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2017年4月30日 (日)

季節とことば(その2)

前回、「たけなわ」という和語が登場した。

前回と同じフレーズだけれども、物事にははじめがあり、盛りがあり、終わりがある。
「宴たけなわではございますが、このへんで中締めを…」と幹事さんが言う。

辞書には「たけなわ」の意味として、物事の盛り、あるいはそれを少し過ぎたあたりを言う、と出ている。

幹事さんの発言は、それをさらに過ぎて終わり近くを意味している。
発言者、発言のタイミングによって、「たけなわ」の意味は微妙に揺れ動く。

「たける」という動詞は、今はあまり使わない。
若い人に向かって「夏もたけてきた」といっても、通じないと思う。

しかしわたしたちの年代にはわかる。
8月の終わり地蔵盆のころになると、「ことしの夏もたけてきたなあ」としみじみ思う。

「たける」はあえて漢字表記をすれば「闌ける」と書く。
ふだん使うことのない文字である。
ワープロで候補を呼び出すにも手間がかかる。

しかし、「らんじゅくー爛熟」のへんのない字だから意味は分かる。

「たける」という動詞は「たけなわ」と同じ根を持っている。
「たけなわ」は夏には使えないけれど、「たける」は夏に使う。

逆に、秋がたける、とは言わない。
前回お話した通り、秋が深まる、と言う。

「たける」は春に使えるだろうか?

「春が深まる」とは言えない代わりに、「春がたける」という人はいるかもしれない。
春という季節の爛熟ぶりを指して、「春がたける」と表現するのはできない相談ではないと思う。

しかし、「春がたける」という表現よりも「春がゆく」という言い方のほうが,さらに発言者の気分が出ている。
   
ゆく春や 鳥啼き 魚の目は泪
という有名な句もある。

私は長い間、この「ゆく」は「逝く」だと思っていた。
しかし、ネットでの表記などを見るとみな「行く」になっている。

日本語話者にとって、ひとが「ゆく」のは、「行く」でも「逝く」でもあまり違いはないのかもしれない。

ひとが私の目の前から去って、どこかへ「ゆく」。
その行き先がハワイであれ天国であれ、私の前から姿を消す寂しさはいかんともしがたい。

その哀惜とともに、わたしたちは「ゆく」という動詞を口にする。
「ゆく」のが人であれ、季節であれ、その寂しさは変わらない。

今年の春もやがてたけなわを過ぎ、どこかへ「ゆく」。
その哀惜の思いは年とともに募る。
 

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