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2022年1月30日 (日)

「うた」と人間

古代に向けて耳を澄ますと、「うた」が聞こえてくる。
「オデッセイ」と古事記はその成立過程がよく似ている。

「オデッセイ」はまだ文字が用いられていない時代に「うた」として発生した。
古代の人々は、「うた」でしか物語を表現できなかった。
ギリシャ文字が一般化してはじめてそれが文字に定着した。

太安万侶の序文によると、古事記は稗田阿礼が暗誦していた帝紀や旧辞を聞き書きしたものだという。
無文字時代から声だけで受け継がれてきた物語や記憶が安万侶の時代になってようやく文字に定着した。

記紀にも、久米歌などの歌謡が多数収録されている。
古代の人々は、重要な事柄を「うた」で表現した。
日本でも「うた」と縁のない物語はないのだ。

旧約聖書にも、ソロモンの雅歌、哀歌、詩篇など「うた」の性質を持つ形式の作品が多数盛り込まれている。
古代に向けて耳を澄ますと、「うた」が聞こえてくるのだ。

前回、源氏物語は文字の時代の文学だけれど、やはり多数の「和歌=うた」が挿入されている、というお話をした。
文字の時代になっても、「うた」の力は衰えていない。
源氏物語でも言及されている「伊勢物語」のように、「うた」で出来上がっている作品もある。

「うた」は文字の誕生のはるか以前から歌われていて、いまも歌われ続けている。
教会に行けば讃美歌が聞けるし、法事ではお経を拝聴する。
お宮さんでは祝詞があげられている。

歌会や句会は全国津々浦々で開かれている。
松山では毎年夏に高校生の短歌甲子園が行われる。
「サラリーマン川柳」なんてのも募集されていて、結構応募があるようだ。

「うた」は歌だけに限らない。
能や狂言、浄瑠璃はもとより、落語や講談、浪曲、漫才などの話芸と呼ばれる芸能もひろく「うた」と呼んでいいのではないか?

「うた」には韻律がつきものである。
日本語も中国語でも欧米諸語でも韻律はある。
韻律は人間に快感をもたらすのだろうか?

「うた」では韻律やリズムだけでなく、音の大小、高低、緩急などの変化が効果を上げる。
「棒読み」は嫌われるのだ。
「うた」ではない日常会話でさえ、「棒読み」的に話されると異常な感にとらわれる。

こうしてみると「うた」は人間の精神にとってなくてはならない表現形式もしれない。
文字の時代になっても「うた」の力が衰えなかった理由もわかる気がする。

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2022年1月23日 (日)

文字と文学(その8)

「口承文学」ということばがある。
「オデッセイ」のように、声から声へと受け継がれてきた作品のことである。

しかし、私はかねがねこの表現は形容矛盾ではないかと思っている。
なぜなら、「文学」は文字の存在を前提としているのではないか、と考えるからだ。

「文学」はいつごろ生まれた漢語だろう?

中国で昔から使われてきたのだろうか?
それとも「科学」や「哲学」と同じように明治初期に日本で発明された和製漢語だろうか?

「literature」の訳語として作られた和製漢語かもしれない。
「literature」は文字を意味するラテン語「littera」を語源とするという。
そういえば、派生語の「leteracy」も「読み書き能力」という意味だ。

すなわち、「文学」は文字とは切っても切れない関係にある。
だから、「オデッセイ」を文学というにはためらいがある。

そこへゆくと、「源氏物語」はまぎれもなく「文学」だ。
文字がなければ、「源氏物語」は生まれなかった。

それに、「文字」と「文学」は字面もよく似ている。
「文字」と「文学」は、内容だけでなく外見でもぴったりと結びついているのだ。

だけど、日本では「文字」の「文」は「もん」と読み、「文学」の「文」は「ぶん」と読む。
なぜだろう?
「文字」は「文学」とちがい真正な漢語で古い時代に日本にもたらされたからだろうか?

「オデッセイ」は声の時代の作品である。
「源氏物語」は文字の時代の作品である。

では「平家物語」はどうか?

「平家物語」は「源氏物語」よりも200年以上あとの作品だけれども、「平曲」として広がっていったことを考えると、声とよくなじんでいる。
歌の残響が聞こえる。

「オデッセイ」はまぎれもなく歌である。
だから、「オデッセイ」の各篇は「第1歌、第2歌…」などと日本語では表現されている。

では「源氏物語」はどうか?
歌の残響は聞こえないだろうか?

