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2017年3月26日 (日)

青と緑(その4)

色は光の中に秘められている…。
くりかえし私はそう言ってきた。

だから、光を分光器にかければ色のスペクトルが得られる。

赤橙黄緑青藍紫。
そんな呪文めいたことばで、わたしたちはスペクトルの順番をおぼえている。

色をあらわす光の波長は連続量である。
だから緑と青は隣り合っているけれど、はっきりした境界はない。

緑の世界があり、緑のようでもあり青のようでもある領域を通過して、青の世界に至る。
光の世界を旅していると、生命を感じさせる緑の世界から、いつのまにか深い青の精神世界に包まれていることに気がつく…。
そんな感じだろうか?

緑の絵の具と青の絵の具を同量まぜあわせると、どんな色になるだろう?

「あおみどり」という色名があるけれど、あんな色になるのだろうか?
実際に絵の具を買ってきて実験してみればすぐにわかることだけれど、あいにくその時間がない。

いずれにせよなんとなくくすんだ感じがして、魅力がない。
緑でもなく青でもないどっちつかずの立ち位置がわざわいしたのだろうか?

緑青、ろくしょうということばもある。
銅の表面に生じるさびである。
どう見ても明るい緑で、青を感じる余地などないのに、どうして青がくっついているのだろう?

青緑といえば、英語ではシアンというそうだ。
シアンに加えて、マゼンダ、イエローというのもある。
パソコンのインクでおなじみだ。

このシアンとマゼンダ、イエローが色材の三原色になる。

シアンとマゼンダを混ぜると青ができる。
シアンとイエローを混ぜると緑ができる。
マゼンダをイエローと混ぜると赤ができる。
そして、三つを混ぜると黒になる。

逆に、こうして生まれた青、緑、赤が今度は光の三原色になる。

青と赤を混ぜるとマゼンダができる。
赤と緑を混ぜるとイエローになる。
緑と青を混ぜるとシアンになる。
そして三つを混ぜると白になる。

色と光の世界にも神さまが仕組んだ予定調和が働いているのだろうか?

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2017年3月19日 (日)

青と緑(その3)

前回の記事をお読みになった方は、「こいつは青に肩入れしているな」と感じられたかもしれない。

正直に告白するけれど、色とことばを訪ねるこの長い旅のおわりに、私は青の精神性を再発見したような気分になっている。
だから、青にひいきしていると受け取られても否定することはできない。

はじめにお話ししたことだけれど、青と緑は同類である。
逆にだからこそ何かと張り合う関係にある。

好感度からすれば、緑のほうが上かもしれない。
しかし、私のように青に比べて緑は俗っぽい、と感じる人間もいる。

実際のところ、青と緑はどちらの方がえらいのだろうか?
たとえば、任意に100人を選んで「青と緑、どっちが好き?」というアンケートを取ったらどんな結果が出るだろう。

世代によって、男女によって、あるいは国によって違う傾向が出るかもしれない。
興味深い。

青と緑の選好に関して、どなたか大がかりな国際共同研究をやっていただけないだろうか?
あるいはすでにそんな研究がおこなわれているのなら、ご教示を賜りたい。

単に人々の選好だけでなく、青と緑はさまざまな視点から比較研究することができる。
たとえば、他の色との組み合わせを考えてもいい。

他の色との組み合わせといえば、次のような歌がすぐに脳裏に浮かぶ。

「白鳥はかなしからずや、海の青、空のあをにも染まずただよふ」

大空と大海原をひとまとめにした青い大きな空間。
一羽に小さな白い鳥が、その空間を漂っている。

青と白の色彩のコントラストが何とも印象的である。
青の世界に同化できない小さな白鳥は、孤独なのかもしれない。

この青を緑に置き換えた場合、どんな詩ができるだろう?
あざやかな新緑の森の小径を、真っ白なドレスと帽子をかぶった娘が散歩している情景を想像してもいい。

若山牧水なら、緑と白のコントラストから生命の躍動を歌い上げるかもしれない。
そこへゆくと、青と白のコントラストは静謐である。

うーむ、甲乙つけがたい。
結局、人それぞれの好みの問題に帰着する問題かもしれない。

「春を愛する人は…」から始まって四季を比較する歌があったけれど、「青を愛する人は…、緑を愛する人は…」という歌があってもいい。

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2017年3月12日 (日)

宮沢賢治と青

宮沢賢治の童話、それほどたくさん読んだわけではない。
それでも賢治と聞くと、なぜか青色を連想してしまう。

賢治とは関係ないけれど、松本零士さんの「銀河鉄道999」の影響だろうか?

