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2016年11月27日 (日)

色と象徴(その2)

赤は生命や活力を象徴する。
そして、同時に危険も象徴する。

どっちに転んでも、興奮色だ。

そこへ行くと、青や緑は鎮静色である。
青は鎮静を通り越して、憂鬱さえ含意する。

みなさんも、たまにはブルーな気分に陥ることがありますよね?

辞書によれば「あお」の語義には憂鬱はないから、これは英語の影響かもしれない。
しかし、日本語話者にとっても青と憂鬱はごく自然につながっているように感じる。

憂鬱につながるから、緑ほど好感度が高くないのだろうか?

グリーンな気分、という表現はない。
無理に表現してもピンとこない。

心理表現には、緑じゃなく青が用いられる。

「蒼い時」や「蒼き狼」、「青の時代」といえば文学的な想像力が刺激される。
しかし「緑の時」や「緑の狼」ではいまいちイメージがふくらまない。

この事実は、青のほうがわたしたちの心に深くしみ込んでいることを示しているのかもしれない。

たしかに緑は好感度が高い。
しかし、その好感はうわべだけの底の浅い感覚なのだ。

緑が象徴する自然豊かな環境にいると気分がいい。
緑とわたしたちの関係は、それだけの単純なつながりである。

緑は葉っぱや草などの具体物が発する色である。
それに対して、青は空の色であり、海の色である。

つまり、青は具体物を超えた無限や空(くう)につながる色である。
わたしたちの心との内面的な結びつきは、緑に比べてはるかに深い。

車のボディカラーは車の性能とは何の関係もない。
だから、色の選択はもっぱらわたしたちの心の問題である。

緑が選ばれず青が選ばれるのは、そのあたりに理由があるのかもしれない。
緑信号ではなく青信号と呼ばれるのも、同じ深層心理的な理由によるのかも知れない。

ところで交通信号では、赤と緑にはさまれて黄色がある。

黄色は「止まれ」でもなく「進め」でもなく、「気をつけろ!」というメッセージを発している。
過渡的な、中間的なメッセージである。
落ち着きのない色である。

ヨーロッパではマリアテレジアンイエローなどといって、わりに好感度が高そうである。
前にもお話ししたように、ヨーロッパの街角では黄色の車をよく見かける。

しかし日本ではあまり評判がよくない。
エキセントリックな印象を持たれている。
ほとんど経験がないけれど、街で黄色の車を見かけると芸能人が運転しているのかと思ってしまう。

黄色の服は着こなしがきわめて難しい。
取扱注意の色なのだ。

うかつに黄色を扱うと、足をすくわれそうな気がする。
だから「気をつけろ!」にはぴったりなのかもしれない。

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2016年11月19日 (土)

色と象徴

色の名前は、きわめて象徴的な使われ方をする。
しかし、その象徴性は一筋縄ではいかない。

前回の最後はそんなお話をした。

たとえば、黒は闇や死や悪を連想させる不吉な色である。
「あいつは腹の黒い男だ」などとけなしたりする。
「ブラック企業」なんてことばもある。
ろくでもない、嫌われる色なのだ。

かと思えば、「黒塗りの高級車」などという。
前回もお話ししたように社長は黒塗りの高級車に乗っている。

なんと黒は高貴の象徴でもあるのだ。
ファッションの世界でも、川久保玲のように黒をうまく使いこなして成功したデザイナーがいる。
そう考えれば、黒は正反対の象徴性を同時に帯びていることになる。

白だってそうだ。
白は婚礼衣装の色であると同時に喪服の色でもある。
白もまた正反対の象徴性を同時に帯びている。

赤の象徴としての両義性は前回お話しした通りだ。

赤は血の色である。
そこから、赤が生命や活力を象徴するようになった経緯はよくわかる。

同時に血が流れることは、生命の危機でもある。
そこから、赤が危険を象徴するようになった経緯もよくわかる。

つまり赤の場合、象徴の両義性のメカニズムはわかりやすい。

ただ、「真っ赤なウソ」や「赤の他人」という表現における象徴的使用はどうだろう?
強調のニュアンスを表したいという発話者の意図はわかるが、それは生命や危険という意義からの派生だろうか?
それとも、さらに別の起源をもつ意義だろうか?

赤の象徴性は両義的にとどまらず、さらに多義的なのかもしれない。

緑は植物の色である。
だから緑が自然環境を象徴する経緯はよくわかる。

森に分け入ると、わたしたちの心は緑に染まる。
そして、心が鎮静し癒される。
安全という概念との結びつきは、そこから派生したのかもしれない。

にもかかわらず、青い車は走っているのになぜ緑の車は走っていないのか?
車のボディカラーの分野に、緑の進出を阻んでいる壁は何なのだろう?

ひょっとして、「緑=安全」という象徴性のあり方自体に問題があるのかもしれない。

はじめにお話ししたように、色はきわめて象徴的な使われ方をする。
しかし、色の象徴性の成立のメカニズムはどのようなものなのか?
研究はまだあまり進んでいないように思う。

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2016年11月13日 (日)

緑と象徴(その2)

前回は最後に「みどり」にかかわるふたつの疑問を呈して、これらふたつの疑問の背後には何か共通する秘密が隠されているのかもしれない、と思わせぶりに締めくくった。

しかし、その共通の秘密を性急に探求することはしない。
ことばのあれこれを気ままに訪ねる旅を続けているうちに、どこかでその秘密に出会えるかもしれない。

それよりも、もう少し車の色について考えてみたい。

車は今やわたしたちの生活必需品だ。
新車を購入するとき、もちろん性能や価格が最優先される。
しかし、ボディカラーもそれに劣らず重要な選択基準だと思う。

みなさん何を基準に色を選んでいるのだろうか?

