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2022年2月27日 (日)

「書く」と「読む」

文字の左右には「書く」と「読む」という、相補的な行為が控えている。
ごく日常的な行為であり、わたしたちがこれをしない日はない。

相補的、と言うのは一方が欠ければ他方も成り立たないからだ。
私がこのブログを書いても、あなたに読んでいただけなければ、そもそも「ブログを書く」という行為の意味がない。

もちろん、日記のように他人に読ませることを想定しないテキストもある。
しかし、日記も未来の自分という読者を想定しているのだ。

ずっと前にもお話ししたけれど、「かく」という日本語の動詞は文字の到来以前からあった。

「かく」は先のとがったもので平面をひっかくことが原義だそうだ。
指先で背中のかゆい所を「かく」。
枯枝で地面にタヌキの姿を「かく」。
古語辞典では「書く」よりも「掻く」のほうがはるかにくわしく記述されている。

漢字が日本列島に到来した時、毛筆で紙に描く動作が「掻く」に似ていたことから、「かく」というすでにある動詞を
当てはめたにちがいない。

「よむ」だって、文字の到来以前からあった。

古語辞典には、第1義として「数を数える」が出ている。
拾ってきた栗の実が何個あるか数えるのも「よむ」だ。
いまでも○○地区で何票獲得できるかを見込むことを「票を読む」という。

第2義は、「声を出して唱える」である。
たとえば、ユーカラのような口承作品を語るのも「よむ」という。

みずから「うた」をつくることも「よむ」という。
この場合は、「詠む」という漢字を当てる。

バッターボックスで打者は「ピッチャーの配球をよむ」。
これも文字とは無関係だ。

漢字が日本列島に到来した時、文字が記された巻物を認識し、その内容を理解する行為に「よむ」という動詞を当てたのは、どのようなプロセスだったのか?
「かく」と同じような動作の共通性ゆえではないと思う。

紫式部は書きたての物語を同僚たちに読んでもらったけれど、その女房たちは黙読したのかはたまた音読だったのか?
少し前、そんな素朴な疑問を提起したけれど、古語辞典による限り、いまの「読む」すなわち黙読という含意はないようだ。
してみると、やはり同僚たちは声に出して読んだのかもしれない。

このように考えてくると、はじめに文字の左右には「書く」と「読む」という相補的な行為が控えている、と言ったけれど、これはいまの感覚にすぎない。

つまり文字以前の「よむ」と「かく」は別に相補的な関係にあったわけではない。
お互い無関係に成立しうるのだ。

英語ではどうだろうか?
「write」と「read」は文字の存在を前提としているのだろうか?
英英辞典で調べる限り、どちらの動詞もたくさんの意味が解説されていて、中にはひょっとして文字の存在を前提にしない意味もあるのかもしれない。

それでも日本語の「よむ」と「かく」のように、文字の領域にとどまらない広範囲の意味を持った語ではないような気がする。
少なくとも、「背中をかく」という意味で「write」を使うことはない。

では、漢字の「書」や「読」はどうだろう?
やはり、「文」の存在を前提にした意味だろうか?

漢字辞典によれば、「読」には「説」や「語」の意味もあるというから、必ずしも文字を前提にしていないのかもしれない。
解字をみても、文字を前提とはしていないようだ。

これに対して「書」は意味も解字も、どこまでも文字を離れない。
「背中をかく」の場合は「掻」という別の漢字を用いる。

他の言語は知らない。
「読む」と「書く」は基本語彙だから、どの言語にもこれに相当する語はあるはずだ。
それが日本語の「よむ」、「かく」と同じようなふるまいをする言語があるのかどうか?

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2022年2月20日 (日)

「うた」と音楽

「音楽」という、よく使われる漢語がある。
音楽家と言ったり、音楽番組と言ったりする。
音楽家は、辞書には「音楽を専門とする人。作曲家、指揮者、器楽演奏家、声楽家」などと出ている。

しからば、「うた」と「音楽」はどんな関係にあるのだろう?

辞書によれば、音楽は器楽と声楽に大別されるそうだ。
聞いて楽しい音を出すのが人間であれば声楽、バイオリンやピアノのような「器物」であれば器楽なのだろう。
そうであれば、「うた」は音楽の一部、ということになる。

だが、本当にそうか?

私の言語感覚では、「うた」の意味範囲は「音楽」よりもずっと広いような気がする。
むしろ「うた」が「音楽」を包含するのではないか?

その理路を説明せよと迫られても、うまく言えないが…。

そもそも「音楽」という漢語はいつごろ成立したのだろう?
古代中国で成立した本物の漢語ではないかもしれない。
「芸術」と同じように明治期に成立した和製漢語かもしれない。

「音楽」という語彙や概念はそんなに古くからあるものではないのではないか?
それに比べると、「うた」は古代から使われてきた和語である。
そしていまもばりばりの現役である。 

それに比べると「音楽」は新参者である。
人工的な語彙である。
わざとらしく、とってつけたような響きがぬぐえない。

英語の「music」は、「音楽」とちがって古代に起源をもつ。
吟遊詩人が「オデッセイ」の冒頭で呼びかけた詩神ムーサがその語源である。

ムーサは英語圏ではミューズになる。
学問と芸術の神とされる。
博物館の語源にもなっている。

ムーサは意味範囲が広いのだ。
その点、「うた」に似ている。

「うた」は決して「音楽」の一部である声楽の謂ではない。
逆に、「音楽」が「うた」の一部なのだ。

「うたう」という動詞がある。
「うたう」のは人間だけではない。

オーケストラの指揮者は、「そこのバイオリン、もっと歌え、もっと歌え」と指示することがある。
もっと情感を込めて演奏しろ、という意味である。

「うたう」のは人間だけではない。
「小鳥がうたう」と言う。
「うた」や「うたう」に相当する英語の「song」や「sing」にも「鳥のうた」、「鳥がうたう」の含意がある。
でも、「鳥の音楽」とは言わない。

