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2017年5月14日 (日)

和語と漢語(その7)

前回は、結果的にAKB48の歌を槍玉にあげてしまった格好になった。
気の毒なことをしてしまった。

よくよく観察してみると、AKBだけに問題があるわけじゃない。
AKBに限らず、最近の歌は概して漢語含有率が高いように思う。

前回は、比較を際立たせるために漢語含有率0%の「夏は来ぬ」を持ち出した。
しかし、この手法には問題があるのではないかと感じる人がいるかもしれない。

「夏は来ぬ」は季節の情景や情感を、花や鳥などの自然物に託して描写しているので、和語だけでもその目的は十分達成できる。
しかし、人の心のありようや抽象概念など目に見えないもの、手で触れることのできないものを表現しようとすると、どうしても漢語の力を借りなければならないのではないか、と。

このように反論する人は、その例証として島崎藤村の「椰子の実」(発表 明治33年)をあげるかもしれない。

この歌には次のような一節がある。

実をとりて 胸にあつれば
新なり 流離の憂
海の日の沈むを見れば
たぎり落つ 異郷の涙

「椰子の実」も歌詞全体を見れば、その漢語含有率は0%に近い。
しかし、「夏は来ぬ」と違って2語だけ漢語が含まれている。
そして、漢語特有の拗音も含まれている。

あなたは前回、漢語特有の拗音や長音の存在が聞く者に違和感を抱かせる、と言ったけれどもこの歌における漢語にもそんな違和感を感じますか?

うーむ、そう言われるとあまり違和感は感じないなあ。
「流離」や「異郷」という漢語が、歌詞全体から、歌全体から浮き上がっている、という感じはしない。

藤村も佐佐木信綱と同じく明治の人だから、日本語話者の情感を歌い上げるには漢語はあまりそぐわない、と感じていたと思う。

しかし、「椰子の実」のこの一節では適切な和語が見当たらない、むしろ漢語のほうが効果を高めるだろう。
そこまで計算していたのかもしれない。

日本の歌であっても、人の心のありようや抽象概念などを歌い上げるためには、やはり漢語の助けを借りなければならない。
決して、AKBが悪いわけじゃない。

悪いのは、人の心情や抽象概念を表現できない和語のほうだ…。

おやおや、今度は和語そのものに矛先が向かってきたようだ。

たしかに、新聞の記事や論説は漢語がなければ書くことすらできない。
抽象概念や高度な思考を表現するには、和語は力不足だ。

つまり、和語は幼稚な言語である…。
成り行きとしてこのような結論に至るような気もする。

本居宣長先生ならどう考えるだろう?
かれの反論を聞いてみたい。

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