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2017年11月27日 (月)

語彙の作られかた(その5)

ことばは一体だれが作ったものだろう?

このところ、この素朴な疑問が頭から離れない。
神さまなのか、人間なのか?

どちらの説にも、うなづける点もあれば泣きどころもあってにわかに軍配を上げることができない。
このことはこれまでるる考えてきたとおりだ。

そもそも、ことばという玄妙なしろものを人間が作れるものだろうか?
という根源的な疑問はどうしてもぬぐい去ることができない。

むろん人間は言語を創造しようとした。
そしていまもその努力は続いている。

人工言語、と言えばだれでも思いつくのはザメンホフのエスペラントだ。
今のところ、いちばん成功した人工言語と言っていい。

ただエスペラントにしても、語彙にせよ、文法にせよ、文字にせよ印欧語系の自然言語をもとにして作られている、という点では完全な人工言語とは言えないかもしれない。

自然言語が存在しなければ成り立たないからだ。

人工言語の試みはエスペラントのほかにもたくさんある。

たとえば、「ジョン・ウィルキンスの分析言語」という短いエッセイの中にそんな例が紹介されている。
書いたのは、ブエノスアイレスの国立図書館長だったJ.L.ボルヘス。

ボルヘスの紹介によれば、この分析言語はまず宇宙を40のカテゴリーに分け、そのカテゴリーは「差」に、「差」はさらに「種」に細分化される。

つまり、まず宇宙を多層的に分類し、それぞれのカテゴリーやその下位項目である「差」や「種」に文字を当ててゆく方式をとるのだ。

たとえば、「de」は四大を、「deb」は四大の最初である火を、「deba」は火の一部をなす炎を意味する、というわけ。

うーむ、論理的だなあ。

だから「さけ=鮭」という自然言語は、それが意味する対象については何の情報ももたらしてくれないけれども、
ウィルキンスの分析言語なら、「nara=鮭」は赤みがかった肉を持つ有鱗淡水魚であることを教えてくれるのだ。

こんなにメリットのある人工言語だけれども、いまの世の中でウィルキンスの分析言語など使っている人はだれもいない。

人間はいまも非論理的で、矛盾だらけで、要するにわけのわからない自然言語を手放さない。
この事実はいったい何を意味しているのだろう?

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2017年11月20日 (月)

語彙の作られかた(その4)

ことばは一体だれが作ったものだろう?

この素朴な、その意味で根源的な問いかけは十年来続くこのブログでも、繰り返し取り上げられてきた。
もちろん、答えなどあろうはずがない。

少し前にも、神さまからのプレゼント説と人間による自力創造説を比較検討したことがあった。
どっちもどっち、という結論になった。

たとえば、一つの手がかりは旧約聖書の創世記にある。

何よりもはじめに神があった。
神は「光あれ!」と言った。
すると光があった。

なんと宇宙開闢のはるか以前から神はあり、少なくとも「光」、「ある」ということばがあったのだ。
そのことばは神が創造したものか否か、ということはもはや想像すら及ばない。

神はその光と闇とを分けられた。
光を昼と名付け、闇を夜と名付けられた。

ここで、早くも名づけの起源が語られ、ことばが世界を分節するはたらきが語られている。

天地創造六日目に神は人間アダムを作った。
そして、みずから創造した家畜や鳥獣をアダムのもとに連れてきて名をつけさせた。

「こいつはヒツジ、これはラクダ、この変なのはカメ…」
こうしてアダムは調子よく名を付け、世界を分節していった。

そしてなんと自分のあばら骨から作られた分身にも「おんな」という名を付けたのだ。

おおむねこんな風に、旧約聖書は世界の成り立ちと語彙の作られかたを語っている。

ならば、他の神話伝説ではどのように語られているのだろう?

と思って、古事記や日本書紀を調べてみたのだけれど、記述がまったくないのですね、これが。

宇宙開闢の様子は描かれているけれども、その時点でことばが存在していたのかどうか、存在していたとすればどのようなはたらきをしていたのか、何も説明がない。

総じて、古事記や日本書紀はことばに無関心、あるいは冷淡な態度をとっているような印象がある。

ことば? そんなのあって当然。何をあらためて考える必要があるの? 考えて何かの役に立つの?

つまり現代のわたしたちと同じように、ことばを空気のように無自覚に扱い、特段意識することもなく使っているようなところがある。

聖書との違いが際立っている。

旧約聖書にはこのほかに、バベルの塔のエピソードのように世界には互いに通じ合わないことばが多数存在する理由にも並々ならぬ関心を向けている。

新約聖書のヨハネ福音書だって、「はじめにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」と言っている。

また、「すべてのものはこれによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった」とも言っている。

さらに、「このことばに命があった。そしてこの命は人の光であった」と付け加えている。

洋の東西で、ことばに向き合う姿勢がどうしてこれほど大きく違っているのだろうか?

