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2017年7月31日 (月)

「ん」の氾濫

11年前の「特殊音の活躍」という記事には、次のような文例が提出されていた。

「わからない」が「わかんない」に。
「お金、くれない?」が「お金、くんない?」に。
「お風呂、まだ沸かないの?」が「お風呂、まだ沸かんの?」に。

ローマ字表記をすればわかるけれど、「ん」に音変化することで1文字ないし2文字が省略される。
その分、発話に要するエネルギーが節約されるのだ。

これらの短縮表現は比較的くだけた場面で使われることが多い。
事情が許すかぎり少しでも発話に要するエネルギーを節約したい、という人間の欲求がいかに強いかを示す例だと思う。

だから、11年前は「特殊音の活躍」に続いて「発話エネルギー節約術」のシリーズに進んでいったのだ。

前回もお話ししたように、古代の日本語には「ん」は存在しなかった。
漢字の読みのために新たに開発された音だった。
たとえば「氾濫=はんらん」という漢語を発音するために「ん」が必要だった。

だから、百人一首には「ん」は登場しない。(「む」を「ん」と発音する場合は別)

しかしその後、「ん」の発話エネルギー節約効果が日本語話者の間で認識されるに及んで、漢字の読みにとどまらず広く日本語表現の中に取り入れられるようになった。

この間の事情は、「では」が「じゃ」に変化するように拗音の分野でも同様だ。

「ん」や拗音は、はじめ漢字の読みのために開発され、そのために特殊音と位置づけられるようになったのだけれど、今やすっかり普遍的な音として日本語の世界に定着してしまった。

いや、定着どころか人々の発話エネルギー節約への欲望のために、いまや氾濫していると言っていい。

わずかに「ん」の氾濫を押しとどめているのは書きことばの世界くらいだろうか?
書きことばの場合は発話エネルギーが問題にならないから、「わかんない」や「くんない?」や「沸かん」という表現は基本的には用いられない。

しかし、今後話しことばの影響が書きことばに及ぶことは十分考えられる。
ケータイやスマホの世界では早くもその兆候があらわれている。

今でこそ、書きことばが孤軍奮闘して「ん」の氾濫を押しとどめているけれど安閑とはしていられない。
いつ堤防が決壊して、「ん」の氾濫が書きことばの世界に及んでくるかわからない。

「ん」の誕生、進出、氾濫ひとつをとっても、万葉や平安の世に比べ日本語の世界の風景はすっかり変わってしまった。
このあと千年、日本語はどう変わっていくのだろう?
ふとそんなことを考えてしまう。

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2017年7月23日 (日)

「ん」の進出

喫茶店「ん」は何軒もあるけれど、日本語では「ん」は語頭に立たない。

だから、何らかの音節に後続する形をとる。

試みに、あ行音にくっつけてみよう。

「あ」に「ん」をくっつけて「あん」。
案内や公安など。

「い」に「ん」をくっつけて「いん」。
印象や病院など。

「う」に「ん」をくっつけて「うん」。
蘊蓄や幸運など。

「え」に「ん」をくっつけて「えん」。
円熟や公園など。

「お」に「ん」をくっつけて「おん」。
音楽や低温など。

つづいて、か行音にくっつけてみよう。

「か」に「ん」をくっつけて「かん」。
漢字や交換など。

「き」に「ん」をくっつけて「きん」。
近海や通勤など。

「く」に「ん」をくっつけて「くん」。
君主や教訓など。

「け」に「ん」をくっつけて「けん」。
健康や債券など。

「こ」に「ん」をくっつけてこ「こん」。
混乱や貧困など。

以下同じである。

これらの音を聞いて思い浮かべるのは漢語ばかりである。
「あん」や「かん」と聞いても、和語が浮かばない。

もともと「ん」は古来の日本語にはなく、漢字を読みこなすために開発された言語音だから当然と言えば当然だけれど。

このように漢字と連動して生まれた「ん」だけれど、発音の便宜のために重宝されて漢語以外の分野にも進出するようになった。

たとえば、「読みて」が「読んで」、「踏みつける」が「踏んづける」になるような撥音便。
それから音便ではないが、「ありませぬ」が「ありません」になるような音変化。
さらに最近の若い人は「なになの?」を「なんなん?」と言うようになった。

母音が脱落してもコミュニケーション上支障がないなら流れがそちらに向かうのもやむをえぬ(やむをえん?)。

これを書いていて、ずいぶん前に同じような記事を書いたことを思い出した。
調べてみると、「特殊音の活躍」というタイトルで2006年1月28日と2月4日の2回、このブログにアップしていた。
なつかしいなあ。

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2017年7月16日 (日)

最後の音

日本語の50音図の中でもっとも重要な文字あるいは音は何だろう?
少し前そんなナンセンスな問いを発したことがある。

その時、私はたわむれの答えとして「な」をあげた。
「な」は人間存在に直結した音だから、という理由でそう答えた。

いやいや、そうじゃない。
やはり50音図劈頭にあらわれる「あ」こそ最重要だ、という意見を述べる人もあった。
なるほどこれも傾聴すべき意見ではある。

では、50音図の最後につけたしのように置かれている「ん」はどうだろう?

「ん」は日本語の言語音の中で特殊な位置を占めているので扱いがむずかしい。

50音図の最後に置かれてはいるけれど、本当は50音図のマトリクスからは超然としている。
置く場所がないので、しかたなく最後に付け足した、というのが真相だと思う。
その証拠に、いろは歌には「ん」はあらわれない。

モーラ的には一つの単位だけれど、音節としては「ん」単独では成り立たない。
音声学的にも「ん」はさまざまなバリエーションがあるそうだ。

どうも一筋縄ではいきそうもない。
なんとなくうさんくさい。

そもそも「ん」をなぜ撥音というのだろう?
どこが撥ねるのだ?