前回もお話したように、駐車場に止まっている車をざっと見わたせば8割が黒、白、グレー、シルバーなどの無彩色系である。
残りの2割が赤、青などの彩色系だ。

車の色の好みには国民性があらわれるという。
たしかに、映画を見ているとヨーロッパでは日本より彩色系の車が多いような印象を受ける。
黄色の車が、石畳の路上に駐車しているのをよく見かける。

ともあれ日本では無彩色系が支配的だ。
白やシルバーは汚れが目立ちやすいという欠点があるにもかかわらず、多数派を占めている。
黒も不吉な色というイメージがあるにもかかわらず、社長車の定番として不動の地位を占めている。

やはり、余計な自己主張は避けたい、という意識が働くのだろうか?
それで、無難な色が好まれるのだろうか?

何を隠そう、私の車もメタリックシルバーである。
やはり無難にやりすごそう、という意識が働いたのかもしれない。

そこへいくと、彩色系の車は自己主張が激しい。
車を通じて自分をアピールしたい、という人が赤や青の車を購入する。

そこで不思議に思うことがひとつある。
車の運転には、危険、そしてその反対の安全という意識が常について回る。

そのことを考えれば、危険の象徴である赤がなぜ彩色系のなかでよく選ばれるのだろうか?
反対に安全の象徴である緑がなぜ選ばれないのだろうか?

緑や赤が安全危険の象徴であるとすれば、世の中には緑の車があふれ赤の車などありえないはずだ。

しかし現実は逆である。

街中を赤い車が走っていても、不思議に危険を連想しない。
むしろ、「活力」といったものを感じる。

反対に街中を緑の車が走っていたら「趣味が悪いな」と思ってしまう。
安全などこれっぽっちも連想しない。

なぜだろう?

車は交通安全に直結している。
にもかかわらず、車の色は安全危険の象徴性をまったく発揮していない。

色や色彩語はきわめて象徴的な使われ方をする。
しかしその象徴性は一筋縄ではいかないのだ。

追記

前回、かつての天皇誕生日が「みどりの日」に衣替えした、というお話をした。
しかしこの表現は正確じゃなかった。
たしかに2006年までは、4月29日が「みどりの日」だった。
しかし、2007年からは「昭和の日」に改称され、それに伴って「みどりの日」は5月4日に引っ越しをした。
同じゴールデンウィーク中の変更だったので、ついうっかりしていた。
調べもせずに書くとこういう恥をかく、という見本ですね。
ご指摘いただいた方、ありがとうございました。

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2016年11月 6日 (日)

緑と象徴

JRは安全性をアピールするために、グリーン車や「みどりの窓口」など緑という色彩語を戦略的に使っている。

グリーン車に乗りこんでも、別に車内が緑色に内装されているわけではない。
みどりの窓口といっても応対する社員の制服はブルーだ。

つまり「みどり」、「グリーン」という語は、色彩を表現するために用いられているわけではない。
実際の色彩とは何の関係もなく、象徴的に用いられているのだ。

そこに込められた象徴的意味は「安全」である。

以前お話ししたように、緑には「若々しい」という象徴的意味もある。
しかしJRの場合、「若々しい」という象徴的意味は込められていない。

グリーン車に乗りこんでも若者があふれているわけではない。
むしろ年配の乗客がほとんどだ。

やわらかな新緑の若葉を見れば、そこから「若々しい」という象徴的意味が発生してくるのは納得できる。
しかし緑という色彩語と「安全」という概念の結びつきは、直観的には分からない。

それから緑には「自然環境」という象徴的な意味もある。
ドイツには「緑の党」という政党がある。
日本でもかつて天皇誕生日と呼ばれた休日が今では「みどりの日」になっている。

「安全」とちがって、「自然環境」と緑の結びつきはより直接的だ。
初夏の森に分け入ってみると、心まで緑に染め上げられそうなほど緑にあふれている。
象徴的意味というより、直接的意味といった方がいいかもしれない。

「自然環境」、「若々しさ」、「安全」という象徴的意味を持つ「みどり」は、以前もお話ししたように日本語の世界では好感度が高い。
色彩名が休日の名称に取り入れられたのは「みどり」だけである。

また「宮崎緑」さんのように、女の子の名前にもよく使われている。
「宮崎あおい」さんのように他の色彩語も用いられているけれども、「みどり」ほどではない。

それほど好感度の高い緑だけれど、なぜか進出できない分野もある。

たとえば、車の色。
駐車場にずらりと並んでいる車の色をご覧いただきたい。
ほとんどが白、グレー、黒、メタリックシルバーなどである。

その中に時折、赤や青の車が混じっている程度。
緑色の車はごくまれである。
かろうじて見かけたとしてもモスグリーンや若草色。
まともな緑とはいえない。

好感度が高いにもかかわらず、なぜ緑が車のボディーカラーに採用されないのか?
れっきとした緑であるにもかかわらず、「みどり」の語を避けてあくまでも「あお信号」と強弁するのはなぜか?

このふたつの疑問には、共通する秘密が隠されているのかもしれない。

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