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2017年11月13日 (月)

語彙の作られかた(その3)

3音節劇場には座席が100万ある。

日本最大の国語辞典である「小学館日本国語大辞典」にはおよそ50万の語が収録されているという。
その中には固有名詞や複合語も多数含まれているはずだから、「いぬ」や「はしる」や「あつい」などの基礎語彙に絞るとこれよりもさらに少ない。

だから、日本語のすべての語彙は3音節でまかなえるはずだ。
それでも十分おつりがくる。

それなのに、「あたたかい」や「みっともない」などの多音節語がいくらもある。
なぜだろう?

というのが前回の素朴な疑問だった。

「あたたかい」を「あてい」に、「みっともない」を「みとい」に短縮すれば、発話エネルギーはずいぶん節約できるのに。

これは一例に過ぎない。
すべての日本語話者がすべての多音節語を3音節以内に短縮すれば、節約される総エネルギー量は膨大なものになるはずだ。
言語経済の原則もあるというのに、なぜそれをしないのだろう?

何か未知のメカニズムが、語彙成立の裏で働いている。
そんな気がしてならない。

それはさておき、冒頭で日本最大の辞書についてふれた。
しかし、実用的な国語辞典の収録語数は、大体7~8万語程度だ。

つまり、日常生活ではこれくらいの語彙数で十分間に合う、ということなのだ。

実際、わたしたちは日常どれくらいのことばを使って生活しているのだろう?
自分が毎日使っているものでありながら、ちょっと想像がつかない。

1日24時間、1年365日、80年生きるとして、寝言も含めその間のすべての発話を録音しコンピュータに勘定させればわかるのだろうか?

コーパスというのがあるそうだ。
話ことばや書きことばをしらみつぶしに集めて、集計し分析し言語の全体像を把握しようというものらしい。

国立国語研究所の「KOTONOHA計画」では、古今の日本語語彙約1億語の収録を目指すということらしいけれど、語彙って本当にこんなにたくさんあるの?

どういう計算で、こんな途方もない数字が出てきたのか不思議でたまらない。

ところで、人々が日常使用する語彙の数というのは、言語によって異なるのだろうか?
言語圏によって生活環境や文化が異なるのだから語彙は違って当然だけれど、その規模はどうだろう?

言語は違ってもみな同じ人間なのだから、語彙数の違いも一定の範囲に収まるのだろうか?
それとも相当な開きがあるのだろうか?
たとえば高度に文明が発達したところでは語彙数が多く、いわゆる未開地域では語彙数が貧しいとか?

言語はわたしたちの住む世界を分節する役割があるから、語彙数が多ければ多いほどきめ細かく分節することができる。
つまり、わたしたちから見れば世界の解像度が上がるのだ。

やはりわたしたちが日常使用する語彙はどれくらいなのか、わからないでは済まされないようだ。

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2017年11月 5日 (日)

語彙の作られかた(その2)

前回展開した論法をもう少し敷衍してみたい。

日本語の音節数は世界でも最少の部類だが、それでもざっと100ある。

だから、1音節劇場の座席数は100。
これではとても客、つまり語彙を収容しきれない。

そこで2音節劇場を作る。
今度は100×100の1万席になる。
それでもまだ足りない。

だから3音節劇場を作る。
これで100×100×100の百万席。

日本最大の辞書「小学館国語大辞典」でも収録語数は56万語。
これには、複数の基礎語彙が結合した複合語も含まれているはずだから、基礎語彙だけに限るともっと少ない。

つまり、3音節劇場はまだまだ空席だらけなのだ。

それなのに、4音節、5音節、6音節の語彙がいくらもある。
なぜだろう?
3音節劇場が空席だらけなのだから、いくらでも音節を節約できるはずなのに。

具体例に即して考えてみよう。
たとえば温感を表す形容詞がある。

夏は「あつい=暑い」。
冬は「さむい=寒い」。
でも、秋は{すずしい=涼しい」。
春は「あたたかい=暖かい」。

3音節劇場には「すずい」という席もあるけれど、空席になっている。
だから、「すずしい」は「すずい」でもいいはずだ。

「あたい」という席には残念ながら「値」という先客が座っている。
強引に同席するという手もないわけではないが、ふつうは他に空いている席を探すだろう。

さいわい前にも言ったように、3音節劇場は空席だらけなのだ。
たとえば、「あてい」という席も空いている。
「あたたかくなりましたねえ」というより「あてくなりましたねえ」というほうが短くてすむ。

しかし現実は「すずい」にも「あてい」にもならなかった。
わざわざ発話エネルギーの大きい多音節になっている。

どだい「あたたかい」なんて語は、破裂音が連続して大人でも発音しにくい。
でも、「あてい」にはならない。

どうやら語彙は1音節から2音節へ、2音節が満杯になったら3音節へと、順に増殖していったわけではないようだ。
そんな単純な進化説では説明できない。
どうやら語彙の成立と増殖には、わたしたちの知らない秘められたメカニズムが存在するらしい。

その未知のメカニズムを「神さま」と呼んでいいのかもしれないが…。

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