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2016年12月31日 (土)

色の名前(その3)

バーリン&ケイの「基本の色彩語」という本には、色彩語の系統発生というおもしろい説が紹介されている。
世界の諸言語には普遍的な11種の色彩カテゴリーがあり、その発生の順序も決まっている、というのだ。

論証がわりに雑だから、この説が正しいかどうかはわからない。
しかし、話としてはおもしろい。

まず最初に白と黒。
つぎに赤。
その次は、緑または黄。
続いて青。
そして茶。
その後は、紫、ピンク、オレンジ、灰が順不同で続くのだそうだ。

この順序にはそれなりに深い意味があるような気がする。

白と黒が最初に発生する意味。
白と黒は喪の色である。
人間は喪の儀礼をおこなうことによって人間になった。
白と黒が最初に発生する意味がわかるような気がする。

そして、喪の儀礼を行ったうえで生命が意味づけられる。
生命の象徴である赤が次に来るのもよくわかる。

さて、次が問題だ。

白、黒、赤までは同じだが、日本語の場合は緑や黄ではなく青が先行する。
そして、基本4色名をなす。

緑ではなく、青が優先するのだ。
日本語では、青のほうが緑よりも日本語話者の心深くに浸透している。
このことは少し前にちょっと触れた。

緑は葉っぱや草など自然界の具体物と直結している。
しかし、青はそうじゃない。
空や海の色といっても、この手でつかめる具体物じゃない。
その分、抽象性が高いのだ。
だから、人の心深く浸透していける。

この点、青よりも緑を優先する言語圏ではどのように受け止められているのだろう?

緑と青はスペクトル上で隣り合っていて、その関係は微妙だ。
おそらく日本語以外の言語でも、青と緑の関係は複雑な問題を抱えていると思う。
青と緑は多くの言語でオーバーラップしている。
日本語の場合、それが交通信号の「青信号」問題という形であらわれる。

青のあとに、緑または黄、そして茶が続くという順序は、前々回の個別色名の検討を思い出してもうなづける。
これらの色は、基本4色に近い位置にある。
言語によっては、青と緑が入れ替わる。

さらにそのあとの紫、ピンク、オレンジ、灰は、まあどうでもいい。
白、黒、赤、青、緑、黄、茶あたりまでが、人間にとって意味の深い色名なのだと思う。

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2016年12月24日 (土)

色の名前(その2)

いま、この世には光があふれ色彩に満ちている。

思い起こせば天地創造のみぎり、神さまはまず「光あれ!」と第一声を発して下さった。
ありがたいことである。

光があるからわたしたちは明るい気分になれるし、さまざまな色があるから心も豊かになる。
光があっても色がなければ、この世は何とあじけないことだろう!

さいわい私は白黒テレビの時代を知っている。
色を失った世界はあんな世界なのだ。

赤から紫まで、可視光線のスペクトルは連続量である。
だから論理的に言って、色彩の種類は無限である。

たとえば青と緑は、スペクトル上で隣り合っている。
青に近い緑から、緑に近い青まで切れ目がない。

そのわりに、世界のどの言語でも固有の色彩をあらわす語は少ない。
前回もお話ししたように、日本語では白、黒、赤、青の4つだ。
他の言語でもよく知らないけれど大同小異だと思う。

あとは事物の名前を借りてその色の名前としたり、複合的説明的な語を作って表現している。

たとえば英語でも、「ピンク」というのはなでしこが原義だそうだ。
その花の色から「ピンク」という色の名ができた。
日本語の「桃色」と同じだ。

「パープル」という語も、原義は甲殻類からとれる紫の染料だそうだ。
日本語の「むらさき色」と同じだ。

無数に存在する色彩からどの色を基本色として取り出し、固有の色名を与えるのだろう?
そこには人類の感覚の秘密、その感覚を表現する言語の秘密がひそんでいるような気がする。

だから、心理学者や言語学者のみなさんにはもうひと頑張りしていただきたい。

さて、白と黒は色の名前かどうか?
ここまで意識的にあいまいにしたままやってきた。

定義的にはすでにお話ししたように、白や黒は可視光線のスペクトル上には存在しない。
つまり色彩ではない。

しかし、赤や青や緑や黄色などの背後には白と黒が無言で控えている。
色彩の明度を決定するために、なくてはならない役割を果たしている。

色じゃないからといって、仲間はずれにするわけにはいかない。
だから、世界の諸言語では白と黒に特別の地位を与えている。

そのことは次回にお話ししよう。

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2016年12月18日 (日)

色の名前

方舟さんもおっしゃっているように、日本語には固有の色の名前は4つしかない。

白、黒、赤、青である。

あとはみな、事物の名前を借りて色の名としている。

たとえば、だいだい色はだいだいの色。
藍色は、阿波の名産、藍の発する色。
紫色は、紫草からとれる染料の色。

といった具合に。

茶色はお茶の色だろうか?
広辞苑には、「黒味を帯びた赤黄色」とある。
固有の色名の助けを借りて定義されている。

黄色はどうだろう?
辞書を調べても「き=黄」という具体的な事物が特定されるわけではない。
固有の色名といってもいいような気がするが、微妙だ。

そういえば、緑も微妙である。
「みどり」という語も、特定の具体物との結びつきは認められない。
固有の色名に限りなく近い。

たしかに黄や緑は、基本4色に限りなく近いけれども越えられない壁もある。

試みに形容詞語尾「い」をつけることができるかどうか、テストしてみればいい。

基本4色には文句なく「い」をつけることができる。
しかし、黄や緑にはつけることができない。

「赤い靴」とは言えても「黄い鞄」とは言えないのだ。
「青いズボン」とは言えても「緑いシャツ」とは言えない。

どうしても言いたければ、「黄色い鞄」と「色」を補って言わなければならない。
緑にいたっては、「緑色いシャツ」とも言えない。
「緑色のシャツ」あるいは「緑のシャツ」と「い」抜きで言わなければならない。

