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2017年10月30日 (月)

語彙の作られかた

言語は神さまから人間への贈り物だろうか?
それとも人間みずからが、営々苦心と努力を重ねてきてやっと作り上げた創造物だろうか?

人類史のある時に、神さまが言語音、語彙、文法のワンセットを人間にプレゼントしてくれた。
つまり、瞬時に、完全な形で人びとは言語を手に入れた。
これが、神さまからの贈り物説だ。

この説は分かりやすいけれども、神さまの存在を想定しなければならないところに難がある。

では、人間創造説はどうだろう?
言語という玄妙なシステムを果たして人間が自力で創造できるのだろうか、という懐疑はいつまでも消えない。
しかし神さまの存在を否定するなら、これしかない。

そこで、とりあえず人間創造説を採用してみよう。

人間が創造した、ということになれば神さまの贈り物説のように、瞬時に、完全な形で、というわけにはいかない。
言語が誕生した当初から現在の姿に到達するまでには、やはり「進化」という考え方を導入しなければならないだろう。

生命は起源の頃の単細胞から、進化によって現在のわたしたち人間までたどり着いた。
言語も同様に、もっとも単純な形態から今日の高度に発達した複雑なシステムに進化した。

進化という概念を取り入れてそう考えるのが、自然というものだろう。
そこで、この考えを語彙の成立と増殖に当てはめてみる。

生物の社会、人間の社会で進化というなら単純なものから複雑なものへ、という方向になる。

だから、語彙も最初はもっとも身近なものへの名づけから始まる。
それも、単純な1音節の語彙から始まる。

身近なものといえば、まず身体部位をあらわす語彙が思い浮かぶ。
たしかに、「身=み」、「目=め」、「手=て」、「毛=け」、{歯=は」、「血=ち」など1音節語が多い。
そして、「足=あし」、「口=くち」、「鼻=はな」、「指=ゆび」「喉=のど」、「胸=むね}などたいていの身体語は2音節までで間に合う。

しかし、中には「頭=あたま」という3音節語もある。
「踝=くるぶし」という4音節語さえある。

ここで私は考え込んでしまう。
「くるぶし」はなぜ「くるぶ」ではないのか、と。

いま、日本語には「くるぶ」という語彙はない。
それならば、「くるぶし」の意味は「くるぶ」に担わせてもよいのではないか。
そのほうが発話エネルギーも確実に少なくてすむのに。

いま、50音図を映画館の座席に見立ててみる。
「め」の席には「目」という客、つまり語彙が占めている。
「て」の席には「手」という客が座っている。

しかし、見回してみると「ら」、「り」、「る」、「れ」、「ろ」の席がまだ空いている。
ならば、ここに「頭」という客を座らせればいいのではないか。

つまり、「あたま=頭」ではなく「ら=頭」とするのだ。
「あたまが痛いです」といよりも「らが痛いです」というほうが発話エネルギーがうんと少なくてすむ。

日本語(和語)ではら行音で始まる語彙はないというルールがあるようだが、そんな言語経済に反するルールがあるほうがおかしい。

日本語の音節数は特殊音節も含めてざっと100くらいだから、この映画館はすぐ満席になってしまう。
すると次は2音節の座席を持つ劇場を建てて客を収容することになる。

2音節の組み合わせは100×100の1万席だから収容能力は飛躍的に高まる。
それでも満席になれば、3音節劇場を新設すればいい。
この劇場は百万席もあるのだ。

この論法でいけば、すべての語彙は3音節でおさまるはずだ。

しかし現実は違う。
2音節劇場も3音節劇場も空席だらけのまま、4音節、5音節、6音節の語彙ができている。

この現実は、言語の進化説では説明がつかない。
やはり、言語は神さまからの賜物なのだろうか?

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2017年10月22日 (日)

言語音の盛衰

外国人学習者のための日本語初級教科書として定番になっている「みんなの日本語」には、はじめに50音図が載っている。

そこでは、ヤ行の「い」と「え」、ワ行の「い」、「う」、「え」がかっこ書きになっている。
ア行の母音「い」、「う」、「え」と同じ音だから、ということだろうか?

