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2017年9月17日 (日)

言語における順序

前回は言語における順序、ということを考えてみた。
つまり、音の順序あるいは文字の順序である。

言語の世界に「順序」という秩序がなければ、たぶん社会は成り立たない。
辞書や名簿が作れない。

日本語の場合、その順序はあいうえお順、あるいはイロハ順である。
これは言語音の順序であると同時に、文字の順序でもある。
かなを発明することによって、この順序が可能になった。

英語の場合は、abcという順序がある。
ただし、これは文字の順序ではあるけれども音の順序ではない。

ローマ字は表音文字と言われるけれども、文字単体は表音文字ではなく音素文字である。
物理学でいう分子ではなく、原子なのだ。

原子が複数結合して分子となりはじめて物質の特性を表すのと同じように、複数の文字が結合してはじめて音を表すことができる。

ローマ字にしろかなにしろ文字数が少ないから、だれでもその順序はおぼえることができる。
イロハは短歌にして覚え、あいうえおは図にして覚え、abcはモーツアルトのメロディにのせておぼえている。

ローマ字は音の順序ではなく文字の順序を表しているにすぎないけれども、とにかく順序があることによって辞書や名簿を作ることができる。

では、中国語はどうだろう?
漢字という文字には順序があるのだろうか?

漢和辞典のように画数の少ない順に並べていく?
可能かもしれないが、何万とある漢字の順序は覚えられまい。

前回もお話ししたように、現在の中国語辞典ではピンインの順序になっているようだ。
つまりローマ字の順序を借りている。

それでも、ピンインが導入される以前はどうしていたのか?
ピンインを知らない人はどうするのか?

という疑問は残る。

また、韓国語ではどうだろう?
ハングルの各パーツの間には、どんな順序があるのだろう。

パーツを組み合わせたハングル単体文字は、かなのように音節を表すことができるのか?
それともローマ字のように、音素文字に過ぎないのか?

ウィキペディアによれば、アラビア文字には伝統的な配列順があるという。
とすれば、その順序に従って辞書や名簿は作られるのだろう。

でも、その配列順を見ると漢字のように画数順というわけではなさそうだ。
必ずしも簡単な文字から複雑な文字へと並べてはいない。

なるほど多くの言語で、文字の順序、場合によっては日本語のように音の順序が存在することが分かった。
じゃあ、その順序はどうやって成立したかが次の問題になる。

つまりローマ字の場合なら、なぜacbでなくabcなのか、という問題である。
どのような経過をたどってaで始まりzで終わる順序が定まったのだろう?

なぜ、「あえいおう」でなく「あいうえお」なのか?
なぜ、ア行の次にサ行でなくカ行がくるのか?

という問題である。

このような素朴な疑問に答えてくれる本は読んだことがない。
話はみなこれらの順序が当たり前という前提で始まっている。

いろは歌は空海が作った、という伝説がある。
日本語の言語音を各1音ずつ使って、意味のある短歌を作るなどという芸当は空海のような天才にしかできない、という思いから生まれた伝説だ。

明治36年に万朝報が新しいいろは歌を募集したところ、鳥啼歌というのが1等に選ばれたとのことだ。
いろはと同じように重複なく1文字(1音)づつ使って短歌ができたのだ。
しかもイロハと違って「ん」まで使っている。

鳥啼歌は今はなぜかほとんど知られていないけれど、世の中にはすごい人がいるものだ。

現在なら、AIがもうひとつの「いろは歌」を創作できるかもしれない。
それはどんな順序になるのだろう?
今から楽しみだ。

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2017年9月10日 (日)

言語音の順序

考えてみると、人間はずいぶん多彩な前言語的音声を出すことができるものだなあ。
前回の記事を書いていて、われながらつくづく感心した次第だ。

わたしたちが日ごろ用いている言語音までは、この段階から紙一重、だろうか?
人間の言語は小鳥のさえずりから生まれた、という奇想天外な説をなす人もいる。

いつかもお話ししたように、日本語の言語音は世界でも最少の部類に属する。
音節数にして100ちょっとだ。

むろん日本語話者はこれ以外の言語音を出せないわけではない。
その証拠にちゃんと英語もしゃべれる。
英語には日本語では使わない言語音がたくさんあるのだ。

にもかかわらず、日本語話者は100ちょっとの言語音でやりくりしてきた。

よく言われることだけれど、言語音の種類が少ないことで日本語には同音異義語が多いというデメリットがある。
しかし、この点を除けば少ない言語音で豊かな言語表現ができるというのは、言語経済の理にかなったことだ。

筒井康隆さんの「残像に口紅を」も言語音が少ないという日本語の特徴があってはじめて可能になった小説だ。

日本語はその少ない言語音を五十音図という形で整理してきた。
かなという表音文字ができたことで五十音図が可能になった。

つくづくよく出来たマトリクスだと思う。
日本語の言語音の体系が一目瞭然だ.