という疑問があって調べてみると、「ん」や「ン」の文字が撥ねた形をしているからだそうだ。
促音などと違って、発音の特性とは何の関係もない。
何だかばかにされたような気分だ。

先にもお話ししたように、「ん」は日本語の音韻システムの中で特殊な位置を占めている。
開音節言語である日本語の中では特異な存在である。

そして、ちょっぴりとぼけたところがある。
そのために、ばかにされたような気分になることがある。

日本語では、「ん」は語頭に立たない。
しかし、ネットで調べてみると「ん」という名前の喫茶店がある。
しかも、チェーンなのか何軒もある。

お店に電話をすると、「はい、んでございます!」という返事が返ってくるのだろうか?
なんとなくとぼけた情景を想像してしまう。

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2017年7月 9日 (日)

1音節語の関西方言(その3)

「1音節語の関西方言」というタイトルでこのブログにはじめて投稿したのは、2005年8月14日のことだった。
ご興味のある方は、バックナンバーを検索いただきたい。

あれからもう12年!

日本語の広大な世界をめぐりめぐって、結局もとの場所に戻ってきた。
いささかの感慨もなくはない。

あのときも、関西方言における声調類似の現象について同じようなことをお話しした。
12年もかかって、われながらあまり進歩がない。

ただ、あのときは気づかなかったこともあるので、ここで補足しておきたい。

前回、関西方言における声調類似の現象には、上昇調と下降調があることをお話しした。

たとえば、「歯」や「毛」は「はあ」、「けえ」と伸ばして発音し、高低の下降調になる。
逆に「目」や「木」は、「めえ」や「きい」と伸ばして発音し、低高の上昇調になる。

しかしこのほかに、音の高さの変化がない平行調もある。
たとえば、「血」は「ちい」と伸ばすけれども、高低の変化のない平行調になる。

それから、しばらく前に話題になった「名」はどうだろう?

これは関西方言でも、そもそも「なあ」と伸ばさないのではないだろうか?
「名」は関西方言でも「な」であると思う。

関西方言母語話者のみなさん、どうだろう?
かりに「なあ」伸ばしたとしても、平行調になるのではないか?

1音節語でも伸ばす場合と伸ばさない場合。
そして、伸ばす場合でも上昇調、下降調、平行調の3種類のパターンが認められる…。

これが、1音節語の関西方言にみられる声調類似の現象のあらましだ。

このような特徴的な現象がどのような歴史的経過を経て成立したのか、とても気になる。
前回は最後のところで中国大陸との地理的近さを指摘して中国語の影響をほのめかしたのだが、本当のところはわからない。
どなたかご教示いただけないだろうか?

ところで、数行上で「気になる」という表現を用いた。
この「気」も、日本語で非常によく用いられる1音節語だ。

「気」も関西方言のルールに従っている。

「気つけや あんたのことやで そのカバン」
という標語を、関西の人に発音してもらうと「きい」と伸ばす。
声調的には、「ちい」と同じく平行調である。

「気」は同じ1音節語でも、「歯」や「目」や「血」と違って字音語である。
つまり、中国から渡ってきたことばである。

それでも、関西方言の中に入ったときはそのルールに従わざるを得ない。
方言ルールの強力さをあらためて感じる。

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2017年7月 2日 (日)

1音節語の関西方言(その2)

日本語の五十音図の中で、もっとも重要な音または文字は「な」である。

前回はそんなへんな宣言をした。
その理由として、意味上、音声上の事実をいくつか挙げたけれども、われながらこじつけめいているような気もする。
だから、この宣言にはそれほどこだわらない。

人によっては、図の劈頭に位置する「あ」がもっとも重要である、とお考えかもしれない。
そもそも宣言自体ナンセンスだから、奇説、珍説がいろいろあっていい。
そのほうがおもしろい。

ただ、前回もお話ししたように、「な=名」だけでなく「ち=血}、「て=手」、「め=目」、「た=田」、「き=木」など、1音節の日本語は人間存在にきわめて密着した重要かつ基礎的な語が多い、という事実にはみなさん納得していただけることと思う。

世界の諸語でも人を指すことばつまり人称代名詞はたいてい1音節語である。
1音節語は人間存在に直結している、というのは人類共通の事実だと思う。

系統発生的な視点から考えても、自然の成り行きとして人類の言語は1音節語から始まった、と言ってそれほど見当はずれではあるまい。

ただ、それほど重要な役割を果たしている1音節語だけれども、音声言語の中ではその位置が不安定である、という難点がある。

つまり、短かすぎて寸足らずの印象があるのだ。
尻切れトンボのように、ことばの流れの中でおさまりが悪いのだ。 

「な」とほとんど同じ意味の3音節語「なまえ」がよく使われるのも、この難点を克服するための知恵なのかもしれない。

私の地元、関西の方言では音を伸ばすという方法でこの難点を克服しようとしている。

つまり、「め=目」が「めえ」になり、「て=手」が「てえ」になり「は=歯」が「はあ」になる、というやり方である。

この現象を1モーラが伸びて2モーラ化すると考えるか、語尾に母音が付加されて2音節化すると考えるか、解釈の分かれるところだけれども、いずれにせよ関西方言の大きな特徴である。

そして、さらに興味深いことは、このように音が伸びるとき「目=めえ」が低高の上昇調になるのに対して、「歯=はあ」は高低の下降調になることだ。

もし「はあ」が「目」と同じように上昇調になれば、「はあ?」と聞き返す際の間投詞になってしまう。
つまり意味が異なることになり、中国語における声調と同じ効果を果たしていることになる。

関西は関東に比べて中国に近い分、声調言語の特徴が浸透したのだろうか?

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