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2018年6月 3日 (日)

土地と名前(その5)

中国山地の山あいに「ちず」という小さな町がある。
5月のある晴れた日にその地を訪れたことは少し前にお話しした。

山間の小さな静かな町を歩きながら、「ちず」という地名に思いをはせてみた。

「ちず」の名は「和名類聚抄」に登場するから、遅くとも奈良時代以前からあった。
いま、「ちず」には「智頭」という漢字が当てられているけれど、その名はおそらく漢字伝来以前からあった。

つまり、はるかな昔にだれかが何らかのわけを以って、この地と「ちず」という音声記号を結びつけたのだ。

むろんその「だれか」なんて分かるはずもないから、里人の集合的無意識がその名を成立させた、と前回は逃げを打った。

地名にはいちいち「意味」など必要ない。
単なる符牒、無意味な音声記号でも十分こと足りる。

しかし、智頭の里人がこの地と「ちず」という音声記号を結びつけるにあたってまったく恣意的だったということはあり得るだろうか?
これが私の素朴な疑問である。

ある時、「ちず」という音声記号があらわれ、それがこの地を指すものとして人々に受容され共有されることではじめて「ちず」という地名は成立する。
そのプロセスの中で「意味」が何らのはたらきもしなかった、なんてことが本当にあるのだろうか?

8年前の秋にも、地名と意味の関係についてシリーズで考えてみた。
けれど、私の力量ではなにひとつわからなかった。
今また同じことを考えている。
少しも進歩がない。

いずれにせよ、地名はこうして人を引きつける。
マルセル・プルーストは「土地の名」を発見したことで「失われた時を求めて」の執筆を始めた。
そう述べる批評家もいるくらいだ。

いま私が住んでいるこのあたりは須磨と明石にはさまれている。
須磨、明石は源氏物語にも登場するから古い地名である。

だから、地名の由来を語る俗説もいっぱいある。
たとえば、須磨は摂津国の西のすみっこだから「すま」という地名が付いたーなど。

こんなのは無論こじつけにすぎない。
しかし地名の成立に何らかの「意味のはたらき」を求めるなら、こじつけであれ何であれそれらしい理屈を考えざるを得ない。

その点、いま私が住んでいるこのあたりは高度成長期に宅地開発が進んだところだから、地名の詮索は簡単だ。
たとえば、「星陵台」、「松が丘」など。

いつ、だれがつくった地名なのかすぐわかる。
開発時に業者がつくったのだ。
もちろん「意味」をちゃんとくっつけて。

こうして地名についてあれこれ考えてみるのは、益はないけれど退屈しない。

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