ワ行の「を」もア行の母音「お」と同じ音だけれど、字が異なるのでかっこには入っていない。

外国人学習者には必要のないことだけれど、ワ行の「い」、「え」は本来は「ゐ」、「ゑ」のはずだ。
いろは歌でも、「い」のほかに「ゐ」が、「え」のほかに「ゑ」が入っている。

戦後、現代かなづかいが普及して「ゐ」、「ゑ」はほとんど使われるとがないけれども、ワープロソフトにはちゃんと搭載されている。

また、戸籍法でも人名への使用が認められている。
たしかに、知り合いにも「しづゑ」さんというおばあさんがいた。

現代では同じ音だけれど、古くは「い」と「ゐ」、「え」と「ゑ」は異なった言語音だったのだろう。
だから、異なったかなとして今日まで伝わっているのだ。

上代特殊仮名遣いの説によれば、古代の日本語にはもっとたくさんの言語音があったようだ。
母音も現代の5種類でなく、8種類だったという。

言語に使用する音は、一種の資源だから多ければ多いほうが言語活動にとって都合がいいような気がするのだが、違うのだろうか?
しろうと考えでは、言語音の種類が多いほど言語の持つ分節機能や表現の多様性が向上すると思うのだが違うだろうか?

少し前に読んだ筒井康隆さんの「残像に口紅を」でも、だんだん言語音が失われることによって人々の言語活動が不自由になってゆく様子が描かれている。

しかし実際は、古代から現代にかけて日本語の言語音が減少しているのにさしたる混乱も起こらずここまでやってきたのだから、私の考えは間違っているのかもしれない。

たしかに言語の世界には、言語経済という原則もある。
言語音を減らしても特段の不都合が起こらないのなら、使用する資源やエネルギーは少ないほうがよい、それが資源節約につながるのだ。

たとえば「よい景色」というよりも「いい景色」といったほうが、発音のための筋肉の動きは少ない。
つまり発話エネルギーが節約できる。
だからみんな「よい」というよりも「いい」または「ええ」(関西の場合)という。

だれだって、ラクして言語活動をしたいのだ。

むろん言語音は減る一方ではない。
時代の変化に応じて新しく日本語の世界に導入された言語音もある。

たとえば、むかし日本語にはF音がなかった。
だから、明治生まれのおばあさんは「阪神タイガースのファンです」とは言えなかった。
「フアンです」と言った。

50音図は出来上がったものだから、固定的な印象がある。
しかし長い目で見れば、言語音は盛衰を繰り返している。

これからどんな音が衰退し、どんな音が勃興してくるだろうか?

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2017年10月15日 (日)

「あ」から「ん」へ

少し前に読んだ筒井康隆さんの「残像に口紅を」は、最初に「あ」の音が消える。
同時に「ぱ」の音も消えたように記憶している。

それでフランスの首都の名や朝の準主食の名が言えなくなったのだから。

惜しいことにこの本は図書館に返してしまったので、そのあとどのような順序で音が消えていったのか、いまでは思い出せない。

その順序には、筒井さんなりの意図があったと思うのだが…。

ただ、最後に消える音が「ん」だったことはおぼえている。
小説「残像に口紅を」は、最後に「ん」が消えることによって世界が消滅して終わる。

日本語は「あ」ではじまり「ん」で終わる、という観念は日本語話者の間で何となく共有されているように思う。
偶然かもしれないけれど、百人一首も「あ」から始まっている。

五十音図でもいちばん右上に「あ」が置かれ、いちばん左下に「ん」が付け足されている。
右上端から左下端へという流れが、日本語音の自然な順序というべきだろうか?

たしかに、「あ」と「ん」は対極にあるような気がする。

口を一番大きく開けて息を吐くと「あ」の音が出る。
口をつぐんだまま息を鼻から抜くと「ん」の音が出る。

奈良の東大寺は、南大門の両側から運慶作の金剛力士像に守られている。
本堂に向かって左側に「あ」の像があり、右側に「ん」の像がある(逆だったかな?)。

真言の世界では「あ」は宇宙のはじまりを、「ん」は宇宙の終末(そして再生のはじまり)をあらわしているのだそうだ。

「あ」と「ん」は対極をなし、セットを作っている。
だから、「あ」と「ん」をまとめて言うことによって、世界の一切の調和をあらわすことができる。
だから、「あうんの呼吸」と言ったりする。

