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2017年5月28日 (日)

糸とことば(その2)

前回は、「君の名は。」を語って多くの糸へんのことばが登場した。

糸はもちろんのこと、絆、結び、紐、紡ぐ、織る、そして繋がり…。

映画の中で、三葉と瀧くんは時空を超えて結び、繋がり、ほどけてはまたつながる。
時間もまた同じように、結んだり、繋がったり、ほどけたり、ねじれたりするもの、というのが瀧くんと入れ替わった三葉に背負われて語るおばあさんの時間論だ。

事実、三葉と瀧くんはずれた時間のまま入れ替わっている。
はじめはこのことがよく呑み込めなくて、めまいがした。

糸は何かと何か、だれかとだれかを結びつけるもの。
でも、それだけじゃない。

糸は織りあわせることによって布になり、衣服になる。
お母さんは毛糸を編んで暖かいセーターを作る。

織るや編むという行為も、糸からはじまるのだ。

編むものはセーターだけじゃない。
辞書や文学全集も編むという動詞を使う。
そういえば、本屋大賞を受けた三浦しをんさんの「舟を編む」という小説も辞書づくりの話だった。

英語ではまとまった文章を指して「text」という。
原義は「織られたもの」。
さまざまはことばを織りあわせて、テキストは出来上がる。

「texture」や「textile」と源は同じだ。

日本語でも、文のことを「あや」と読んだりする。
「あや」は綾である。
綾も糸へんでできている。

考えてみれば、糸もことばも人と人を結びつけるものという点では同じだ。
その感覚は、日本語話者でも英語話者でも変わらない。
糸とことばに共通性を認めるのは、人類にとって普遍的な感覚かもしれない。

名前は、水面に頭を出した杭のようなものだ。

その杭に糸を結びつけ、もう一つの杭にまた結びつける。
こうして、はじめて絆が成立する。
名前がなければ、絆は生まれない。

「君の名は…」という切実な呼び声は、糸を結びつける杭を、よりどころを探し求めているのだ。

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2017年5月21日 (日)

糸とことば

去年評判になった日本映画がふたつあった。
ふたつとも観た。

しかし、「シン・ゴジラ」はつまらなかった。
従前の怪獣映画とどこが違うのかよくわからなかった。
年のせいで感受性が鈍ってきたのかもしれない。

そこへゆくと、「君の名は。」はよかった。
よかったからはまった。
なんと4回も観てしまった。

映画館に4回も足を運ばせる魅力がこの映画にはあった。
私は映画評論家ではないから、その魅力の中身をうまく語ることができない。

ただひとつ、「糸」のことだけをお話ししたい。

この映画は、時空を超えて絆を求めあう切ない魂の物語である。
スマホの着信音がむなしく鳴り続ける冒頭のシーンはそのことを象徴している。

「絆」という字に「糸」が含まれているように、名前と名前を糸で結ぶことによってはじめて絆が生まれる。
だから、三葉と瀧くんはあんなにも名前を求めあうのだ。

「糸で結ぶ」?

そういえば、「結ぶ」という字の中にも糸が存在している。
何かと何かを結ぶために糸はある。

「結び」は「産土・産霊=むすび」でもある。
土地の産土神が共同体の人々を結びつけるのだ。
三葉と四葉のおばあさんがそう言っていた。

三葉と四葉のおばあさんは孫たちに組み紐を教えている。
紐もまた、映画の中では重要な役割を演じている。

「紐」という字の中にも糸が存在している。
紐は糸の発展形だろう。

そもそも三葉たちの生まれ育った町は、岐阜県糸守町という架空の町だった。
糸を原点として、この物語は紡がれている。

「紡ぐ」?

そう、紡ぐという文字の中にも糸が存在している。
人が綿や繭を紡ぐことによって、はじめて糸が生まれる。

そう思えば、物語そのものが糸なのかもしれない。

この映画では、ふすまが閉じられるとき、電車の扉が閉まるときの情景が何度も登場する。
不思議なことに、それが特徴的なローアングルで描かれている。
謎めいていてとても印象的だった。

閉まる、あるいは閉めるということは何かと何かを隔てる、つながりを断ち切るということだ。
つまり絆のアンチテーゼである。

このアンチテーゼを登場させることによって、製作者は「絆」というテーマを一層きわだたせようとしたのだろうか?