もちろん、メーテルの長い金髪や登場するキャラクターの衣装をはじめさまざまな色があらわれるけれど、何となく青が支配しているような雰囲気がある。

銀河鉄道が疾走する虚空は印象的な濃紺に描かれている。
憂いを含んだメーテルの表情も、青に結びつく。

そうそう、賢治の作品に戻らなくちゃ。

静まりかえった虚空に街灯がひとつ、青白い燐光を放っている。
そんなイメージ。

どうして宮沢賢治とそんなイメージが結びつくのか、自分でもよくわからない。
断片的に読んだ賢治の文章がそんなイメージを育んだのだろうか?

たしかに賢治の作品には色彩語がよく登場するし、その中でも青が主調をなしているような印象がある。
賢治が生まれ育った花巻周辺、北上地方の風土が賢治の心を青く染め上げたのかもしれない。

むかし、私も八月の終わりのころ北上地方を訪れたことがある。
夏だというのにうすら寒かった。

深く青い東北地方の空、その空の色を映す北上川…。
寒色の青が、北上地方によく似合うことが身にしみてわかった。

この色彩と言語シリーズのはじめのほうで、青と緑を比べてみたことがあった。

青は抽象的でその分精神的。
緑は具体的で即物的。

緑色は、そこらへんにある木の葉っぱをちぎることで簡単にその色をみずからの手で確かめることができる。
しかし、青はそうはいかない。

空の青にしろ、海の青にしろつかみどころがない。

空が青いのも、海が青いのも何ひとつ事物の裏付けがあるわけではない。
わたしたちの感覚がそう信じているにすぎない。
ひょっとすると幻かもしれない。

だから、青は精神的なのだ。
だから、青は文学によく似合うのだ。

文学だけでなく、芸術全般によく似合う。
ピカソにも青の時代があった。

そう考えると、宮沢賢治と青の結びつきも納得できる。

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2017年3月 5日 (日)

金色と銀色(その2)

金色と銀色には、マンセル値がない。
したがって、色ではない。
物体表面の光学的状態をあらわしているにすぎない…。

色彩学の見地からはそんなふうに片づけることができるかもしれない。

それでも、金色と銀色はわたしたちを魅了する。
金と銀をめぐって、悲喜こもごもの物語が歴史上繰り返されてきたことをわたしたちは知っている。

金と銀は貨幣の姿をとってわたしたちを誘惑する。
装身具や装飾品として、ステイタスを誇示する小道具として用いられる。

ただし、金ぴかや成り金ということばもある。
やりすぎると品を落とす。
その意味であやうい位置にあるということもできる。
その点、黒のほうが高貴さを演出する色としてはうわ手かもしれない。

それはさておき金と銀が人を魅了するのは、とにもかくにも「輝き」を放っているからだ。
「輝き」がなければ、金も銀もただの黄色や灰色と変わらない。

前回もお話ししたことだけれど、「輝き」という現象はわたしたちの「まぶしい」という感覚とセットになっている。
「まぶしさ」を感じなければ、「輝き」という現象も成立しない。

「まぶしい」という形容詞は「まばゆい」ともいう。

この場合の「ま」は、「目」の意味だろう。
目に過剰な光が映えて(はゆる)、まぶしいのだ。

あまりにまぶしいと、わたしたちは目を閉じたり顔をそむけたりしなくてはならない。
その意味で輝きには、攻撃的な性格がある。

まぶしさをもたらす光源は金や銀である。
お日さまである。
あるいは若さであったり美しさであったりする。

その圧倒的な、攻撃的な輝きをわたしたちは直視していられない。
つい頭を下げ、恐縮する身ぶりをとってしまう。
そういえば、時代劇でも殿様が家来に「頭を上げい」と命じている。

金と銀が人々を魅了するからくりがわかったような気がする。

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