« 2017年7月 | トップページ | 2017年9月 »

2017年8月13日 (日)

残像に口紅を(その2)

筒井康隆さんの小説「残像に口紅を」のような試みをほかの言語でもできるだろうか?

日本語の場合、原則としてひとつのかな文字がひとつの音節をあらわしているから、世界から「あ」が消えたなら、という設定を立てやすいし、わかりやすい。

しかし他の言語、たとえば英語の場合文字と音節の関係はそれほど単純ではない。

たとえば「Macdnald」は8文字の表記だけれど、2音節だ。

つまり、筒井流の方式でやろうとすれば、世界から「Mac」が消えたなら、あるいは「Dnald」が消えたなら、と言わなければならない。

それにこの種の音節なら、日本語よりもはるかに種類が多く、複雑だ。
小説としてはとても収拾がつかないと思う。

アルファベットは音節文字ではないが、世界からアルファベットが1文字ずつ消えたなら、という仮定にすればわかりやすい。

ただし、ローマ字のアルファベットは26文字しかないから、すぐに世界が消えてしまいかねない。
たとえば、世界から「a」が消えたなら、という仮定を置いただけで、たちどころに行き詰まってしまうかもしれない。

いずれにせよ、小説に仕立てるのは難しそうだ。

中国語ならどうだろう?

漢字はかな文字やアルファベットとは比べものにならないほど種類が多いから、多少文字が消えても、その文字があらわす意味や発音が消えても、その体系はびくともしないかもしれない。

筒井流でやるとすれば、世界の終わりまでたどり着くまでには大長編、大河小説になるに違いない。
その分、退屈になるおそれは十分にある。

このように、世界のさまざまな言語について、その文字や表記の特性、意味や発音の体系を筒井流小説になじむかどうか、という視点から分類してみるのもおもしろい。

幸か不幸か、日本語は世界の主要言語では珍しく音節文字を使っている。
しかも、その音節の種類は世界でも最少レベルだ。

つまり、「残像に口紅を」は日本語であればこそ辛くも成立し小説なのだ。

| | コメント (0)

2017年8月 6日 (日)

残像に口紅を

筒井康隆さんの「残像に口紅を」(1989年刊)は、日本語の言語音がひとつづつ世界から消えてゆく、という実験的な小説だ。

ふつう用いられる現代日本語の言語音は、50音図に載っている音に濁音、半濁音、拗音、撥音、促音などの特殊音を加えてざっと100あまり。

それがひとつづつ世界から消えてゆくとどうなるのか?

小説では、最初に「あ」と「ぱ」が消える。
すると、「あ」や「ぱ」の音を含んだ語彙が使えなくなる。

たとえば、花の都とうたわれたフランスの首都が言えなくなる。
また、洋風の朝食につきものの小麦粉を原料とする半主食の名前が言えなくなる。

主人公の奥さんは夫に呼びかけるとき「あなた」と言えないので、「もしもし」という電話のような言い方になる。
滑稽でもの悲しい。

語彙が使えなくなるだけではない。
そのことばが指し示していた存在そのものが消えてなくなる。

かつて街角には、小麦粉を原料とする半主食を販売する専門店がいくつもあった。
しかし今はその看板から名前が消えただけでなく、陳列ケースも空っぽになっている。
わずかにクロワッサンがさびしく残っているだけ…。

また、主人公の妻は名前に「く」が含まれていた。
したがって「く」の音が消えた時、妻も消えてしまった。

こうして、音とその音を含む語彙で指示される存在がひとつづつ消えてゆく。
読んでいて、この先この小説どうなってしまうのだろう、と思ってしまう。

文庫本で300ページあまりの長編だけれど、真ん中あたりで20ほどの音が失われている。
つまり日本語の言語音のうち、5分の1ほどが使えなくなっている。

後半になって、主人公の自叙伝めいた部分が登場するけれど、すでに「ち」が消えているので「父」という語が使えない。
だから、「男親」と言い替える。

しかし、そのうち「や」も消えてしまう。
すると今度は、「おれを生んだ男」と言い替える。

こんな具合なのだ。

苦肉の策とも言うべきこんな言い替えがわりと効いていて、中盤あたりまでは5分の1もの音が消失していることにあまり気が付かない。

日本語は80音くらいでもけっこう表現できるものだな、と再認識した次第だ。

しかし…。

終盤が近い第3部は50音が失われたところから始まる。
すでに、半分の音が消えてしまった。

さすがにここまでくると、言い替えも限界だ。
表現もわけがわからなくなってくる。
逆に言えば、筒井康隆らしくなってきたと言えるかもしれない。

この調子で進んで、さて最後に消える音は何だろう?
これはみなさんの楽しみのために、あえて言わないでおこう。

ともあれ、この音が消えるとともに世界が消え小説も終わる。

現実にはあり得ない思考実験小説だけれど、ことばと存在の関係、言語音の数と表現可能性の関係についてあれこれ考えさせられた。

| | コメント (0)

« 2017年7月 | トップページ | 2017年9月 »