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2017年12月24日 (日)

ことばへの向き合いかた

ジョン・ウィルキンスの分析言語やエスペラントをはじめ、古来人工言語の試みや提案はたくさんある。
世界中の人々が分かり合える理想の言語を作り上げようという熱意は衰えることがなかった。

しかし…。
注意深く調べてみると、その開発者は例外なく印欧語族に属する人々なのだ。

前回はその理由としてかれらの先祖がバベルの塔の無謀な挑戦によって世界の言語を混乱に陥れたというやましさがあったからではないか、といううがった見方をしたのだが。
もちろん本当のところはよくわからない。

それよりも今は、ひるがえってなぜ日本や東洋の人々は人工言語を作り上げようとしなかったのか、という問題に焦点を当ててみたい。

かねがね疑問に思いかつ繰り返しこのブログでも触れたことだけれど、どうも日本語話者は古代からことばという「もの」あるいは「こと」に対して関心が薄いように思う。
もっと言うならば、ことばに対して冷淡であるように思う。

ことばなんてあって当然、何をいまさら考えることがあるの?

ことばはいつ、だれが、どのように作ったのだろう?
この世界に相互に分かり合えない言語が多数存在するのはなぜだろう?

そんなこと考えるだけむだ。
そんなこと考えるひまがあれば、さっさと仕事しなさい!

日本語話者はこういう態度なのだ。

世界の数多くの神話と同様に、古事記や日本書紀も宇宙開闢のいきさつから説き起こしている。
まず、始源の混沌の中から三柱の神さまが「なる」。

そこに言語に関する言及はないけれども、人々は始源の神さまと同じくことばも「なる」と考えていたにちがいない。
神さまもことばも、自分たちがあれこれ悩まなくてもなりゆきに任せていれば自然に「なる」ものなのだ。

だからことばに関しては何も考えなくていい。
便利に使いこなすことができればそれでいい。

このあたり、印欧語族の人々のことばへの向き合い方と対照的だなあ、とつくづく感じてしまう。

旧約聖書にしろ新約聖書にしろ、言語には重要な役割が与えられている。
そこにはことばというものへの尊敬や畏敬の念さえうかがわれる。

洋の東西のこの違いは何に起因するのだろう?
やはり地理的環境なのだろうか?

ヨーロッパは地続きだから相異なる多様な言語と接する機会が多い。
そのたびに自分たちのことばとの違いに気づかされ、おのずから言語への関心が高まったのだろうか?
そのために、言語を客観的にとらえるすべを育んできたのだろうか?

ただ、日本語話者だって中国大陸や朝鮮半島の人びとのことばや北方諸民族の言語と接する機会は少なくなかったと思う。
印欧語族の人々との違いを、地理的環境だけに帰することは出来ないのではないか?

この点、どなたかご教示いただければありがたいのだが…。

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コメント

人工言語の試みが今までに幾つあったかはともかく、
グローバルレベルに拡がらないのは、結局その必要性
に乏しいからではないでしょうか。前にも申しました
ように、どの国の言語も通訳できますから、それでこ
と足りてしまうのでしょう。ある国の言語ではどうあ
ってもある概念が表せないなどということはないと思
われます。不足してもその国の言語で造語できるから
です。明治時代に漱石や鴎外や西周等が、英語、仏語、
独語の概念を新たな日本語に造語したように。
それに、人工言語が既存言語に比較した時、明確な優
位性(優秀性)があると証明できるとも思えません。
人工言語だからできた新発明、新技術、新思想と言え
るものがあるでしょうか?

投稿: 平戸皆空 | 2017年12月24日 (日) 22時20分

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