実は、「源氏物語」には800ほどの和歌が挿入されている。
上原まりのCDでも、和歌の部分は朗唱している。

平叙文だけでなく、和歌を多数盛り込むことで情趣が一層深まると紫式部は判断したのだろう。
歌の力は文字の時代になっても衰えなかったのだ。

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2022年1月16日 (日)

文字と文学(その7)

これまで、「オデッセイ」と「平家物語」と「源氏物語」について、並行してお話ししてきた。
ここで、この三者の位置関係を考えてみたい。
文字との関係において考えてみたい。

すると、「オデッセイ」が最右翼に来る。
最右翼では、文字はあるもののまだ人々の精神を支配するまでには至っていない。
文字から自由だった時代の作品なのだ。

ならば、最左翼には「源氏物語」を置かねばならない。
この物語は、徹頭徹尾文字の時代の作品だ。
あの緻密な心理描写は、文字なくしては成立しないだろう。

とすれば、その中間あたりに「平家物語」が位置することになる。
「平家物語」の成立は文字の時代だけれども、作者は盲目の僧にこの物語を口誦させたというから、口演を前提として書いたのかもしれない。

だから、暗誦しやすいようなことば遣いになっている。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり…」

少し前、文字の時代には作品に「作者」が存在するというお話をした。

「オデッセイ」はホメロスが作った、と伝えられている。
しかし、そもそもホメロスなる人物が実在したかどうかもわからない。
つまり「ホメロス」は伝説にすぎない。
だから、「作者」とは言えない。

この点、紫式部は実在が証明されている(名前こそニックネームだけれど)。
彼女が「源氏物語」を執筆したこともちゃんと証拠がある。
堂々たる「作者」なのだ。

「平家物語」は作者として推定されている人物はいるものの、はっきりした証拠がないので、ふつう作者不詳とされている。

作者についても、同じような位置関係にあるのだ。

「オデッセイ」は語りと音楽が融合した総合芸術だ。
「平家物語」も平曲となって、音楽的側面が強い。

しかし、「源氏物語」は音楽と縁がない。
いま「源氏物語」の朗読CDを聴きながらこれを書いているのだけれど、なるほどこれでは音楽にしようがないな、と感じる(上原まりの琵琶の伴奏はあるのだけれど)。

「オデッセイ」は英雄物語である。
「平家物語」は戦記物語である。
しかし、「源氏物語」は恋愛物語である。

英雄や戦争をテーマとした作品は、語りに向いている。
聞かせどころでは、声を張り上げ、緩急の変化をつけ、身振り手振りも交え、竪琴や琵琶の伴奏も熱を帯びる。
聴衆を引き付ける技がたくさん使える。
そういえば、アイヌの英雄詩「ユーカラ」も口誦の作品だ。

その点、「源氏物語」は黙読に向いている。
一人静かに読むことによって、しみじみ「もののあはれ」を味わうのだ。

少し前、平安時代の女房たちは「源氏物語」を西洋と同じように声に出して読んだのだろうか、という疑問を提出したけれど、実際どうだったのだろう?

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2022年1月 8日 (土)

文字と文学(その6)

「ムーサよ、私にかの男の物語をしてください…」
「オデッセイ」は、詩神ムーサへのこんな呼びかけで始まる。

ムーサの名は、「music」の語源になっている。
詩神は吟遊詩人の呼びかけに応えて、詩篇に音楽性を与える。

それはどんな音楽だったのだろう?
「オデッセイ」を歌った吟遊詩人はいまは絶滅したかもしれないけれど、テキストはあるのだから往時の語りを再現して収録したCDはあってもいいような気がする。

しかしネットで検索してみたところ、少なくとも日本国内では入手できないようだ。
地中海地方を捜し歩けば見つかるかもしれないが…。

本当にどんな音楽だったのだろう?
CD入手が難しいとなると、往時の語りを実際に聞いてみたいという欲望が余計に募る。

「オデッセイ」の詩篇は韻を踏んでいるとのことだが、それはどんな韻律だったのだろう?
いまの、しかも日本の私の耳にも快く響くのだろうか?

聞かせどころでの音量、声の強弱、リズムや緩急、あるいは竪琴の伴奏の入り方。
こんなのは実際に聞いてみないとわからない。

さらには吟遊詩人の身振りや手ぶり、表情などはCDでもわからない。
映像による再現も望みたい。

前回、吟遊詩人養成学校のようなものがあったのだろうか、というお話をしたけれど、「オデッセイ」の語りが技芸である以上、師匠につかなくては習得できない。

だとすれば、師匠によってその流儀は違うだろうから「平曲」と同じように「なになに流」という流派が吟遊詩人の間にもあったのではないだろうか?

「平曲」のCDはアマゾンで入手できる。
実は今それを聴きながらこれを書いている。

口演はほぼ最後の「平曲」継承者の故館山甲午師。
ゆっくりとした低い、重厚な語りに琵琶の伴奏が重なる。

正直、退屈である。
室町時代の人々は、これを楽しんだのだろうか?

「源氏物語」の朗読CDもアマゾンで入手できる。
こちらのほうは何種類もある。
しかしみな現代語訳で、原文のCDはない。

そのうちの一つ、瀬戸内寂聴訳・上原まりの朗読と琵琶のCDを「平曲」と一緒に買って聞いた。
「空蝉」と「夕顔」の帖である。

現代語訳だから「平曲」と違ってよくわかる。
しかし、琵琶の伴奏は音楽だけれども語りの部分は「平曲」や「オデッセイ」と違ってあくまでもテキストの朗読であり、音楽ではない。

やはり「源氏物語」は音楽でなく、文学なのだ。

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