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2017年2月26日 (日)

金色と銀色

金色 銀色 桃色吐息…。

前々回、ちょっと登場した高橋真梨子さんの「桃色吐息」にはこんなフレーズもあった。
桃色を導き出すために、金色、銀色が用いられている。

この作詞上の技巧についても考察したいところだけれど、いまは色がテーマだから残念ながらパス。

金色と銀色について考えてみたい。

色名としては、事物の名を借りて色の名前とするありふれた方式である。
金塊の色が金色だし、虫歯にかぶせた金属の色が銀色である。

問題は、色彩学の体系の中で金色、銀色をどう位置づければいいか、ということだ。

前回、色は光の中に隠れている、というお話をした。
しかし、光のスペクトルの中に金色、銀色はない。
つまり、金色、銀色は固有の波長を有していない。

だとすれば、金色、銀色は色ではないのだろうか?
白や黒は色ではないのだろうか、という疑問とはまた違った意味で疑問が広がる。

金塊に光を当てれば、金色に輝く。
銀の食器に光を当てれば、同じように銀色に輝く。

前回は、「もの」は光と出会うことによって「いのち」を得て、光の中にある「いろ」を顕現させるというメカニズムをお話しした。

しかし、金色や銀色は光のスペクトルの中にはないのだ。
じゃあ、この色はどこから発するのだろう?

金色や銀色が、赤や青や緑などふつうの色とちがうところは「輝き」である。
ここに問題を解くカギがありそうな気がする。

この「輝き」の物理的実体は何だろう?

金属光沢、といって片づけている人が多い。
つまり金属に光を当てた時の反射が「輝き」の実体だというのだ。

じゃあ、黄色に金属光沢を加えれば金色になる?
灰色に金属光沢を加えれば銀色になる?

余りにも安易な考え方と思う。
もう少し、「輝き」という現象を掘り下げねばなるまい。

「輝き」という現象が成立するためには、人間側の「まぶしい」という感覚とセットにならなければならない。
だから、金属だけでなく太陽も輝いているのだ。

そう考えると、「輝き」は物性の問題ではなく人間の認知の問題なのでなないかと思われてくる。

金色、銀色は光のスペクトルには含まれていない。
その意味では色の異端児だ。
そのかわり、人間の認知のあり方や価値観と深く結びついている。

金色、銀色は輝いている。
そして、人々はその輝きに魅せられている。

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2017年2月19日 (日)

色即是空

前にも言ったことだけれど、もしこの世に色がなければどれほど味気ないことだろう。
ひからびた、生気のない、色あせた世界…。

そんな世界にわたしたちは生きたくない。
初期の電気工学者や技術者たちがカラーテレビ開発にかけた情熱がよくわかる。

この世の「もの」には色がある。
というより、色は光の中に隠れている。

「もの」は光によって「いのち」を与えられ、光の中の「いろ」を顕現させるのだ。

そう考えれば、この世に存在する生き生きとした「もの」を「いろ」ということばで言い換えてもそれほど見当外れではない。
こうして、「いろ」は「いのち」ある「もの」をはるかに超えて、この世の「かたち」ある「もの」すべてをあらわすことになる。

般若心経にある色即是空の「色」は、そんな意味だろう。

だから、伊藤比呂美さんは

「色不異空」について、「『ある』は『ない』にことならない」
「色即是空」について、「『ある』と思っているものは じつは『ない』のである」

と訳している。

こうして「色」はセクシュアルな意味をはるかに超えて、この世の存在物そのものまで意味するようになった。

般若心経は、その「色」が「空」なのだという。
「ある」は「ない」のだという。

うーむ。どうしたものだろう?
かくなる上は「空」とは何かを明らかにすべきだけれど、私のように修行の足りない身の上では到底理解できない気がする。

かりに「空」をふつうの意味での「ない」と解釈すればどうなるか?

「色」はセクシュアルな意味も帯びているので、あまり「色」にこだわるとわたしのような凡人は心にさざ波が立つ。
つまり煩悩が生じる。

そこで、般若心経の教えに従って「色」=「空」と観じることによって「色」へのこだわりが消え、苦しみも迷いもなくなる、ということだろうか?