五十音図のアイデアはインドや中国からもたらされたものらしいけれども、世界の諸言語でこれに類するものがあるのだろうか?
少なくとの英語の言語音を五十音図の方式では整理することはできない。

ところで、多数の語彙がある場合、これを一定の順序で配列しなければならない場合がある。
たとえば辞書を作る場合がこれにあたる。
何らかの順序がなければ、そもそも辞書を作ることができない。

それから多数の人間で構成される集団の名簿を作る場合もこれにあたる。

こんな時に五十音順が活躍する。
本当にありがたい。

五十音順のほかに、いろは順というのもある。
この順序による配列もむかしは結構使われていたようだ。

たわむれに五十音順の名簿をいろは順に組み替えてみるのもおもしろい。
新鮮な印象が感じられるかもしれない。

ラテン文字を採用している言語圏には、アルファベット順がある。
辞書も名簿もこの順で配列されている。

ただし、アルファベット順は文字の順序であり、音の順序ではない。
だから、綴りがわからないと辞書を引くことができない。

五十音順やいろは順は文字の順序であるとともに、音の順序でもある。

では、中国語の場合はどのような配列順になっているのだろう。
手元にある中日辞書はピンインの配列になっている。
つまり、アルファベット順になっている。

しかし、ピンインによる表記がわからない場合、あるいはピンインが導入される以前はどうしていたのだろう?
ちょっと気になる。

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2017年9月 3日 (日)

人間の音声

筒井康隆さんの「残像に口紅を」を読んで、あらためて言語音の意義に関心が向かった。

世の中にはさまざまな音が存在する。
風の音、小鳥の鳴き声、爆弾が炸裂するときの轟音、小川のせせらぎ…。

わたしたちは、それらの音をたとえば擬音語などで表現する。
「彼はバタンといきおいよくドアを閉めた」などと言う。

しかし、ドアがいきおいよく閉まるときに発生するあの音は本当に「バタン」なのか?
実際に聞いてみればわかることだけれど、日本語話者が発音する「バタン」とドアが閉まるときの物理音は明らかに同じではない。
近似音ではあるけれど。

本当は異なっているにもかかわらず、同じ音として処理する。
正確な認識を犠牲にして。

そんな巧妙なすり替えが、話し手と聞き手の間に成立している。
言ってみれば、暗黙の了解である。

自然音の再生という場合だけでなく、このような巧妙なすり替え、暗黙の了解と言える現象が言語コミュニケーションの世界には数多く潜んでいるように思う。
このことはずっと以前にもお話ししたような気がするけれど…。

世の中には実にさまざまな音が存在する。
しかし人間の発声器官が出せる音は限られている。
そのギャップがこのようなすり替え、暗黒の了解を生み出しているのだろうか?

机の上にボールペンを落とす。
そのときに発生する音をことばで表現してください。

そんな課題を教室で生徒たちに出したらおもしろい。
私が生徒なら「コトリ」と表現するかもしれない。
あなたなら?

日本の教室だけでなく、中国の教室ではどうだろう?
モロッコやバスク地方の教室ではどんなふうに表記されるだろう?
妄想はどんどん広がってゆく。

いずれにせよ、人間が正確に物理音を再生することは不可能だ。
そもそも人間はそんなことをしなくていい。

「コトリ」であれ「カチャン」であれ、その音を表現しようという人間の意志が尊い。
そして、思いもかけない擬音語が飛び出すかもしれない。
そこに人間の創造性がある。

宮沢賢治はその方面で創造力を発揮した天才だった。

限りはあるけれども、人間もさまざまな音を出すことができる。
たとえば咳やくしゃみ、いびき、寝息…。
これらは動物たちも出すことができる。

そして笑い声や泣き声。
これは動物には無理、人間であることを証明する音声だ。

不意に恐ろしいものに出会った時の「きゃー」という絶叫。
ひいきの選手がホームランを打った時に思わず飛び出す「わぁー」という歓声。
思案をする時に自然に口をついて出る「うーむ」というためいきのような音声…。

思えば人間もずいぶん多彩な前言語的音声を発することができる。
前言語的レベルだから、これらの音声はそれぞれの言語圏を超えて共通しているのだろうか?

つまり、私は真夜中のトイレで不意におばけと出会ったとすれば、「ギャー」という声を出すと思うけれど、たとえばフランス人が同じシチュエーションに直面した時、同じような声を上げるかどうか、という問題である。

このような問題を学術的に研究した仕事を私は寡聞にして知らないのだけれど、もしご存知の方がいらっしゃればぜひともご教示を賜りたいと思う。

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