う。
心のスイッチが切り替わる。
その使い分けが自然にできている感じなのだ。

だから、私の言語活動の場合、客観的に「溝」はあるというべきだろう。
主観的にはあまり意識しないにしても。

ここからは私個人のことでなく、社会一般について考えてみたい。

むかしは明らかに深い「溝」があった。
そもそも文字を知らない人が多かった。
つい最近までそうだった。

その「溝」がどれほどのものであったか、くわしく解説をしなくても古文書を見ればわかる。

それが時代を下るとともに、「溝」が浅くなってきたように思う。
明治期の言文一致運動などは、その「溝」を浅くしようという自覚的な運動だった。

「話すように書きたい」という欲求が人々の間で高まってきたのだ。
その傾向はいまも続いていうと思う。

いや、加速しているかもしれない。
いまSNS上を飛び交っていることばを見る限り、発信している人は「しゃべる」と「書く」の区別をほとんどしていないのではないか?
このSNS語を「書きことば」と呼ぶのもはばかられるくらいだ。
SNS語はパソコンのキーやスマホのボタンを打つことで作るから、「打ちことば」と呼ぶべきかもしれない。

そう、伝統的な話しことばと書きことばに加えて、「打ちことば」という第3の言語が確立しつつあるのだ。

IT技術の進歩はとどまるところを知らない。
「打ちことば」が出現してから、まだ30年もたっていない。
ひょっとして、わたしたちが生きている間に第4、第5の未知のことばが生まれるかもしれない。

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2022年3月 6日 (日)

「話す」と「聞く」

声の左右には「話す」と「聞く」という、相補的な行為が控えている。
「書く」と「読む」よりもさらに日常的な行為であり、わたしたちがこれをしない日は一日もない。

いや、ひとり暮らしのお年寄りなら、これをしない日があるかもしれない。
人にとって、これはとてもつらい。
ひとり暮らしのお年寄りが特殊詐欺に引っ掛かりやすいのも、「話す」と「聞く」の機会に飢えているためかもしれない。

相補的、と言うのは一方が欠ければ他方も成り立たないからだ。
話してもそれを聞く人がいなければ、むなしい。
聞く気があっても、話す人がいなければそもそも聞けない。

もちろん、ひとりごと、という行為はある。
しかし、それを長く続けていれば、周りから人が遠ざかっていく。
気味の悪い行為なのだ。

前回、「かく」と「よむ」という動詞は文字の到来以前からあった、というお話をしたけれど、「はなす」と「きく」という動詞は、言語の発生と同時に成立した。

だから、「はなす」と「きく」という動詞は、音声言語の誕生と同時に相補的な行為として対峙することになった。
ここが、「かく」と「よむ」との違いだ。

ただ、「かく」と「よむ」と同じように意味の広がりは大きい。
声の領域の外にまで広がっている。

たとえば、「騎手が馬の手綱をはなす」という。
漢字表記では「放す」になる。
一般に、自己の管理下にある物事を解放する、という場合に使う。
「話す」という行為も自己の内面を外にさらけ出すわけだから、語源は同じかもしれない。

たとえば、「この車のブレーキはよくきく」という。
漢字表記では「利く」になる。
効果を発揮する、という意味である。
「聞く」と「利く」は、発音は同じだけれども語源は別かもしれない。

「話す」と「聞く」には、それ専用の器官がある。
耳と口である。
だから、漢字の「聞く」や「聴く」には、「耳」というパーツが含まれている。

そして、発話行為をあらわす動詞には「話す」のほかに「語る」や「言う」や「喋る」や「告げる」がある。
驚いたことに、みな「口」というパーツが含まれている。

もちろん、「書く」と「読む」にもそれ専用の器官がある。
手と目である。

しかし、「書く」にも「読む」にも手と目のパーツは含まれていない。
何故だろう?
「書く」と「読む」の場合には、「文字」の存在が大きすぎて対応する器官にまで意識が及ばないからだろうか?

「書く」、「読む」、「話す」、「聞く」はひとまとめに言語の4機能と呼ばれる。
しかしこうして比較してみると、「書く」ー「読む」と「話す」ー「聞く」の間には深い溝があるような気がする。

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