その点、茶色は「茶色いたんす」とも「茶のたんす」とも言える。
緑と黄の中間に位置しているのかもしれない。

上に検討した個別の色の名のほかは、みな基本4色との距離は遠い。

日本列島は四季の変化に恵まれている。
当然、色彩もきわめて豊かだ。

だから色を表現する語も、ずいぶん発達している。
繊細な使い分けもできる。
茜色、萌黄色、薄墨色、利休鼠…。

しかし多くは説明的な複合語で、具体的な事物を離れると意味を失う色名である。
なぜ普遍的な色の名がこれほど限られているのか、考えてみれば不思議である。

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2016年12月10日 (土)

「しろうと」と「くろうと」

白や黒が、赤や青と同じように色彩といえるかどうか、前に少し考えたけれどあえて結論を出さなかった。
それはさておくとして、白や黒もやはり象徴的な使われ方をする。

早い話、犯人はクロだし犯人じゃない人はシロだ。
この場合、クロもシロも黒や白とは何の関係もない。

白と黒は対をなす語だから、「しろうと」、「くろうと」という表現がある。

「しろうと」は「白い人」の転訛だけれど、別に色白の人がアマチュアというわけではない。
「くろうと」は「黒い人」の転訛だけれど、別に色黒の人がプロというわけではない。

これもまた象徴的使用の典型である。
なぜ白がアマチュアを、黒がプロを象徴するようになったのだろう?

辞書によれば「しろうと」は、「ある物事に経験のない人」、「そのことを職業としない人」、「専門でない人」とある。
つまり「ない」が中核の意味である。

空白という語があるように、白には「ない」という意味もある。
だから、経験や専門が「ない」アマチュアを「白い人」と呼ぶようになったのだろうか?

そのうえで、経験や専門が「ある」人のことを、白の対語である黒を用いて「黒い人」と呼ぶようになったのかもしれない。

たしかにプロの域に達するようになると、手仕事の道具でも使い込んで黒ずんでくる。
だから、「くろうと」と呼ぶ感覚もわからぬではない。

しかし、この表現にも不都合な点がある。
なぜなら、形容詞「くろい」は「くらい」にも通じているからだ。

「私はその方面には暗くてよくわかりません」などという。

その方面に暗い人が、なぜ「くろうと」つまりプロなのだ?
たしかに黒は白の対語だけれど、「しろうと」の反対だからという理由だけでプロのことを「くろうと」と呼ぶのはおかしい。

もし私がことばの生成にかかわる古代人だったとしたら、その方面に暗い人つまりアマチュアこそ「くろうと」と呼びたい。
そして、その方面にくわしい人つまりプロを「あこうど」と呼ぶ。

なぜか?

広辞苑の「赤」の項には、「一説に、くろ(暗)の対で原義は明の意という」とある。
黒の反対が赤なら、アマチュアの反対のプロは「赤い人」でもいいのだ。

「赤」は「明」である。
明るいと物事がはっきりくわしく見ることができる。
物事にくわしい人つまりプロは「あこうど」なのだ。

以上は私の「しろうと考え」なのだけれど、本当のところ「しろうと」と「くろうと」のセットがどのように成立したのか、そのプロセスが知りたいものである。

どなたかご教示をいただけないだろうか?

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2016年12月 4日 (日)

色と象徴(その3)

前回の最後のほうは、黄色について考えてみた。

他の色と同じく、黄色も象徴的な使われ方をする。
たとえば、スタジアムで女の子は黄色い声を上げる。

あまり耳に快い音声とはいえない。
落ち着きのない音声である。

そのような音声を表現するのに、黄色という色彩を持ち出している。
物理的色彩を離れた象徴的意味を込めているのだ。

音声に色などあろうはずがないのに、わたしたちは平然と色で表現する。
いかに色の象徴性が強烈であるかの証左だろう。

少し前に取り上げた「真っ赤なウソ」や「赤の他人」という表現も同断である。
物理的色彩とは何の関係もないきわめて象徴性の高い表現だ。
赤の鮮烈な印象を活用して、「うそ」や「他人」を強調する戦略だろうか?

たとえば、小さな子どもたちがお日さまを描く。
真昼のお日さまでも、赤いクレヨンで描く。

本当は真昼の太陽が赤いはずがない。
太陽が赤いのは夜明けと日没のときだけである。

なのに子供たちは真昼の太陽を赤く描く。

色の象徴性があまりにも強烈であるために、「お日さま=赤」という記号的関係が実際の視覚経験を超えて幼い子供たちまで支配しているのだ。

そういえば、水色という色名もある。

だれもが知っているように、水には色がない。
水は光を透過するために無色透明なのだ。

にもかかわらず、水色と言えばわたしたちは淡い青を想起する。
物理的色彩などおかまいなしに、水色という表現をする。

強烈な象徴性が、「水=青」という虚構の記号的関係を成立させるのだ。
実際の色覚にかかわりなく、象徴性がわたしたちの心に組み込まれてしまっている。

本当は海の色だって青いのかどうか。

海辺に立って眼前に広がるその色をありのままに表現しようとすると、案外難しい。
その日のお天気や時刻によってずいぶん違う。

いま、わが家の窓から瀬戸内海が見える。

その色はとても「青!」とは言い切れない。
わずかに青みがかった白、あるいは灰色…。
それとも、「にびいろ」と言ったほうがふさわしいだろうか?

それなのにわたしたちは、「目の前には青い海が広がっている」と表現してそれですませてしまう。
ちょっぴりやましさを感じながらも…。

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