しかし、これは安易にすぎる解釈のような気がする。
悟りの境地はそう簡単には得られないはずだ。

「色」について、「空」についてまだまだ勉強が足りないことを痛感する。

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2017年2月12日 (日)

色と性

少し前に、英語の「ピンク」と日本語の「桃色」はその成り立ちが同じだというお話をした。
どちらも事物に名を借りて、その色の名前としている。

ところで英和辞書によれば、英語の「ピンク」は赤ん坊の肌を連想させ、健康、若さ、活力、純真、新鮮さを象徴するのだそうだ。

日本語では、新芽のように若々しい児、という意味で乳児のことを「みどりご」と呼んだ。
英語の「ピンク」の象徴的意味を日本語は「みどり」に託したのだ。

日本語で青二才というところを英語では「このグリーン野郎!」とののしるなど、色の名前が持つ象徴的意味の諸言語間のずれはまことに興味深い。

そういえば、日本語で「ピンク映画」というところを(最近あまり言わないな)、英語では「ブルーフィルム」という。
日本語話者は、赤ん坊の肌よりも若い女性の肌を連想したのかもしれない。

そういえば、高橋真梨子の「桃色吐息」なんてなまめかしい歌もあったなあ。
「桃色」という色名の象徴的使用が、その雰囲気をかもしだす。

こうして、「ピンク、桃色」にセクシュアルな象徴的意味が込められたのだけれど、日本語では「いろ」という語そのものにセクシュアルな意味がある。
英語の「カラー」に、そんな意味はない。

日本語では「色男」とか「色気」とか「好色」と言ったりする。

漢字の「色」には、その成り立ちからセクシュアルな意味が備わっている。
というよりも、セクシュアルな意味が原義といってもいい。

しかし、漢字伝来が契機になって和語の「いろ」がセクシュアルな意味を帯びるようになったのではあるまい。
漢字の「色」にかかわりなく、和語の「いろ」にはもともとセクシュアルな象徴的意味があったと考えるべきだろう。

ただ、漢字の「色」とちがって、和語の「いろ」がその原義としてセクシュアルな意味を含んでいたということではあるまい。
「いろ」の原義はあくまでも物理的な色彩にあったのだと思う。
あくまでも派生的にセクシュアルな意味を獲得したに違いない。

前回登場した「みず」はさておき、地球上のほとんどの「もの」は、物理的色彩という意味での「いろ」を有している。
その「いろ」を知覚することで、わたしたちは何を感知するだろうか?

そう、「いのち」である。
モノクロームの、色あせた世界にわたしたちは「いのち」を感じない。

世界のさまざまな「もの」は光と出会うことによって「いろ」を発する。
地球上のいのちの源泉であるお日さまの光によって、「もの」の「いのち」は輝きだす。

そして、「いのち」は容易に性と結びつく…。
きっとこのような次第で和語の「いろ」はセクシュアルな意味を獲得したのだ。

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2017年2月 5日 (日)

みずいろの謎

前回お話しした「恋はみずいろ」には、英語バージョンもある。
ヘザーという女性歌手が歌っていて、タイトルは「Love is blue」とフランス語版の直訳になっている。

しかし、歌詞の中身はかなり改変されているようだ。

色名が五つも出てくる。
青、灰色はいいとして、赤、緑、黒が追加されている。

赤は泣きはらした目。
緑は嫉妬する気持ち。
黒はひとりさびしい長い夜。

赤、黒はわかるが、なぜ緑が嫉妬する気持ちをあらわすのだろう?
そう思って、英和辞書を引いてみるとたしかに「嫉妬深さを暗示する」とある。

日本語では「あお」が担っている未熟の意味が英語では「green」が担っていることと思い合わせれば、「green」には結構ネガティブな意味が含まれているようだ。

日本語と英語では、青と緑の役割が反転しているようでおもしろい。

ところで「みずいろ」について考えてみたい。

どの言語でもそうだけれど、基本色名以外は事物の名を借りて色名とするのが普通だ。
日本語なら、だいだい色、鼠色、茜色、藍色などのように。

「みずいろ」もその方式だけれど、だれでも知っているように水は無色透明だ。
色がないのに、どうして色名として通用しているのだろう?

辞書で「みずいろ」を引くと、「うすい青色」と出ている。
そして、わたしたちもその意味で用いている。
「みずいろ」と聞くと「うすい青色」を思い浮かべる。

しかし、コップの中の水をいくら凝視してもそんな色は見えない。

「みず」と「うすい青色」は、どんなメカニズムで結びついたのだろう?
やはり水面に映る空の青からの連想だろうか?

しかし海面や湖面、池の水面をよくよく見るととても「うすい青色」には見えない。
青黒かったり、暗緑色だったりする。

同じ事物の名を借りて色名とするのでも、この点でだいだい色や鼠色などとは根本的に異なる。
どうして、事実とかけ離れた「みずいろ」が堂々とまかり通るのだろう?

「みず」の「いろ」は「みずいろ」じゃないのに、「うすい青色」を指してわたしたちは「みずいろ」という。
どこかで巧妙なすりかえが行われている。

あるいは、物理的な色彩とはかかわりなく、わたしたちの意識の中で何らかのメカニズムによって「みず」と「うすい青色」の観念連合が成立したのかもしれない。

だとすれば、そのメカニズムが謎である。

言語におけるこの手の謎やすりかえは、色名以外の分野でも行われている。
以前このことにふれた記憶があるのだけれど、ずいぶん昔のことなので内容は忘れてしまった。

(「恋はみずいろ」の英訳詩については、penさんのブログを参考にさせていただきました)

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