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2017年5月14日 (日)

和語と漢語(その7)

前回は、結果的にAKB48の歌を槍玉にあげてしまった格好になった。
気の毒なことをしてしまった。

よくよく観察してみると、AKBだけに問題があるわけじゃない。
AKBに限らず、最近の歌は概して漢語含有率が高いように思う。

前回は、比較を際立たせるために漢語含有率0%の「夏は来ぬ」を持ち出した。
しかし、この手法には問題があるのではないかと感じる人がいるかもしれない。

「夏は来ぬ」は季節の情景や情感を、花や鳥などの自然物に託して描写しているので、和語だけでもその目的は十分達成できる。
しかし、人の心のありようや抽象概念など目に見えないもの、手で触れることのできないものを表現しようとすると、どうしても漢語の力を借りなければならないのではないか、と。

このように反論する人は、その例証として島崎藤村の「椰子の実」(発表 明治33年)をあげるかもしれない。

この歌には次のような一節がある。

実をとりて 胸にあつれば
新なり 流離の憂
海の日の沈むを見れば
たぎり落つ 異郷の涙

「椰子の実」も歌詞全体を見れば、その漢語含有率は0%に近い。
しかし、「夏は来ぬ」と違って2語だけ漢語が含まれている。
そして、漢語特有の拗音も含まれている。

あなたは前回、漢語特有の拗音や長音の存在が聞く者に違和感を抱かせる、と言ったけれどもこの歌における漢語にもそんな違和感を感じますか?

うーむ、そう言われるとあまり違和感は感じないなあ。
「流離」や「異郷」という漢語が、歌詞全体から、歌全体から浮き上がっている、という感じはしない。

藤村も佐佐木信綱と同じく明治の人だから、日本語話者の情感を歌い上げるには漢語はあまりそぐわない、と感じていたと思う。

しかし、「椰子の実」のこの一節では適切な和語が見当たらない、むしろ漢語のほうが効果を高めるだろう。
そこまで計算していたのかもしれない。

日本の歌であっても、人の心のありようや抽象概念などを歌い上げるためには、やはり漢語の助けを借りなければならない。
決して、AKBが悪いわけじゃない。

悪いのは、人の心情や抽象概念を表現できない和語のほうだ…。

おやおや、今度は和語そのものに矛先が向かってきたようだ。

たしかに、新聞の記事や論説は漢語がなければ書くことすらできない。
抽象概念や高度な思考を表現するには、和語は力不足だ。

つまり、和語は幼稚な言語である…。
成り行きとしてこのような結論に至るような気もする。

本居宣長先生ならどう考えるだろう?
かれの反論を聞いてみたい。

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2017年5月 7日 (日)

和語と漢語(その6)

年のせいか、AKB48の歌についていけない。

聞いていて、違和感をおぼえる。
そして内省してみると、その違和感は歌詞からきているようだ。

人生、真実、正面、感情、突然…。
そんな生硬な漢語があふれている。

どうもリズムやアクションとマッチしていないような気がする。
現代の、特に若い人たちの思いを表現するには、和語だけでは追いつかないのだろうか?

当然かもしれないけれど、私には昔の歌のほうが心になじむ。
たとえば…。

なんでもいいけれど、いまの季節にふさわしい歌として「夏は来ぬ」を取り上げてみたい。

作詞は佐佐木信綱。
発表は明治29年。

卯の花の 匂う垣根に
ほととぎす 早も来鳴きて
しのびね洩らす 夏は来ぬ

さみだれの そそぐ山田に
早乙女が 裳裾ぬらして
玉苗植うる 夏は来ぬ

橘の 薫るのきばの
窓近く ほたる飛びかい
おこたり諌むる 夏は来ぬ

おうち散る 川べの宿の
かど遠く くいな声して
夕月すずしき 夏は来ぬ

五月闇 ほたる飛びかい
くいな鳴き 卯の花咲きて
早苗植えわたす 夏は来ぬ

歌詞全体を引用したけれど、漢語含有率は0%である。
他の文部省唱歌の類も漢語含有率はきわめて低い。

佐佐木信綱は明治の人だから、漢文の素養はいまのわたしたちよりはるかに深かったに違いない。
その彼にして、「夏は来ぬ」の漢語含有率は0%なのだ。

きっと私と同じように、日本の歌には漢語はなじまないと感じていたのだろう。

なじまない理由は何か?

AKBの歌に登場する「人生」、「真実」、「正面」、「感情」、「突然」などを発音してみるとわかるように、長音、拗音、撥音など和語にはない特殊音が多く含まれている。

この音声要素が違和感の正体だと思う。

ずいぶん昔にお話ししたと思うけれど、歌は言語表現の原初的形態だ。
言語が誕生して間もないころ、わたしたちは歌うように話していた。

だから、今もなお日本の歌には漢語伝来以前の和語がなじむのだろう。

とはいえ、AKBが多くの若い人たちに受け入れられているところを見ると、かれらは私のような違和感は感じていないようだ。

やはり、言語感覚にもジェネレーションギャップがあるのだろう。
それはいたし方ないとして、問題はこれから先、日本語話者の言語感覚はどこへ行くのか、ということだ。

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