長い間、日本語には「ん」をあらわす文字がなかった。
だから、古代に日本語には「ん」という言語音そのものがなかった、という説もある。

そのせいで、「あ」に比べて「ん」はなんとなくまま子扱いされているように思う。

「あ」は朝日の中でくっきりとその姿かたちがわかるのに対して、「ん」はたそがれの薄闇の中に身をひそめている。
よくわからないやつだ。

うわさでは、陰で濁音とも親密なつきあいをしているらしい。
たしかに漢字の読みでも、「段階」や「岸壁」など濁音と並んでいることが多い。

古代のことはいざ知らず、いまでは「ん」は日本語の中でなくてはならない言語音だ。
漢語の発音には欠かせないし、「読みて」が「読んで」になるような撥音便としても活躍している。

現代日本語の中で「ん」は涙ぐましいほどの働きをしているのに、正当に扱ってもらえない。
五十音図の中にも居場所がない。

「ん」は日本語話者を恨んでいるだろうか?
ただ、日本語話者のほうでも「ん」をどう扱っていいのか、困り果てているのだ。

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2017年10月 8日 (日)

名簿の作りかた

たとえば、カイロの小学校のクラスの生徒名簿はどのような順序で作られるのだろう?
そんな素朴な疑問がきっかけになって、言語音あるいは文字の順序、という問題にはまり込んでしまった。

どのような人間集団であれ、成員の名簿を作成するとなれば何らかの順序という概念を設定せざるを得ない。

必ずしも音または文字の順序でなくてもいい。

たとえば家族集団の場合なら、年齢順に並べるという手もあるだろう。
会社のように上下関係のある組織なら、社長からヒラまで地位順に並べることもある。
そのほか身長順に並べるという身体特性を基準にした方法もある。
学校の場合なら、成績順という露骨な方法もある。

ただ、これらの方法の場合、めざす人がどのあたりに並んでいるのか見当をつけるのがむずかしい。
特に集団が多人数になる場合はそうだ。

だから、実用上の利便を考えて、たいていその名を口にした時の言語音の順に並べてある。
日本語のかなのように、一つの音節がひとつの文字に対応するような言語圏では、それは文字の順でもある。

どのような言語集団であれ、便利な名簿を作成しようとするなら言語音の順に並べることが一般的だ、ということは分かった。

それでは、その言語音をどのような順序で並べるのか、というのが次の問題になる。

たとえば、カイロの小学校のクラス名簿を読み上げていくとする。
各人の名前の最初の音はどのような順序で並んでいるのだろう?

今や世界のどこの国にも小学校はある。
だから、どこにも生徒名簿はある。

それらの名簿を収集、比較、分析して順序の原理を明らかにしてくれた研究はあるのだろうか?
少なくとも私は見たことがない。

どの本も、五十音順にしろabc順にしろ順序があることを前提に話が始まっている。

人間社会に言語が成立した当初から言語音相互の間に順序が存在していたわけではあるまい。
社会生活上のさまざまな必要に迫られて、人為的に順序が持ち込まれたのだ。

日本語であれ、英語であれ、中国語であれその歴史的な成立過程が知りたい。

ここで文字との関係が問題になる。
現代の名簿はみな文字で作られている。

日本の名簿はあいうえお順で作られているし、イギリスの名簿はabc順に作られている。
日本の名簿は言語音、英語の名簿はアルファベットの順で作られている、という違いがあるだけだ。

言語の長い歴史から見れば、文字の出現などごく最近のことだ。
無文字時代の学校では、こどもたちはどのような順序で出欠をとられていたのだろう?

そもそも無文字社会では、順序の概念など不要だったのだろうか?
そうではないように思うのだが…。

日本も昔は無文字社会だった。
大陸から漢字が伝来しても、しばらくはかながなかった。
だから、名簿を作るにしても漢字の中に順序を持ち込まざるを得ない。

それはどのような順序だったのだろう?
いまの漢和辞典のように画数の少ない順に並んでいたのだろうか?

律令前期には式部省という役所があった。
だから、当然その職員名簿もあったに違いない。
それを記した木簡でも出土すれば上の疑問も氷解するのだが…。

たかが名簿ひとつのことでも、言語をめぐる素朴な疑問は尽きることがない。

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