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2017年3月 5日 (日)

金色と銀色(その2)

金色と銀色には、マンセル値がない。
したがって、色ではない。
物体表面の光学的状態をあらわしているにすぎない…。

色彩学の見地からはそんなふうに片づけることができるかもしれない。

それでも、金色と銀色はわたしたちを魅了する。
金と銀をめぐって、悲喜こもごもの物語が歴史上繰り返されてきたことをわたしたちは知っている。

金と銀は貨幣の姿をとってわたしたちを誘惑する。
装身具や装飾品として、ステイタスを誇示する小道具として用いられる。

ただし、金ぴかや成り金ということばもある。
やりすぎると品を落とす。
その意味であやうい位置にあるということもできる。
その点、黒のほうが高貴さを演出する色としてはうわ手かもしれない。

それはさておき金と銀が人を魅了するのは、とにもかくにも「輝き」を放っているからだ。
「輝き」がなければ、金も銀もただの黄色や灰色と変わらない。

前回もお話ししたことだけれど、「輝き」という現象はわたしたちの「まぶしい」という感覚とセットになっている。
「まぶしさ」を感じなければ、「輝き」という現象も成立しない。

「まぶしい」という形容詞は「まばゆい」ともいう。

この場合の「ま」は、「目」の意味だろう。
目に過剰な光が映えて(はゆる)、まぶしいのだ。

あまりにまぶしいと、わたしたちは目を閉じたり顔をそむけたりしなくてはならない。
その意味で輝きには、攻撃的な性格がある。

まぶしさをもたらす光源は金や銀である。
お日さまである。
あるいは若さであったり美しさであったりする。

その圧倒的な、攻撃的な輝きをわたしたちは直視していられない。
つい頭を下げ、恐縮する身ぶりをとってしまう。
そういえば、時代劇でも殿様が家来に「頭を上げい」と命じている。

金と銀が人々を魅了するからくりがわかったような気がする。

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