辞書の世界では「音楽」のほうが威張っているけれども、本当は「うた」のほうがはるかに格上なのだ。

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2022年2月13日 (日)

「うた」と文字

前回は古代に向けて耳を澄ますと「うた」が聞こえてくる、というお話をした。
古代の人々にとって「うた」は単なる趣味や風流ではなく、もっと切実なものであったような気がする。
生きていくことと直結していたような気がする。

人は歌うように話した、いや歌うようにしか話せなかった、そんな時代の名残だろうか?

大陸から文字がもたらされても、しばらくは「うた」のほうが、圧倒的に優位に立っていた。
でも、いまはどうか?

いまの人は歌わない。
少なくとも日常会話は歌うように話すことはない。

もちろん今の人だって、音楽は好きだ。
若い人など、歩いているときも耳にイヤホーンを当てている。
しかし、しろうとのわたしたちが進んで歌うのは、カラオケくらいのものだ。

範囲を広げて、詩や短歌や俳句も「うたう」ものと考えれば、実践している人はもっと多い。
私だって興が乗ればへぼ俳句の一つや二つひねることはある。

俳句ができれば、忘れないように紙に書きつける。
アマチュア歌人も同じようなことをするだろう。
歌会や句会では、その紙に書き付けた文字を読み上げる形で、自作を披露するのだ。
テレビの歌番組だって、映像と音声だけでなく、画面下に歌詞が表示される。

つまり、いまの「うた」は文字に下支えされているのだ。
古代とは関係が逆転している。

わたしは長い間、音声言語に比べて文字の発生はなぜこんなに遅れたのか、と疑問に思っていた。
しかし、「うた」という要素を媒介項とすれば、その理由が何となくわかるような気がする。

つまり、無文字時代は「うた」が文字の代わりをしていたのだ。
人々は、歴史的事実や思想や感情を「うた」に定着させたのだ。

どなたにも経験があるように、「うた」に乗せればことばをすらすらと憶えることができる。
小学校時代に習った歌は、今でも無意識に口ずさめる。
メロディや韻律に助けられて。

つまり、無文字時代は「うた」が外部記憶装置なのだった。

いま、文字は「うた」の優位に立って、「うた」をも支配している。
しかし、文字にも欠点はある。

それは一旦文字化してしまうと、それは永遠に「なかったこと」にはできなくなる、という点だ。
人は起きてしまったことでも「なかったこと」にしておきたいことがあるものだ。
これは昔も今も変わらない。
その時、人にとって文字は便利だけれど酷薄なものに映る。

古代の人々は、文字のそんな両義性にうすうす感づいていたのではないだろうか?
だから、必要であるにもかかわらず開発を急がなかったのだ。

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2022年2月 6日 (日)

「うた」と口

「うた」は漢字で「歌」と書く。
「歌」だけでなく「唄」もあるし「唱」もある。
「うた」に関連することばとして「謳う」もあるし「吟ずる」もある。

みんなパーツとして「口」がある。
当然のことだ。
「うた」は口からほとばしりでるのだから。

ほとばしり出る「うた」の内容によって、漢字を使い分ける。
たとえばそれが詩であるなら「吟」が使える。
仏への賛歌であるなら「唄」を使う。

「うた」と言ってもメロディを伴わない、英語の「declaration」のようなものなら「謳」になる。
「憲法は国民主権を謳っている」のように。

動物にはみんな口がある。
口は生存に欠かせない器官だ。

何といっても大事なのは摂食機能。
口がなくては動物は生きられない。

そして、武器でもある。
けんかの時、相手に咬みつくことができる。

人間だって、ほんとにガブリとやることはなくても相手の主張に「咬みつく」ことはある。
人間にとっても武器なのだ。

そして運搬機能。
獲物の肉を口でぶら下げて、子供のもとにまで帰って来る。
人間だって両手がふさがっているときは、口にくわえることがある。

さらに大事なのは情報伝達機能がある。
鳥も獣も声を出す。
声を上げることによって、仲間になにごとかを伝える。

しかし、人間以外の動物の発声は「ことば」とは言わない。
ねこやライオンの発声は鳴き声である。

「謳」のつくりの部分は区切る、すなわち分節するという意味だそうだ。
音声を分節して、言語を作り上げたのは人間だけの手柄である。
いぬの鳴き声にも何らかの情報伝達機能はあるのだろうけれど、人間のことばとは比べものにならない。

小鳥の発声は「さえずり」という。
「歌」ということもある。
その意味では、人間と共通しているところもあるような気がする。
言語の起源は小鳥のさえずりである、という珍説を唱える人もいるくらいだ。

「歌」のつくりの部分「欠」は、口をあけるという意味だそうだ。
人が口をあけた時、まず出てくるのは「歌」なのだ。

古代の人は、歌うように話したのではないか、いや、歌うようにしか話せなかったのではないだろうか?
ずっと以前、このブログでそんなお話をしたことを思い出す。

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